HYAKUSHOU日記

毎日の作業と暮らしといろいろの出来事

花見弁当

2012-04-28 22:29:14 | Weblog
 巻寿司に稲荷寿司、パックに入ったおかずたち。
 形は典型的弁当、それも花見弁当なのでござる。
 これが実に美味しい!のでござった。

 施設で毎月行っている「お楽しみ会」というイベントで、過日、ちょっと離れた桜のきれいな公園までちょっと遠足ということになったのでござる。
 その時に作っていただいた弁当なのでござるな。
 厨房のスタッフによる力作なのでござり、美味しくて当然なのでござるな。

 これで一人分なのでござるが、満腹そのもので、拙者のちょっと出張ったお腹が、もう少々出張ったほどなのでござる。
 天気よし、桜は花吹雪の始まり、というところで食べるのでござるからして、いやいや、美味しいのでござるな。
 美味い弁当を良い雰囲気の中で尚美味しくいただくという、ずべてセットされたような中でいただいたのでござる。

 ブルーシートを広げて、みんなが車座になって、好きなものからいただき、満腹の腹を抱えて談笑するという、実に穏やかで和やかで楽しいものでござった。
 食後は散歩をしたり、バドミントンをしたり、ギャーキャーと騒いでみたり、賑やかなのでござったが、拙者は年齢を考慮し、静かでござったのだ。
 どこかから「居眠りーーー」の声も聞こえそうでござるが。

 施設で見ている連中と、このような環境で見る連中は、なんか違うのでござるな。
 同じところもあるのでござるが、違うところがいろいろと感じさせられるのでござる。
 やはり開放された空間だからでござろうか。

 しかし、身近なところで、良い公園や空間があるものでござる。
 ちょっと聞いたことがあったのでござるが、なかなかに良い公園でござった。
 そして惜しい苗がたくさんあるのでござるな。

 おそらく草刈りで刈り倒されてしまうのでござろう。
 とすれば、拙者だけでなく欲しい人はたくさんおられると思うのでござる。
 自由にとは言わぬが、採取する機会を与えて欲しいものでござる。

 今度は一人か二人で此処へ来て、惰眠をむさぼりたいものでござるな。

 という希望でもって、明日の心だ!

山の桜

2012-04-24 21:48:40 | Weblog
 茗荷村の桜でござる。
 月曜日が盛りという時でござった。
 ちょうど六分咲きで、ほぼ満開に近いという感じでござるな。

 これが見ごろで、これからチラホラと散りかける時が最も良いのでござるな。
 しかし 花吹雪も良いし、水面の花筏も素晴らしいのでござる。
 花が過ぎてのつややかな葉桜も、これまた趣がでっかいものでござる。

 この桜の下で、茣蓙でも広げてちょっとお神酒をいただきつつ、春霞のような夢を見るのも良いと思った次第でござるな。
 が、この夢が破られたのでござる。
 施設の仕事が終わって、ニュースを見たとたんに夢は木っ端微塵になったのでござるな。

 京都で、無免許の車が小学生の列へ突っ込んで、小学生と付き添いの妊婦さんが亡くなり、そのほか大勢が重態・重傷という事でござった。
 亡くなった方は二人という報道でござったが、三人の間違いでござろう。
 妊婦さんが亡くなったという事で、そのお腹の中の子供もなくなったのでござるから三人なのでござる。

 ニュースを見ていて、写っている犯人と思われる若者が足を組んで安穏と警官と並んでいるのがあったのでござるが、遺族でなくとも叩き潰したくなったのでござる。
 もう一つは、車のフロントガラスがわれ、そこに妊婦さんの髪の毛が張り付いているものでござった。
 このふたつが、拙者のトラウマというか、封印していた記憶が戻ってきて、犯人をまさに殺意でもって見る拙者でござった。

 おおよそ17年前の記憶がよみがえったのでござる。
 事故現場の惨状、通夜にお参りとして来た20歳の女の態度、その親達の言葉が、まざまざとよみがえったのでござる。
 そしてその時の必死にこらえた殺意が脳裏にしっかりと浮かんできたのでござる。

 その時の経験から言うと、犯人はそれほど気にしているところというのは無いものでござる。
 それよりも、いかに罪が軽くなるかや、自分の正当性を嘘でも貫くことを考えるもののようでござる。
 事故を三年ほど調べ続け裁判に持ち込んでも、司法も唯一つの事故であって、検察も裁判所もまともに考え判断を下すものではなかったのでござる。

 事故直後はみんなが動転し混乱し何事も判断がつきかねるのでござるが、時間が少々たつと自己弁護に徹するのが犯人なのでござるな。
 そこには遺族の気持ちも事実も無いのでござるな。
 先ほどの、犯人は「事故は不可抗力である」とか「そこにいたから悪いんだ」とか「被害者がそんなことをするから事故が起こったのだ(被害者がしていないことでも)」などと自己弁護をするようになるのでござる。

 日本の法は、性善説で少年には実に暖かいものでござるようだが、少年の中へ入ってその言葉を聴くことが大事ではなかろうかと存ずる次第でござる。
 おおよその少年はそんなことは無いのでござるが、一部の少年は、「命などゲームと一緒でリセットすれば戻るようなもの]とか、自分とその仲間の命以外はチリやゴミ程度にしか思わぬことがあるものでござる。
 そして、18歳といえば少年ではなく責任を取れる年齢でもござるのだ。
 でなければ、仕事や商取引は一切させるべきではござらぬのだ。

 いずれにしても拙者には、この事故が事件として犯人に消し去った命に見合うだけの罪を与えるとは信じられぬのでござる。

 拙者のトラウマがよみがえり、当分消えることは無いと思うのでござる。

 拙者がゆっくり寝られることを今宵も願うところでござる。

 というところで、明日の心だ!

ハイウェイ

2012-04-22 23:05:22 | Weblog
 この写真、久々にめっけでござった。
 いつぞやも投稿したような気もせんではござらぬが、ずっと以前でござろうとまたぞろ投稿でござる。
 ハイウェイなのでござるな。

 何がハイウェイなのでござるかと、お尋ねなされる向きもござろう。
 これは人間にとってのハイウェイではござらぬ。
 人間にこのようなハイウェイでよいのでござれば、自然破壊などと言うこともござらぬのだござろうな。

 これは山中の小動物のハイウェイでござろうな。
 場合によっては、猪も使うのでござるかも知れぬのだ。
 しかし、狸や狢・狐などは悠々と使えるサイズでござろう。

 奥行きというかは50から60㎝程度、高さは50cm程度でござるのだ。
 おそらく木立の際を通る獣道なのでござろうが、いつの間にか半トンネルになったのでござろう。
 高みや上空からは見つからず、写真を撮った道路からはちょっと止まってしゃがみでもしたら見つからぬのでござろう。
 夏場は葉が茂るのでござるからして、尚の事見つかりにくくなるのでござろうな。

 なかなか良い通り道でござる。
 山中の自然で生き抜く連中でござるからして、当然のことながら必要な生活道路なのでござるな。
 これが人間となるとまた意味が異なるのでござるな。

 人間の獣道 = 蛇の道は蛇。
 人間の獣道 = 人の道と違い、人に言えぬ日の当たらぬ者が歩く道。
 などというと、自ずからアンチ社会性を言うのが今までの通説でござろうな。

 されど、新聞や週刊誌などを見ていると、そうともいえぬ最近の社会が感じられてし様の無いのは拙者だけでござろうかな。
 またその連中は、まさに社会正義は自らでありと正義の味方面をし、何があっても自らの権益は離さず、その権益を奪いそうな連中は社会悪の如く言い放つのでござるな。
 そしてそこへ擦り寄る連中は、甘い汁を少しでも吸おうと走狗の如く躍起になるし、その連中を使ってより巨悪な利益を得ようとする者もいるようでござる。

 こうなってくると、拙者どもの如くまさに清貧(かな?)というべき者は泣くに泣けぬ仕儀となるのでござる。
 まさにその獣道を利用する連中の生息域は、都会というコンクリートの切り立った山々の間なのでござるな。
 最近その辺りにも狸が棲むようになったと報道があったのでござる。

 しかし、狸も困っているのでござろうな。
 昔は狸が人間をだましていて、野壷を温泉とだましてつからせたり、木の葉をお札に見せてみたり、道に迷わせたりといろいろ会ったようでござるが、そのような冗談の手合いは通じないのでござろうな。
 狸曰く、「あの連中はわしらのような純朴なことでは通用せんな。あいつらは悪度過ぎてわしらでは手に負えんの。おとなしく残飯でもあさっていいるのがいいのかの。でないと道端で殺されてしまうわい。」

 以前は、大都会の霞ヶ関とか永田町とかいう辺りだけに生息していたように思っていたのでござるが、最近は大阪などの都会でもたくさんいるらしく、聴くところによると、地方都市でも同様な動物が生息しているらしいのでござるな。
 こうなると経済学者などではなく、生物学者や社会動物学者の先生方に新説を立てていただかねばならぬようでござる。
 面白い論文が発表されるのでござろうと、期待大でござる拙者なのでござる。

 というところで、明日の心だ!

ありがとうございました!

2012-04-12 20:31:46 | Weblog
 遠いところ、また、寒いな中を辺鄙なところまでお越しいただきかたじけなく存知まする。
 今年は、お越しいただいた皆様にお名前を頂戴できないという不手際がござりまして、お礼を申し述べられないのでござり、重ねてお詫び申し上げるものでござりまする。
 誠に申し訳ござりませぬ。

 おかげさまをもちまして、第4回の歓桜会を3月24日25日と無事完遂する事ができましたのでござりまする。
 お送りさせていただいた葉書や、報知新聞をご覧になられた方、はたまたお店などへ置かせていただいたお知らせを見ていただいた方、さまざまなことでお知りいただいた方にごらんいただけました。
 加えて、準備不足でお知らせなどが十分行き届かないために、「この状況では20名ぐらいお越しいただければ良いかな?]などとも思っていたところでござったのだ。

 されど、いざ開場をしてみると、開場早々から多くのお方に来ていただけ、「感謝!感謝!」でござったのだ。
 二日で50名以上の方にお越しいただけたのでござろうな。
 実に驚きと感謝でござりまする。

 今回は。「桜と一円展」というお題で開催させていただいたのでござる。
 桜は例の如く旭山でござり、一円は一円玉なのではござらぬ。
 一円氏という陶芸や木彫りをされているアーティストなのでござる。

 彼は茗荷村のある昔の大萩村というところへ住み、木彫りから初めて今は陶芸と両方で造形されているのでござる。
 俗世を嫌い仙人生活などというとまた違うのでござるが、そのような風貌を持った御仁でござり、彼の文章を読ませていただいても、神仏の存在が彼とともにあるという感じを受けるのでござる。
 野辺の地蔵さんしかり、山の木々しかり、傍を流れる清流しかり、それぞれが彼とともにあると感じるのでござるな。

 彼の作品は、木彫りは当然ながら、間伐材や折れた木の枝などがその材料であり、そこに感じるのは「円空仏」なのでござる。
 陶器もそこと同じ水平線上にあるのでござるな。
 彼に言わせると、それぞれに展示するときは名前をつけても基本は「無題」ということでござる。

 彼の作品(確か木彫りでござった)を初めて目にした時は、「エッ!なにこれ!」という位エネルギーにあふれていたのでござった。
 エネルギーというのか、おどろおどろしいほどの迫力を持って目の前に存在するのでござる。
 その時は、「なんじゃこりゃ!どこからこんなものが生まれるのじゃ!」というものでござったのだ。
 
 拙者の推測なのでござるが、これは「俗世の理不尽に対しての心のうちの憤念」かと思ったところでござるが、これは俗世に汚された拙者の俗論と存知、いまだに彼と離してはおらぬところでござる。
 そうこう言ううちに彼の作風は仙人に近づいているのでござろうかして、エネルギーをそのままに作風はより重みと丸みを増しているように思うところでござる。

 写真の手前に写っているのは、強いて言うところの「龍」ということでござる。
 彼独特の形を持っているのでござるな。
 しかし凄い迫力なのでござる。

 というところで、次の機会に会場の悩みなどをグチって似るのでござるな。

 で、明日の心だ!

春なのに・・・

2012-04-05 21:37:56 | Weblog
 はーるなーのに~ はるなのに~ ・・・
 いつまで続くこの寒さ。
 お山は真っ白だ~!

 と、こんな事を言ってると北の地に住まわれる方々には笑われてしまうのでござろうな。
 雪のお話はこれで3回目でござる。
 しかし、びっくりした雪でござったのだ。

 前日が爆弾低気圧などというのが通り過ぎたのでござる。
 その翌日の朝、「寒い~!」と言いつつ出勤をしたのでござる。
 通過するところの温度計は、3ヶ所とも0℃ないしマイナスの温度でござった。

 職場の近くまで行くと、それまで雲に隠されていた山が下からスーーと見えてきたのでござる。
 家並みの中を通り過ぎ、山が見えるところまでくると、このとおり山の高さの半分程度が白なのでござった。
 「えっ!これなんだ?雪か?」というような次第でござるのだ。

 拙者見るところ、標高350m辺りから雪かと思われるのでござる。
 おそらく、道路や地べたまで積もってはいないと思われるも、そこはそこで、ひょっとして凍っているかもという恐れもあるのでござる。
 で、慌てて事務所へ入り、キーを持って出て送迎車のエンジンをかけ、暖気をしたのでござる。

 しかし、山登りをしかけたものの、前日にパンクをしたタイヤがまだスペアタイヤで、山の全く無いタイヤとなっているのでござり、不安がいっぱいなのだござった。
 標高が450mあまりという峠まで来たところ、凍結などは無いものの道路を除く山は真っ白なのでござる。
 なんとなくどうでもいいから楽しくなってきたのでござるな。

 しかし、3月の25日には歓桜会が終わり、麓では梅が七分咲きというものでござるに、「この雪はなんだ!」という感でござる。
 というものの、拙者の記憶では、4月5日の春祭りに結構な雪が降ったり、4月かかりに苗代起しの雪が降ったのでござるからして、特段不思議というものではござらぬが、びっくりはするのでござるな。
 雪の頼りは、拙者としては終わりにしたいところでござる。

 次回は、桜の写真にしたいと思うところでござるな。
 それを期待してくだされ、でござる。

 ではこの辺で、明日の心だ!