獅子吼城は山梨県北杜市須玉町江草にあります。
獅子吼城地図
須玉町江草地区に入り地方道23号線のバス停湯戸橋前から市道に入り、根小屋神社の手前200mくらいの二又を戻るような坂道を登ってゆきます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4d/ac/ecfa7b0891fcc5f6c177ed669f943c12.jpg)
根古屋の大ケヤキ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/ad/e3c9f6681ca5ac3800b1dc5299ad62b6.jpg)
根古屋神社、ここから23号線の湯戸橋バス停方面に200mくらい戻ると
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/40/b2e881d947f13145c1f21017895c194c.jpg)
二又を左上に進みます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/2a/02c0bac2455c5c36ce1c7958091b7317.jpg)
集落に入って100mくらいに登り口案内があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/0a/6b0311d13951ef2632c403f92cce58ec.jpg)
こんな岩場を登ってゆきます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/d1/53e795c2ea91cf50e57be66720ee6c3a.jpg)
東曲輪」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/33/94b0b785b00530e020e492cd6bb3da67.jpg)
東第一腰曲輪
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/19/b5/1358c72c320399cf23fc9f4a1d51b956.jpg)
東第二曲輪、第三曲輪
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/fb/ba2bbd54bb9d6849533c3effb0221891.jpg)
石積(随所にあります。)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/92/cef6401102231c59463f241a4c300916.jpg)
石積の上に第二腰曲輪
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/17/bc9d4e152168c8aa04c9fbc683fe50ca.jpg)
岩場を登りきると二の丸(私見)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/c4/d35eedbfea208dd699063f2e0623bbe0.jpg)
その上に本丸
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/3c/c42a44544a2b1b0be03a16b2c275bd93.jpg)
縄張り図は「余湖くんのお城のページ」より、南下から岩場を登り、二の丸から本丸に登ってきました。図の南尾根の大きな曲輪は、おそらく私の登った登り口と違い、南尾根の遺構を見逃したようです。
獅子吼城(ししく)は本丸を中心にして、東西南北に曲輪を配している規模の大きな山城です。順次紹介してゆきます。
山梨県北杜市(旧北巨摩郡須玉町)にあった山城(やまじろ)。城は同市江草の根古屋神社の背後の山(地元では城山と呼ばれている)にあった。甲信国境近くに位置していたため国境監視とともに、当時から佐久甲州街道(現在の国道141号線)の裏街道として知られていた若神子から長野県佐久市に至る道が通っていたことから、この街道を押さえる城としても機能した。築城は鎌倉時代末期に遡り、信田氏が居城としていたともいわれるが、築城時期、築城者および築城の経緯はわかっていない。応永年間(1394~1428年)には江草兵庫助信泰(または信康、甲斐武田氏13代の武田信満の三男)が居城としていたといわれるが、その後、甲斐武田氏の一族の今井氏が居城とした。1530年(享禄3)、甲斐守護で信玄の父の武田信虎が扇谷上杉朝興と結び、朝興の叔母で山内上杉憲房後室を側室に迎えようとしたことから、今井信是・信元は信虎と対立し、翌年に飫富兵部少輔らと甲府を出奔して大井信業・栗原氏ら甲斐の有力国人領主や信濃・諏訪の諏訪頼満(碧雲斎)を巻き込んだ大規模な反乱へと発展した。諏訪氏と今井氏ら反信虎勢力は信虎が整備した笹尾塁を陥落させて甲府へと進軍したが、同年2月2日と3月3日の合戦で信虎に敗れた。その後、今井信元は居城の獅子吼城に拠って信虎に抵抗したものの、同年9月に信虎に城を明け渡して降伏した。これにより信虎による甲斐統一が達成された。1541年(天文10)、信虎の嫡男・晴信(のちの信玄)は信虎を駿河に追放して家督を相続したが、晴信は信州峠、甲州佐久街道を押さえる要所として獅子吼城を整備した。信玄が整備した狼煙台の一つとしても機能していたようである。コトバンクより
獅子吼城地図
須玉町江草地区に入り地方道23号線のバス停湯戸橋前から市道に入り、根小屋神社の手前200mくらいの二又を戻るような坂道を登ってゆきます。
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根古屋の大ケヤキ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/ad/e3c9f6681ca5ac3800b1dc5299ad62b6.jpg)
根古屋神社、ここから23号線の湯戸橋バス停方面に200mくらい戻ると
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/40/b2e881d947f13145c1f21017895c194c.jpg)
二又を左上に進みます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/2a/02c0bac2455c5c36ce1c7958091b7317.jpg)
集落に入って100mくらいに登り口案内があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/0a/6b0311d13951ef2632c403f92cce58ec.jpg)
こんな岩場を登ってゆきます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/d1/53e795c2ea91cf50e57be66720ee6c3a.jpg)
東曲輪」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/33/94b0b785b00530e020e492cd6bb3da67.jpg)
東第一腰曲輪
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/19/b5/1358c72c320399cf23fc9f4a1d51b956.jpg)
東第二曲輪、第三曲輪
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/fb/ba2bbd54bb9d6849533c3effb0221891.jpg)
石積(随所にあります。)
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石積の上に第二腰曲輪
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/17/bc9d4e152168c8aa04c9fbc683fe50ca.jpg)
岩場を登りきると二の丸(私見)
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その上に本丸
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縄張り図は「余湖くんのお城のページ」より、南下から岩場を登り、二の丸から本丸に登ってきました。図の南尾根の大きな曲輪は、おそらく私の登った登り口と違い、南尾根の遺構を見逃したようです。
獅子吼城(ししく)は本丸を中心にして、東西南北に曲輪を配している規模の大きな山城です。順次紹介してゆきます。
山梨県北杜市(旧北巨摩郡須玉町)にあった山城(やまじろ)。城は同市江草の根古屋神社の背後の山(地元では城山と呼ばれている)にあった。甲信国境近くに位置していたため国境監視とともに、当時から佐久甲州街道(現在の国道141号線)の裏街道として知られていた若神子から長野県佐久市に至る道が通っていたことから、この街道を押さえる城としても機能した。築城は鎌倉時代末期に遡り、信田氏が居城としていたともいわれるが、築城時期、築城者および築城の経緯はわかっていない。応永年間(1394~1428年)には江草兵庫助信泰(または信康、甲斐武田氏13代の武田信満の三男)が居城としていたといわれるが、その後、甲斐武田氏の一族の今井氏が居城とした。1530年(享禄3)、甲斐守護で信玄の父の武田信虎が扇谷上杉朝興と結び、朝興の叔母で山内上杉憲房後室を側室に迎えようとしたことから、今井信是・信元は信虎と対立し、翌年に飫富兵部少輔らと甲府を出奔して大井信業・栗原氏ら甲斐の有力国人領主や信濃・諏訪の諏訪頼満(碧雲斎)を巻き込んだ大規模な反乱へと発展した。諏訪氏と今井氏ら反信虎勢力は信虎が整備した笹尾塁を陥落させて甲府へと進軍したが、同年2月2日と3月3日の合戦で信虎に敗れた。その後、今井信元は居城の獅子吼城に拠って信虎に抵抗したものの、同年9月に信虎に城を明け渡して降伏した。これにより信虎による甲斐統一が達成された。1541年(天文10)、信虎の嫡男・晴信(のちの信玄)は信虎を駿河に追放して家督を相続したが、晴信は信州峠、甲州佐久街道を押さえる要所として獅子吼城を整備した。信玄が整備した狼煙台の一つとしても機能していたようである。コトバンクより