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St. John of the Crossの生き方に憧れて

受洗後、最初に買ったカトリックの本が「愛への道」。相応しい生き方をしてない。彼に倣う生き方が出来るよう心がけたいです。

飯田市民プール-a photo

2009-03-30 23:49:00 | Weblog


飯田市民プール(運動公園)にて。
アップル・ロードから中村の水引街に抜ける所に総合運動公園がある。
プールで写真を撮るには、断った上でも勇気が要る。
七夕頃に豊橋・浜松・飯田の所謂、三遠南信物産市が此処で開かれる。
車・バイク・自転車。だったが、飯田は日本初の民間の太陽光発電推進グループとして大きな賞を取っている。巨大な工場も出来つつある。経済の牽引役として、地元の期待は大きい。電力だけでなく、動力として包括する形で、太陽光発電を強力に推し進めていって欲しい。

ヴィゴ「新学期操行ゼロ」を見る-a comment

2009-03-29 23:51:00 | Weblog
1 ジャン・ヴィゴの「操行ゼロ」を見た。ドナルド・リチー氏に依ると(「映画理解学入門」(キネマ旬報社、三木宮彦氏訳)、10大傑作のひとつだそうである。ちなみに、わたくしは、10のうち9を見た。残るは、恥ずかしいが、ジャン・ルノアール「ゲームの規則」。手元にある映画評論中2冊(リチー氏のと、「映画の美学」(白水社、アンリ・アジェル氏著、岡田真吉氏役)しか、ヴィゴに触れたものがないので、その中から、
「処女作「ニースについて」で、「記録に基づく意見」について、
 「カメラの目的は、
  1 一つの身振りの隠された理由を暴く
  2 平凡で偶然の人物からその内面的な美しさや諷刺画をひきだし
  3 その純粋に団体的な表現の一つに従って一つの集団の精神を明らかにする
 そして、
  1 昔我々が無関心にそれに沿って進んだ世界が、
  2 将来は、その外見を超えて、非常な力をもって、強制的に我々にさしだされる
 「ニースについて」は、そんなささやかな下書きに過ぎない。」(「美学」)
「こうしてヴィゴは、この映画で意識的に規則を破った。その結果は時に新鮮であり、納得できるものだった。彼のジャンプ・カットは、たとえばトリュフォやゴダールに霊感をあたえた。」
「そして今や、束縛されていない、自然で伸び伸びした少年時代を眼のあたりにする。と同時にこの場面は、美しい天国の光景でもある。…その象徴するものは宗教的、とくにキリスト教的だが、…その感覚は宗教的だが、異教徒的であり、キリスト教以前のものである。ちょうど少年たち自身が、おとな以前であるように…」
「反乱は成功し、黄金時代が始まった。無邪気さの勝利である。…この映画の長所の一つは、子どもたちがセンチメンタルな眼で眺められたことが一度としてない点にある。」
「「糊の壷」という言葉が何度も何度も繰り返されるが、そのうち、その言葉自体が一つの意味-何か幻想的な、奇妙な、この世ならぬ精神的な意味を帯びてくるのだ。」(以上、「理解」)
 まるで、ラファエル前派の絵のような「無邪気さ」「幻想」が、この映画の特徴と感じた。「シュールの先駆」ともリチー氏は言っている。最初、コクトーや「ナポレオン」などと思って見ていた。ある種、フランス革命を象徴的に描いているな、と。が反乱前夜でまったく覆された。というより、日曜日のシーンなどで、もう既に気付くべきだった、「無邪気さ」がテーマだと。とにかく、童話に引かれるなら何回も見る価値の映画と思った。そのファンタジーの隔世は、同時に見た、鈴木清順氏の「オペレッタ狸御殿」にも引けを取らないと感じた。

ヴィゴ「新学期操行ゼロ」を見る-a comment

2009-03-29 23:47:20 | Weblog
1 ジャン・ヴィゴの「操行ゼロ」を見た。ドナルド・リチー氏に依ると(「映画理解学入門」(キネマ旬報社、三木宮彦氏訳)、10大傑作のひとつだそうである。ちなみに、わたくしは、10のうち9を見た。残るは、恥ずかしいが、ジャン・ルノアール「ゲームの規則」。手元にある映画評論中2冊(リチー氏のと、「映画の美学」(白水社、アンリ・アジェル氏著、岡田真吉氏役)しか、ヴィゴに触れたものがないので、その中から、
「処女作「ニースについて」で、「記録に基づく意見」について、
 「カメラの目的は、
  1 一つの身振りの隠された理由を暴く
  2 平凡で偶然の人物からその内面的な美しさや諷刺画をひきだし
  3 その純粋に団体的な表現の一つに従って一つの集団の精神を明らかにする
 そして、
  1 昔我々が無関心にそれに沿って進んだ世界が、
  2 将来は、その外見を超えて、非常な力をもって、強制的に我々にさしだされる
 「ニースについて」は、そんなささやかな下書きに過ぎない。」(「美学」)
「こうしてヴィゴは、この映画で意識的に規則を破った。その結果は時に新鮮であり、納得できるものだった。彼のジャンプ・カットは、たとえばトリュフォやゴダールに霊感をあたえた。」
「そして今や、束縛されていない、自然で伸び伸びした少年時代を眼のあたりにする。と同時にこの場面は、美しい天国の光景でもある。…その象徴するものは宗教的、とくにキリスト教的だが、…その感覚は宗教的だが、異教徒的であり、キリスト教以前のものである。ちょうど少年たち自身が、おとな以前であるように…」
「反乱は成功し、黄金時代が始まった。無邪気さの勝利である。…この映画の長所の一つは、子どもたちがセンチメンタルな眼で眺められたことが一度としてない点にある。」
「「糊の壷」という言葉が何度も何度も繰り返されるが、そのうち、その言葉自体が一つの意味-何か幻想的な、奇妙な、この世ならぬ精神的な意味を帯びてくるのだ。」(以上、「理解」)
 まるで、ラファエル前派の絵のような「無邪気さ」「幻想」が、この映画の特徴と感じた。「シュールの先駆」ともリチー氏は言っている。最初、コクトーや「ナポレオン」などと思って見ていた。ある種、フランス革命を象徴的に描いているな、と。が反乱前夜でまったく覆された。というより、日曜日のシーンなどで、もう既に気付くべきだった、「無邪気さ」がテーマだと。とにかく、これは、童話に引かれるなら何回も見る価値の映画と思う。そのファンタジーの隔世は、同時に見た、鈴木清順氏の「オペレッタ狸御殿」にも引けを取らないと感じた。

インドの新コンセプトカー「ナノ」の報道に思う-an impression

2009-03-26 21:29:00 | Weblog
1 経済について所感を2点。
 先ず、インドの新コンセプト・カー、ナノ。救世主になるか?以前、車が行き渡ったなら、“子供に売れ”と提言した。20万円の価格は、それを可能にしたと思う。少なくとも、高校生なら一夏バイトして買うだろう。中学位(自転車が乗りこなせる年齢)まで運転を任せられるかも知れない。勿論、解決すべき問題がある。安全性・交通量・道路・燃料など。何よりクリーン・エネルギーでなければならない。それらを解決する中で、新たな産業・雇用を作ることが出来ると思う。思えば産業の中心が地球を半周して来た。欧州・米国・日本。これからの産業は、中央アジアの時代かも知れない。
 一方で2つの経済学。19~20世紀イギリス経済、もっと広く欧州経済の推移と共に出て来たと思う。マルクスとケインズ。マルクスは資本主義が発展する、その歪の中とすると、ケインズはそれが斜陽となる中。ケインズが確率の専門家だったのは、量子力学と同期する。彼の経済学は体系的だ。しかるに、20世紀後半は物性・分子遺伝学の時代。だとすると、産業の生態学/分子産業発展学/産業構造学など、生物学・物性論に近い(前2つが物理・化学に帰着したように、科学史論・テクノロジー史論の上に立った、各論に近い)産業経済学が経済学の中心となるべきではなかったのでは?それから、集合体としての経済全体の動向を予測する。そんな視点であるべきだったのが、確率理論の延長とも言える(言い過ぎ、ごめんなさい)予測理論・ゲーム理論に特化したのが、少なくとも金融に措いて功罪だったのでは?
 経済学者=全分野に明るい技術屋。そんなことを考えながら。
 最近思うズブの素人の印象、2点です。

インドの新コンセプトカー「ナノ」の報道に感じたこと-an impression

2009-03-26 21:24:56 | Weblog
1 経済について所感を2点。
 先ず、インドの新コンセプト・カー、ナノ。救世主になるか?以前、車が行き渡ったなら、“子供に売れ”と提言した。20万円の価格は、それを可能にしたと思う。少なくとも、高校生なら一夏バイトして買うだろう。中学位(自転車が乗りこなせる年齢)まで運転を任せられるかも知れない。勿論、解決すべき問題がある。安全性・交通量・道路・燃料など。何よりクリーン・エネルギーでなければならない。それらを解決する中で、新たな産業・雇用を作ることが出来ると思う。思えば産業の中心が地球を半周して来た。欧州・米国・日本。これからの産業は、中央アジアの時代かも知れない。
 一方で2つの経済学。19~20世紀イギリス経済、もっと広く欧州経済の推移と共に出て来たと思う。マルクスとケインズ。マルクスは資本主義が発展する、その歪の中とすると、ケインズはそれが斜陽となる中。ケインズが確率の専門家だったのは、量子力学と同期する。彼の経済学は体系的だ。しかるに、20世紀後半は物性・分子遺伝学の時代。だとすると、産業の生態学/分子産業発展学/産業構造学など、生物学・物性論に近い(前2つが物理・化学に帰着したように、科学史論・テクノロジー史論の上に立った、各論に近い)産業経済学が経済学の中心となるべきではなかったのでは?それから、集合体としての経済全体の動向を予測する。そんな視点であるべきだったのが、確率理論の延長とも言える(言い過ぎ、ごめんなさい)予測理論・ゲーム理論に特化したのが、少なくとも金融に措いて功罪だったのでは?
 経済学者=全分野に明るい技術屋。そんなことを考えながら。
 最近思うズブの素人の印象、2点です。