HYAKUSHOU日記

毎日の作業と暮らしといろいろの出来事

金稜辺

2010-03-30 21:10:52 | Weblog
 金とは言えども「金の成る木」ではござらぬ。
 れっきとした東洋ランの銘品でござる。
 拙者、この蘭は三十年余も知っているのでござったが、これが日本ミツバチを集める超能力を持っているとは、ついぞ知らなかったのでござる。
 別名ミツバチ蘭というようでござるのだ。
 写真は、今頃咲いてはおらぬゆえ、インターネットから拝借をしたのでござる。

 この蘭、実は鑑定士協会の会長から「手に入らぬか」と言われたのでござる。
 拙者、試験のゴマすりもあって二つ返事で「有りまっせ!」と言ったものでござった。
 心当たりがあったので、早速手配をしてみたのでござるが、御見事にあったのでござった。
 
 その先方さんと交渉の末一鉢を分けていただき、株分けをして蘭鉢に植えたのでござる。
 後で考えると、日本ミツバチを集めるのが目的でござるからして、蘭鉢へ植えることはなかったのでござるな。
 むしろ、駄音鉢でゆったりと植えるほうが良かったのかも知れぬのでござる。
 それなら生育には良いのでござろうが、鑑賞も兼ねるとなると蘭鉢の方が良いように思われるしで、「まあ、このままで良いか」となるのでござる。

 会長は一体何をされようとしているのかというと、日本ミツバチを集めるのだそうでござる。
 何かの受粉も兼ねてということでござるが、「さすが会長!」というものでござるな。
 拙者、この金稜辺に日本ミツバチがとんでもなくたくさん群がっているのを見たことがござる。
 それこそ、10匹や20匹というものではござらぬのだ。
 それこそ全部あわせると百の単位で飛び廻っていたでござろうな。

 その結果、金稜辺の種が一杯付いて、種の粒数にすると「50莢×2万粒」というところでござる。
 これが全部苗になると、100万株となるのでござる。
 無菌播種だと、生育率は30%程度と見込むからして30万株でござる。
 いやはや、拙者、世話などしたくなくなるのでござる。
 その昔、5万鉢ほど栽培したことがござったが、朝5時から2時間半みっちりと水やりでござった。

 実は、そのおかげで、拙者の体脂肪は減るし、出張った腹はへこむし、体調は良くなるしでござった。
 だから朝飯は抜くのかというと、その逆でよく食べるのでござる。
 しかしそうなるのでござる。
 「ダイエットは何とかを食べれば良い」などとほざくのは、怠けてダイエットなるものをしようとするからでござろうかな。
 1年中、朝4時半に起きて5時前から2・3時間体を動かし、朝飯をしっかりと取る、ということでダイエットになるのでござるな。

 拙宅へ、5月から8月まで草刈などにお越しなされると、確実にダイエットになるのでござる。
 朝は5時から8時まで草刈、朝飯の後は畑や稲の世話を昼前まで、昼飯後は1時間あまり昼寝でござる。
 午後3時頃からまた外仕事でござり、薄暗くなったら家へ帰るというパターンでござる。
 ゆめゆめアルバイト料や労賃を拙者からもらおうなどとは考え召されるなでござる。
 ダイエットに成功すれば、指南料として大枚をいただく所存でござる。
 それに失敗したら、それだけの支払いはいたさぬのでござる。
 逆に作業研修料として食事代や宿泊代を拙者がいただこうと思っているのでござる。
 どだい、貧乏百姓から金をとろうというのが間違いでござる。

 と落ちが付いたところで、「明日の心だ!」

雪だ!

2010-03-29 19:54:28 | Weblog
 今日は冬でござる。
 なんのこっちゃでござるな。

 夕暮れになって降り出した雪が、1時間ほどでこうなってしまったのでござる。
 一面白なのでござる。
 拙者の記憶では、4月の5日に雪が降った事と3月31日(30日?)に同じように降った事がござるが、このように積もった事はないのでござる。
 4月5日は氏神様の春祭りでござり、3月31日は苗代の耕起(今はいたさぬでござる)でござるからして、記憶に残っているのでござる。
 今日は3月29日でござるからして、「なんとまあ!という事でござるな。

 写真は降る雪でござり、遠くにかすかに田んぼの白いのがあるのでござるが、お分かりになるでござろうかの。
 窓枠にも雪がへばりつき、まったくの冬でござる。

 こんな事を言っていると、北海道や北日本の方々に笑われるやも知れぬのでござるが、やはり南北に細長い日本でござれば、季節というものがあるのでござるからして、当地ではこの時期積雪はちと珍しいのでござる。

 本来ならば、この時期「花冷え」となり寒さの中にも春を感じるのでござるが、これはまったく「花冬」でござるな。
 明日の朝はどのような景色になっているのでござろうか。
 楽しみでもありつらさもありで、複雑な感じでござる。

 本日から畦の保全を始めたのでござるが、始めると同時に雪が吹雪いてきたのでござり、
手はかじかみ作業がやりづらかったのでござる。
 お天道様がチラッと覗いたと思うと曇ってきて、横殴りの雪でござった。
 遠くを見ていると、雪の降っている集団というか塊の近づいてくるのが見えるのでござるな。
 でもって、それに気がつくと、その距離によって後五分ぐらいで雪になるなどと予想して車へ入るのでござる(これは避難というべきかサボりというべきか)。

 暖かい部屋の中で、こんな事をのたもう事が出来ることに感謝でござる。
 最近はいろいろなことに感謝するという気持ちが薄れているような気がするのでござる。
 感謝の気持ちをなくすと、怒りや悲しみや苦痛が増えて来るのでござるからして、決して良い事ではござらぬ。
 ついでに、感謝は愛に通ずるものかとも思うのでござる。
 「ついで」ということはござらぬな。

 「自分だけ」とか「自分のために」とか考え始めると、思考は自分を中心としたものになってしまい、排他的になり、結局は自分が苦しむ事になるのでござるな。
 世間や身の回りが自分が意図したとおりにならぬ事ゆえ、そうなるのでござろうな。
 残念な事に身近にそのような事例がござるゆえ、よけいに思うのでござる。
 昨日のハイエナもその一つでござる(本当のハイエナさん、ごめんなさい)。

 どうか明日は雪ではなくお天道様のお顔が見られますように。

 ということで、「明日の心だ!」

なんとな?

2010-03-28 21:12:28 | Weblog
 最近の貨物車は進化したものでござる。
 このようなスイッチが付いているのでござる。
 クラッチフリーと申すものでござるのだ。

 拙者このような車を運転するのは初めてではござらぬが、結構時間が経っており申して、操作をすっかり忘れてしまっていたのでござる。
 自専道を走行するのに、スイッチを押して通常のギヤチェンジで走っていたのでござる。

 途中で社長を乗せたら、「この車は楽やろー」との御言葉。
 「何でだろー」と思ったら、このスイッチを切るとクラッチを踏まずにチェンジが出来るとの事でござる。
 なるほど、そのとおりでござったのだ。
 が、拙者、完全にチェンジをしないフルオートマチックというのか、クラッチを踏んでギヤチェンジをするのかどちらかでないとだめなのでござる。
 ついついクラッチペダルを踏んでしまうのでござる。
 そのたびに、「ピー、ピー、ピー」と鳴るのでござる。

 社長に「普通にしたら」と言われてしまったのでござる。
 拙者、「コリャだめだ」とばかりに、スイッチを入れたのでござる。
 が、少々恥ずかしいところもないではなかったのでござるな。

 社長曰く、「ベンツなどはボタンでの切り替えだけに替わっていて、駐車ブレーキなどもボタンだ」との事でござる。
 たっぱりロートルはついてはいけんのでござろうか。

 そういえば、フルオートマチックというのに乗ったときも、クラッチペダルを踏む癖でスカタンをよく喰らったものでござった。
 友人などは、左足をシートの上に上げて運転していたのでござるが、これでよく運転できるものと感心をして見ていたのを覚えているのでござる。
 
 今になると、田舎の坂道や作業などではオートマチックではアカンのでござるが、高速道や街中ではフルオートマチックというのが楽なのでござる。
 今の送迎などでは山道でござり、手動のギヤチェンジが楽な拙者でござる。
 特に登り坂よりも下り坂のほうがエンジンブレーキを使いやすくて良いのでござるが、これもアナログ的ロートルという事でござろうかな。

 そもそもなんでこうなったかというと、昼に家に帰り着くと御客人が来られていたのでござるが、そのお客人、拙者から見るとハイエナの如きお方で、顔も見たくないお方でござったのだ。
 ちょっと家の外で用事を済ませて、社長のところへ逃亡をしたのでござるが、そこでこの用事に捕まったのでござる。
 しかし、「ハイエナの顔を見るよりこのほうがまだまし」とばかりに、この用事に乗ったのでござる。
 こんなことを言うと、アフリカや動物園のハイエナさんが怒るかも知れぬのでござる。
 「わしゃ、そんなにせこくも情け無くもないワイ!」と。

 しかし、運転で往生し、ナビに嘘をつかれて場所がわからなくなりと、なかなか面白い展開でござったのだ。
 このような事、拙者に最近は無い事でござり、退屈せずに帰宅ができ、次の作業に掛かれたのでござる。

 ありがとうでござりまする。
 というところで、「明日の心だ!」

つくばい桜

2010-03-27 20:49:39 | Weblog
 「つくばい桜」なんて桜がござろうか。
 単純に、つくばいの上に植わった桜でござる。

 真横から写すと、五葉松と桜が重なってしまッたのでござる。
 実につまらん写真でござるな。
 
 それを言いたいのではござらぬのだ。
 今年も咲いたのでござる。
 昨年のままにしておいて3月に苔だけ張り替えたのでござるが、みごとに昨年のような姿を見せてくれたのでござる。
 いつぞやも書き申したとおり、JRは柘植の駅前に実にかわいい「中村屋」という喫茶店がござるのだが、そこの軒先に鎮座ましますのでござる。
 そして、水辺に椿などが飾られるのでござる。

 そのお店の外の席に座って、これを眺めながら香りの豊かなコーシーをいただくと、これは至福の一時なのでござる。
 拙者仕事はせずとも、そのような事はするのでござる。
 これを、ご夫婦で、恋人と、気のおけぬ友人と、なんかといたすと実に良いものなのでござる。
 拙者が恋人と・・・なんて思うと、ウヒヒヒ、となるのでござるな。
 このような笑いをするから、拙者、スケベー爺と言われるのでござろうかの。
 なぜでござろうか?

 桜も松も、夏には水の中まで根を伸ばして、実に生育旺盛なのでござる。
 玉龍もユキノシタも生育旺盛で、玉龍は地下茎を伸ばしているようで翌年にはあらぬところから芽を出し、ユキノシタはストロンを伸ばしたくるのでござる。
 こんだけの世界でござるが、生命というものを感じさせられるのでござる。
 ミニミニ庭の世界でござるな。

 このつくばいの水音を聞いて、お客様の一人は「初恋の音」と表現されたのでござるが、まさに言い当てて妙を得た言葉でござるな。
 言葉も不思議なもので、簡単な言葉でも、まったく関係のない言葉であっても、それが一つの事を妙に的確に表現される事がござるのだ。

 もっとも拙者にはそのような言葉の才能はござらぬゆえ、無縁でござるが。
 拙者は、心に響く言葉はたくさん聞かせていただき、時に涙する事もござったが、拙者の口からはそのような言葉が出たことも漏れた事もござらぬので、情け無いというべきでござろうか。

 また小馬鹿にされぬうちに退散した方がよさそうでござる。

 で、「明日の心だ!」

蕾が!

2010-03-25 20:33:09 | Weblog
 今宵の写真は一体何でござろうか?という出だしでござる。
 ちょっとご存知の方は、「蘭ではないかいな?」となり、もそっと詳しい方は「胡蝶蘭ではござらぬか?」となるのでござろうな。

 共に当たらずとも遠からずではござるが、当たっているのでござろうな。
 これは、昨年種木用に購入した「なごらん」でござる。
 名前のとおり、亜熱帯性の物でござり今時は少々弱ったように見えるものでござるが、このとおりシースを伸ばしているのでござる。

 これは特別のところへ置いているものではなく、台所の窓辺の棚へ置いているものでござる。
 そのとなりではミニ胡蝶蘭が咲いており申し、おそらくは暖かいのでござろうな。
 台所兼リビング(そんなに良いものではござらぬのだが)でござるからして、年寄りのためにいつもストーブ(小さな温風ヒーター)が入っているのでござる。
 温度もそう上がるのではござらぬが、やはり冬としては暖かいのでござろう。
 このようになってきたのでござる。

 これが咲いたら、早速種付けでござる。
 拙者の得意技でござる。
 誰かに言わせると、「蘭は蘭でもラン違い」などと余計は雑音が入るのでござるが、あえて否定はいたさぬものでござる。
 この辺が拙者の良いところでござるな。

 これがまた細かしい作業なのでござる。
 ピンセットか爪楊枝で花粉塊を取り出し柱頭につけるのでござるが、途中で花粉塊を落としたりして老眼には辛い作業でもござるのだ。
 うまく着けられても、結実に至らなかったりナメクジに食されたりすると哀しくなるのでござり、また来年となるのでござる。

 実は昨年は失敗をしており申し、今年は着けねばならぬとぎしゃばっておるところでござる。
 昨年は、木が弱かったのか原因不明でござるが、花が終わっても結実しなかったのでござる。
 今年は種付けが終わってそれが確認されれば、多肥栽培にしてみようと思うのでござる。

 何とか結実をさせて種まきをして、何とか2万本ぐらいの苗は作りたいと思うところでござる。
 不思議なもので、種まきで作った苗は変異種が1千~3千位に1本の確立で発生するのでござる。
 斑入り種であったり、変り花であったり、花色が違ったりと、面白いものでござるのだ。
 「鳶が鷹を産む」といおうことでござるかな。

 こうご期待という事でござる。

 という夢を見ながら、「明日の心だ!」でござる。

米食味鑑定士2

2010-03-24 19:58:44 | Weblog
 米食味鑑定士その2でござる。
 いろいろな情報をいただいたのでござるが、拙者の脳みそはフリーズ寸前でござりほとんど未消化でござる。

 とはいえ、大枚をはたいての受講でござり、そのような事は言ってはおれぬのでござる。
 概して、米の販売は、末期共倒れの時代に入ったと解釈すべきかと思うところでござる。
 大手の米の販売会社もほとんど壁に突き当たり手の打ちようが無く、極小さなところも従来の方法では打開できる見込みが無く、生産者も下がり続ける米の価格に廃業を迫られるという状況になってきたという事でござる。

 感覚的には、小規模の農家=5ha程度以下の規模で販売でも生産でも小回りが効くところは、経営のやりようで生き残れるという事のようである。
 規模が大きくなるに従い、販売する商品の小回りが聞かなくなり、小口商品の扱いが出来づらいという事である。
 それを逆手に取れるものが、生き残れるという事になるのでござろうな。

 それと、コシヒカリ一辺倒ではコシヒカリ余りに拍車をかけるだけで、販売の躓きになるということも言われていたのでござる。
 事実20年ほど前ではコシヒカリ販売戦略は救いの手段でござったろうが、これだけコシヒカリがあると、よほどのコシヒカリでなければ販売の勝ち残りは不可能でござろうと感ずるのでござる。
 だからといって、伊賀のようにキヌヒカリだとかミエの夢だかエミだかに絞られても仕方がないのでござる。
 消費者は何を求めているのかでござろうか。
 それが会長のビッグアドバイスでござった。

 米のうまさを決める諸要素が大切なのはもちろんの事、そのほかにも消費者が求めるものがあるのでござろうな。
 価格もその一つでござろうし、安全・安心もそうでござろう。
 講習の中では、それが「用途別の米」と表現されており申したのでござる。
 政府などの言う、加工用とか資料用などということではござらぬで、料理の種別まで踏み込んだものでござった。
 
 ここまで来て、テレビでしていた卵の用途別というのを思い出したのでござった。
 卵かけご飯用とかオムレツ用とかいろいろあったのでござる。
 当然米もそうなると思われるのでござるが、「どの米がどれにむくのか」なんかはこれから探すところでござろうからして、今はその出発のときなのでござろうな。

 この4月は、田んぼの作業と共に米の販路開拓にうごめかねばならぬのでござる。
 その設計図は頭の中にはあれども、実際に設計図どおりうごめいてできるのかは、はなはだ難しい要素がござるのだ。
 しかし、忍びの棚田米としてはここで打開をしていかねば明日がないのでござる。
 明日の心だけで終わりになるのでござるのだ。

 入口先生は大きい存在でござる。
 あのチャーミングな女性が、あのような大きな存在になられるという事が、拙者にはすばらしくでっかい業績に見えたのでござる。
 その入口先生すらいろいろな課題を抱えつつあるとお聞きして、状況の厳しさが尚の事迫ってくるのでござる。

 「拙者も頑張ってやってみるベー」と元気付けられた講習でござった。

 というところで、「明日の心だ!」

米食味鑑定士

2010-03-23 21:27:59 | Weblog
 行ってきました!
 米食味鑑定士の講習と試験!
 場所は、大阪のコスモスクェア国際交流センターでござる。
 都会とはいえ結構交通の便が悪いところでござったが、水先案内人のおかげで迷わずに行けたのでござる。

 結論は、炊いた米の味なんぞ、拙者にはわからぬのでござる。
 拙者、舐めてかかっていたのでござる。
 猛省の至りでござりまする。
 頼りはペーパー試験がどれだけの点数なのかでござる。
 お願いでござりまする。
 会長様、事務局様アカンだら下駄というものをはかせてくださりませでござりまする!

 実に情けない拙者でござりまするが、惨憺たる有様でござるのだ。
 お酒の所為か、夜更かしの所為か。
 そのことは拙者の責任でござるが、「つらいのー!」でござる。
 でかいツラと態度だけは合格でござろうが、他は・・・・・?

 しかし、会長や事務局さんそして講師先生には良くしていただいたのでござる。
 が、受講生がこうでは「チトツライ」どころではござらぬ。
 感謝とお詫びだけでござる。
 運良く合格すれば、足を西に向けては寝られぬのでござる。

 が、元気印の会長と気配り天下一品の別嬪さん事務局さんに支えられての講習でござった。
 そして、会長からは元気をいただき事務局さんからは優しさをいただいたのでござる。
 それのせいか、元気といろいろとヒントもいただき、これから明かりも見えてきたのでござる。

 拙者にしてみれば、阿羅漢(アラ・カンではない)の挑戦となるものでござり、残っている時間をさらによろしく使えるための挑戦でござる。
 
 詳しくは、これから何回かに分けて記事といたすべく考えているところでござる。

 というところで、拙者風呂に入り申すので、「明日の心だ!」となるのでござる。

ラッキー

2010-03-20 19:46:44 | Weblog
 棚田の崩落現場、復旧工事が始まったのでござる。
 本日は、ケンチブロックを積む基礎を打ってござったのでござる。

 拙者の心は、「ラッキー!」でござった。
 この調子だと、田植えをずらす事になりかねないとちょっとばかし危惧していたのでござるが、何とか間に合いそうでござる。
 用水の加減で時期に作業をしないととんでもなく狂いを生ずるのでござる。
 でもって、ラッキーなのでござる。

 崩落をしたところが削られて昔の農道が見えていたのでござるが、三十数年前の景色が小さな脳みそによみがえってきたのでござる。
 写真を写しているあたりは、ヘアピンカーブの急な粘土丸出しの坂があったのでござる。
 親父殿が牛車を操作してそこを登ったのでござるが、牛もしんどい事を知っていて登ろうとしないのでござったらしい。
 雨の後など人間も足を滑らしてしまい、拙者も滑って転んだ事が記憶に少々残っているのでござる。

 その坂道のあたりには藤があって、田起こし時期には藤がきれいに咲いていたのを覚えているのでござる。
 藤の蔓が巻きついた木に一杯に咲いているのでござる。
 藤という感じではなく、木が藤に化けたようなものでござった。

 藤のきれいな景色や藤の花を観賞するところは時期にはたくさんあるのでござるが、粘土の急な坂道がセットのところはござらぬでござろうな。
 その景色は、拙者にとっては美しさと懐かしさに加えて「きつー!」という事があるのでござり、また山が迫っており申して怖さもあるのでござったのだ。
 今でこそ名阪国道がとおり夜でも明るいぐらいなのでござるが、当時は人家が下のほうにあり、夜はぽつぽつと明かりが見えるだけでござった。
 そこへ、夜9時ごろに親父殿と猪除けのカンテラを灯しに行くのでござるが、拙者小さき事でもあり危ないゆえ(幼稚園ごろという記憶でござる)、農道へ置いておかれるのでござる。
 しかしでござる。
 暗さはそれこそ暗くて、深い谷のところどころに親父殿が灯したカンテラの明かりが見えるだけでござり、風が吹くと山林の松や杉檜がざわざわと鳴き、時々ガサガサと音がするのでござる。
 ご幼少の拙者には魑魅魍魎の世界か獣が跋扈する暗闇の如く思えて、一生懸命「おとーちゃあああん!おとうちゃーーーーん!」と泣きながら叫んでいたという記憶もござるのだ。

 今でこそ身体はオケラ並みでもでかい面だけはオケラに負けない拙者でござるが、以上のようなことを言うと結構格好が悪いものでござる。
 他人は、拙者のことを結構やんちゃであったかに思われるのでござるが、病弱・肝っ玉は蚤未満・頭脳薄霞というものでござった。
 そういうと、今も変わっておらぬといわれることも多いのでござる。
 そこへ、ナキムシという虫が住み着き、ボケダラというたらに似た魚が泳いでいるようでござる。

 昨夜、茗荷塾という塾がござり、拙者身の丈を無理矢理伸ばして出席させていただいたのでござるが、そこでコウズケ(吉良上野介ではござらぬ)という先生が「ブログを見てますよ」とおっしゃられたのでござる。
 拙者、恐縮の至りでござった。
 取り立てて内容のあるものではなく、気の向くままに書かせていただいているのでござるからして、恥ずかしい限りでござった。
 この記事を読まれた先生、どうぞ御叱りなりご意見をお聞かせいただければ、拙者ありがたく存じるあげるところでござります。
 しかし、もうちょっと気の聞いた良い事を書けば良いのでござるが、拙者、そのような文才も知識もござらぬゆえ、この辺でご勘弁をいただきたく存ずるところでござる。

 今宵もこの辺でご勘弁をいただき、「明日の心だ!」といいたいのでござるが、明日から二晩程またお休みをさせていただくのでござる。

 ごめんやっしゃでござり、お休みなしてでござる。

第2回歓桜会四

2010-03-18 19:37:53 | Weblog
 この写真は、半割りの木に蔓を網状にかけた壁掛けでござり、それに短冊を掲示したものでござる。
 歓桜会にすばらしい出展をしていただいたのでござる。

 短冊の書はユカさんが書かれ、壁掛けは倅が先生と仰ぐご婦人が作られたものでござる。
 会場には短冊や色紙とこのような壁掛けが展示されており、桜の他、日本の文化がそこには照り映えてござったのだ。

 この歓桜会、拙者と倅は当然うごめかねばならないのでござるが、ほんとに皆様がご協力を惜しまず動いていただけたからこそのものでござる。

 共催として、工房和楽から陶芸・木彫りと展示用の格調高い焼き杉の机を出していただいたのでござり、他に即売用として「幻のパン」といわれている工房のパンを時間にかかわらず焼いてくださり、尚且つ職員一人と利用者さんを三人も販売につけてくださったのでござる。
 それに関わる人の数は、延べで行くと10数人になるかと思われるのでござる。
 おかげさまで2日間の予定のものが1日かからずに完売という事で、日曜に期待されていたお客様にはご迷惑をおかけしてしまったのでござる。

 それに関連するのが、パンの販売に場所をおかしく出されたご家庭でござる。
 わざわざ自家用車を別の場所へ移動して場所を開けてくださり、そこでパンを販売させていただいたのでござる。
 そのご家庭あればこそのパンの即売でござる。

 同じく共催という事で、書を出していただいたユカさんには、非常に御忙しいところを書を書く事と、お越しになられた彼らの友人のために何回も会場と自宅を往復されたのでござり、感謝・感謝でござりまする。
 百人一首などを短冊や色紙に書かれた文字は、まさに女性そのものという文字で優しく気品があるのでござった。
 そして、それをお買い求めになられた方は、その文字を表したような女性なのでござったので、なるほど!と感心した次第でござる。
 特筆すべきは、ユカさんのご亭主が30分の師事を仰いで書かれたという書でござった。
 彼も、飛び入り展示でその感性を発揮された作品を出され、拙者、「えーー!」というものでござった。

 特別協力として、蔓で編んだ明かりや写真の壁掛けなどを作られるご婦人でござるが、このご婦人実にマルチなご婦人でござり、このような自然素材で素敵な作品を作られると共に、書も素敵な手をお持ちでござり、生け花も独創的な作品を生けられるのでござる。
 倅曰く「マルチアーティスト」の先生という事でござる。
 この作品の値はいくらかと聞かれたときには、拙者、「これは販売できませぬ。あしからずご勘弁の程を」と返事させていただいたのでござるが、お聞きになられたご来場者の方のお気持ちはよく判るのでござる。
 素敵な部屋でござれば、掛けてみたいと思う心は当然と思うのでござる。

 会場をお貸しくだされた円相ミュージアムさんには、特にお願いをして、床の間の「芭沙羅神将像」と床の間の掛け軸を展示いただいたのでござる。
 会場使用に関しても、短冊掛けや色紙掛けの軸をお貸しいただき、諸設備も実に自由に使わせていただき、拙者達気ままに使わせていただいたのでござり、これまた、感謝感謝でござるのだ。

 まだまだお世話になっており申すのでござる。
 お茶出しでござる。
 拙者のカクレ娘の一人は、とんでもない遠い所からこの日のために原付で帰ってきてくれたのでござり、前日の準備から4日間のお茶だしとこれまた頑張ってくれたのでござる。
 もう一人のカクレ娘も、体調がすぐれぬ中、朝から出てきてくれて共に頑張ってくれたのでござる。
 そこへ施設からも裏方に一人別嬪さんが入っていただけて、拙者達は安心して表でくっちゃべっていたのでござる。

 まだまだ大勢の方にご厄介をおかけしているのでござる。
 「案内葉書を出すで何十枚印刷してくれ」という友人もござり、ポスターを貼って案内葉書を置かせてくだされたお店の方、口で宣伝をしていただいた友人の方々。
 数え上げれば切りのない感じでご厄介をおかけしており申すのでござる。

 一人二人で出来る事ではござらず、本当に大勢の方に助けていただいた事で成功した歓桜会でござった。
 最近は、とみに人に助けていただいている拙者が見えるのでござる。
 それが、感謝という気持ちしか持てぬのでござり、あつかましい拙者でござる。

 という感謝の心が消えぬうちに、「明日の心だ!」としておくのでござる。

第2回歓桜会三

2010-03-17 21:13:09 | Weblog
 桜色の乱立でござる。
 これ全て桜の品種では旭山となるのでござる。

 桜は、大体がして品種ごとに色は決まっているのでござるが、この旭山は色が不揃いなのでござる。
 今回初めて気がつくのも少々情けない話でござるが、昨年はそうそう気ににならぬ事でござったのだ。
 が、今回は非常に濃い桜色から白に近い桜色まで、品種が違うのではなかろうかというほど色が違ったのでござる。

 加えて、花も一重に近い八重から八重の典型のような花までいろいろの花が咲き、花径もでっかいのからややかわいらしいものまでござるのでござる。
 これは産地の違いかと思ったり、開花時の温度条件なのかと思ったり、いろいろと悩むところでござるが結論はわからぬままでござる。

 しかし、一株づつ見ているとそのようなことは判らぬのでござるが、こうやって並べると一目瞭然なのでござる。
 この旭山という品種は、一株づつの個性が豊かなのだと思えばどうということのないものでござるが、分類学者にいわせると「そうはいかの何とか」なのでござろうな。

 これらを見ていると、人も猫もイヌも皆同じように思えるのでござる。
 人などは、一人一人がまったく個性が異なるといっても良いようなものでござる。
 これらを一からげにしようということが土台無理な話なのかも知れぬのでござる。
 それぞれがそれぞれの色を持ち、それぞれがぞれぞれのかたちを思っているのだと、それぞれ比較してその特徴を見て、そのそれぞれの特徴を個性として肯定すれば、己を知る事が出来、他を認めることができるのだと存ずるのでござるがの。
 それが出来ぬからして、他人のことをぶつくさぶつくさと愚にもつかぬボヤキを言う事になったり、争いごとが起こったりするのでござろうな。

 桜が人間の如くにアホでござれば、吉野の山は大変な事になるのでござろうな。
 一つの桜がぶつくさと言いかけると、それにならって他の桜も、「お前がそんなに色が薄いから俺らまでウスラボケといわれるのじゃ!」とか、「おめえがでっかい花をつけるから俺は良いように言われねえのだ!」や、「己や、でっかい態度で先に枝を張りやがるからおりゃーおめえの下ばかりじゃないやんけ!」などなど、実に五月蝿くてしょうがないでござろうな。
 「花見だ」なんてしゃれ込んで酒を飲んでられないと思うのでござる。

 まあ、己も他も認めるといろいろと見えてきて、その違いから学ぶ事もできれば、違いを楽しむ人生になるものかも知れぬのでござる。
 セカシャカとせわしない事を言いながらせわしない人生もこれまた人生でござり、人の影になりながらそれでも精一杯花を咲かせるのもまた人生でござろうし、でっかい態度ででっかい法螺を吹き上げながらどてっと過ごすのも人生なのでござろう。

 こう考えると、拙者はだいたいどの人生になるのでござろうかの。
 オケラの化石ということになると、想像が出来にくいのでござる。
 その辺は他の方にお任せするとして、拙者はそのようなことを考えず、ノッタリノッタリと行くのが性にあっているようでござるな。

 と、潰れかけている人生の話になってきたようでござり、やはりこの辺で、「明日の心だ!」となるのでござろうな。