HYAKUSHOU日記

毎日の作業と暮らしといろいろの出来事

徒然6

2015-01-15 17:54:09 | Weblog
 拙者の休みに限って雨降りでござる。
 拙者、そうそう雨男ではござらぬのになぜでござろうか。
 本日も朝から強い雨でござり、結局家から全く出ずという情けない有様でござる。

 夕方、うちの猫姫(=いち姫と申す)を病院へ連れて行こうとすると、暴れ方が今までと違いど派手にかきむしって暴れたのでござる。
 でもって、拙者、机から落ちるし引っ掻かれるしで、惨憺たる結果、姫は本箱の裏へ入って出てこないのでござる。
 悲しい結果でござった。

 姫は、どこかで喧嘩してか仲良しをしてか、疥癬をもらってきてそこへ真菌がつくということで、病院通いをしているのでござる。
 しかし彼女にとっては、そこは恐ろしい所なのでござろうして、いつも一騒動なのでござる。
 仕方が無いので明日にしようかと思っているのでござるが、明日も同じでござろうか。

 何年いるのか、もうそれこそ熟年にならんとしていると思うのでござるが、かわいいものでござる。
 拙者の気まま中に、いろいろとつらい目にあったのかして、懐く人懐かない人がはっきりしているのでござる。
 家内には、1ヶ月ほどで懐いたので安心しているのでござる。

 そんな日で、稲の有機栽培をちょっと知ろうと、先達て買い置いた本を広げたのでござるが、世間にはいろいろと工夫し経験し「自分流の稲作り」をされているものでござる。
 今まで、世間の人よりは少々稲について知っているかと自惚れていたのでござるが、いやいや、世間の百姓はすごいのでござる。
 有機栽培、自然農法、どれにしてもそれぞれいろいろとつらい経験を通して、自分流を確立されているのでござる。

 そのつらい経験というのは、文章の中ではちょっと触りにもならない書き方だけで済まされているのでござる。
 それを一言見つけると、「すんごいなー!」と思う次第でござる。
 拙者には及ぶところではござらぬのだ。

 今の気持ちは、まず「自然態の稲作り」でござる。
 孫が食べてもなんら問題の無い米であることでござる。
 従って、それは誰が食しても問題が無いということでござる。

 まずは、今より農薬が少なく肥料は当然有機である事でござるが、それは今年だけのことで、この後は「有機無農薬であるべし」と思うところでござる。
 その流れを考えているところでござるが、師匠連の中にいくつか参考にさせていただけるのがあったのでござる。
 それらを拙者の実際にあわせて、棚田で出来る内容にせねばならぬのでござる。

 来年からはそれに従ってするという所存でござる。
 とはいえ、拙者もよき年齢で、コケテしまっては何にもならぬので、それを考えた誰でも出来そうなものにせねばならぬというところでござる。
 不可能ではなかろうというところでござるな。

 そんなことで、さらば!

CD

2015-01-08 19:48:03 | Weblog
 写真は家内のお土産であるところの岡林氏のCDでござる。
 拙者、機会があるたびに探していたのでござるが、見つからないのでござった。
 発売禁止の多い御仁でござるからして、CDを出さなくなったのか等と思っていたところでござった。

 家内が東京でのライブに行った際、何とかいう所で探して買ってきてくれたのでござる。
 最初の曲が「山谷ブルース」でござって、歌いだしたら家内に「父ちゃん歌てる!」と言われてしまったのでござる。
 歌えるのでござるが、上手い下手は別問題でござる。

 他の歌も聴いたのでござるが、聴き進むにつれ、愕然が多くなって来たのでござるな。
 それに伴って、拙者、ちょっとずつ寂しくなってくるとともに至極当然という気持ちもわいてきたのでござる。
 そこには、40年余という時間が横たわっていて、それが私を変えていたのでござろう。

 されど、そこで歌われている中身は拙者が若かりし時にはそのとおりと信じていたのでござるからして。
 そして、そこで歌われていることが今は変化して良くなっているのかというと、決してそうではなく、むしろ悪くなっていることも多いのでござる。
 外国の方からして、「そのような事に暴動が起こらない日本が不思議だ」と言わしめるほど、でござる

 当時、「自己否定」という言葉が言われていて、拙者も「自己否定しなきゃいかんのだ」とよく言われており申したのでござる。
 拙者頭が人より劣っており申したので、その「自己否定」なるものが十分に理解できていなかったのでござるな。
 「自己否定したら、おりゃー滓も残らんのちゃうか?」などと思ったのでござるな。

 「自己否定」「自己変革」等と哲学的なことを言われても、わからん拙者でござった。
 それよりも、実家の貧乏のほうが何とかなる世の中にならんかと思っている次第でござった。
 しかし、農家ということで「プチブルじゃねーか」などと言われていたようでござり、そのような事も聞き申したのでござる。

 今から思うに、もっと自己否定ではなく自分の気持ち・考え・心を大事にすべきでなかったかと思うところでござる。
 されど、その頃はそれを認められる状況ではない身の回りなのでござっただろう。
 ある意味で、ちょっと怖さを感じる世界でもござる。

 岡林の自由を求める心は、おそらく「自己否定」などというものではないだろうと存ずる。
 どこからも束縛や規制を受けないものと思うのでござるが、それとて、今では難しい自由であろうと思うところでござる。
 ただただ、今は自分の小ささに感じ入っているところでござるからして、小さな幸せ(決して自由ではない)を感じられるのが嬉しいところでござる。

 なんてわけのわからんことをいって、さらば!

新年

2015-01-02 13:05:24 | Weblog
 「おめでとうございます」とは言えないこの正月ですが、今年は生まれた家での正月です。
 何はともあれ、これを読まれた方、今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
 愚息が家も田も放たらかしで逃げ出してしまったもので、「他所で余生を・・・」と思っていた私がこの家にいるわけです。

 まあ、友曰く「人生には上り坂、下り坂、まさかと三つの坂がある」ということです。
 まさかがそれこそ真坂であるからして真っ逆さまに・・・ということにもなるわけです。
 「まさか」はもう何回もあったので、いまさらというようなものですが、やはり「まさか」です。

 今年こそ「まさか」が無いようにと祈ってみても、こればかりは「天のみぞ知る」で、如何ともしがたいものです。
 実は私たち夫婦は、オオクニの大神が守護神ということなのです。
 人知の及ばぬところは守護神にお任せして、力の限り喜怒哀楽をもって人生を歩き続けるということでしょうね。

 そこで、「私としての今年はどうしようか」と考えてみたところです(今年の誓いとか、一年の計とか、今年の決意、などとならないところは私のいい加減なところです)。
 「まさか」があるとそんなものはどこかへ吹き飛んでしまう私です。
 ひょっとして私はいい加減が売りなのかと。

 多くを望んだり欲張っても、いろいろなことが発生してくると出来ない事になってしまい、結局「なんのこっちゃ」となってしまうものです。
 したがって、今年は、「田んぼを完全に元に戻す」ということと「桜の展示を完遂する」ということの二点にしました。
 これとて、今の私には結構と無理っぽいところも感じるのです。

 殊に、田んぼは、数年前に一念発起して父親が作っていたような「どこへ出しても恥ずかしくなくうまい米」が収穫できるようにというところでしたが、これは完全復元というにはあまりにもハードルが高いものと思うところです。
 土作りが出来る田んぼに戻すところが今年の基本方針でしょうか。
 そこまで田んぼが悪くなっているのです。

 桜は、鉢植えの作りが毎年同じというよりも、力が抜けてきている感じでもあり、良くない傾向だと思っていたところでした。
 昨日のTVが、それに活を入れてくれたのです。
 でもって、作る力が出てきました。

 ということで、さらば!の今年一発目なのです。