気になる写真!

このブログはその時々の好奇心で、気になった被写体を切り取り、・・・チョットだけ考えてみようと

フラメンコのアンダルシア地方へ

2017-04-02 | 旅行記

ラ・マンチャからさらに南へ・・・約285km ・・・アンダルシア地方に向かいます。

東京からに浜名湖の先、三ケ日のミカン山を抜けて三河の岡崎の手前くらいでしょうか。

地図を見てみましょう。南スペイン・・・アフリカに近い・・・赤く塗った一帯です・・・フラメンコの本場です

コルドバに向かいます。グーグル借用 航空写真では

ジブラルタル海峡は最も狭い所は、・・・14km・・・ジョキングで1時間半くらい?

・・・昼前の高速道路です・・・高原の赤茶色風景から一転、見渡す限りのオリーブ畑です。

丘陵地帯が続き・・・集落も市街地も見かけないまま山岳地帯にさしかかり・・・

3時間も走ったころ・・・やっと人工の設備が見えてきました。

変電所?、送電線・・・

青色の人工的な輝きは・・・整然と並んでいる様は、太陽光パネルでしょう。

アンダルシア地方、・・・今日の特産品は、・・・太陽エネルギー・・・年間を通して太陽光の恵みを受けて・・近代的なスペイン南部です。

すると古風な石積みの鉄橋が見えます、電車を見かけないが・・・走っていると思います。

遠く山並みがあり、緑の樹木があり、川が流れている。・・・肥えた土壌もあるようです。この一帯は穀物地帯だったと思ったが・・・

スペイン縦断、・・・移動が優先で昼飯はこれからだった。

高速を降りて、市内に入ってきました。PM2:15頃

2時から4時頃が当地では昼食時間、まさに車窓からレストランで食事?風景が・・・

オット・・・ウエートレスのファッション、・・・ビビットで素敵なオレンジ 、活動的な印象です。

しかし太陽光を吸収する全身黒は、・・・暑さが倍増するのではと・・・気になりますが・・・

陽気なラテン気質です、闘牛とフラメンコ・・・気合のファッションでしょうか

何やら遠くに旧市街の趣が・・・

ロータリーをグルーリと回って・・・この歴史を感じる橋は、これが有名なローマ橋でしょう

川幅が広いですね。・・・ガイドブックによれば、グアダルキビール川は、ここから南部の州都セビーリャを経由して大西洋に流れ出ます。

橋の右側が上流、左側に向かって流れています。

 ・・・ここは川幅がありますが、氾濫時の水量にも流されない巨大な橋を架けようとするアイディアがすごいですね、土木工学のすぐれた大昔のローマ帝国時代です。

日本では、大井川などの河川は橋を架けないで、自然の境界を利用して治安管理するか、橋を架けて物流効果を上げ国土の発展に役立てるか・・・将軍家の安泰が優先されたようです。

・・・戦になれば・・・橋の全長331m、南から攻められたら守備側は橋を破壊し、この河川で分断をはかります。

紛争が起こるたびに橋が破壊され、・・・その後、修復・・・戦争・・破壊・修復の繰り返しで・・・最近は化粧直しを兼ねて2008年に修復が完了しています。

・・・橋は平時は重要ですから、できたら守りたい・・・要塞を造ります、見張りと守備の役目を兼ねて。

12世紀末イスラム勢力が築いた、カラオーラの塔 Torre de la Calahorra と呼ばれます。(現在では博物館)

・・・この川岸に街路樹が並んでいます、オレンジがいっぱい・・・熟しているようです。

・・・では、レストランで遅い昼食です。

・・・なぜそんなに争いが多かったのか・・・この土地の東は温暖で内海のような地中海です。

2000年以上も前から沿岸を伝って地中海貿易は盛んに行われ、人、物の移動がありました。

日本国・外務省はアンダルシア地方の歴史を、概略このようにまとめています。

 地中海の東で生まれたユダヤ教、・・・ユダヤ教から生まれ、ローマ帝国で国教になり、ヨーロッパ中に拡散したしたキリスト教、

・・・キリスト教から遅れること約600年、モーセ(ユダヤ教)、イエス(キリスト教)を予言者と認めて・・・最後の預言者ムハンマド(マホメット)と呼ばれる人物が、

地中海のさらに東、砂漠のアラビア半島で610年から632年にかけて神の啓示を聖典にまとめ、布教を始めます。

急激に武力と共に支配地を中央アジア、地中海南部沿岸地帯に拡大し、布教も拡大することになります。

この土地は、紀元前からローマ帝国のもとで繁栄し、西ゴート(民族大移動・・・北から侵入)の支配下に、そしてイスラム(南から侵入)と支配者が変わります。

他のヨーロッパ地域が、これから暗黒の中世時代といわれるのに対して、アンダルシアは南国の太陽を浴びて、・・・明るく繁栄します。

・・・ロ-マ橋を渡って、旧市街へ

旧市街地はかつて城壁に囲まれていました・・・そして橋の門があったそうで・・・。

これがコルドバ王国時代の城壁の一部でプエンテ(橋)の門(Puerta del Puente)、ルネッサンス後期に凱旋門に改修されたそうです。

門の上部にレリーフが・・・これは戦士の像、コルドバ王朝時代のものと思われます。

目指すは、メスキータ Mezquita、アラビア語 Masjid が語源とか、・・・スペイン語でモスク、あまり聞きなれない言葉です。

モスクとは、ムスリム(イスラム教徒)の礼拝堂として呼ばれています。

複雑な歴史です・・・目指すのがスペインに現存する唯一のモスクですが、キリスト教徒が奪還して増築・改造して今日に至ります。

イスラム教のモスクがカトリック教の礼拝堂になり・・・今日の「コルドバの聖マリア大聖堂」は、「メスキータ」と名詞で呼ばれます。

再度 グーグルの航空写真を参照

右下から中洲のように張出している市内に入り、中央下部の川岸のレストランで食事を終え

徒歩でローマ橋を渡り、中央部に黄色の四角で囲んだメスキータに向かいます。

左斜め上(銀色の部分がホームの屋根でしょう)、鉄道の駅があり、駅からは市街地を通ってメスキータに入ります。

・・・アプローチとしては、ローマ橋からがお勧めです。

旧市街に入り、左に曲がると、記念の塔があります。

トリウンフォ・デ・サン・ラファエルの塔と呼ばれます。

塔の上部に大天使、ラファエル像、ここコルドバの守護聖人

これは、14世紀ヨーロッパ各地でペストが大流行し人口が激減した悲惨な時代がありました。

このペストの終息を記念して各地で、モニュメントが建てられています。

ここコルドバでも、1765年~1781年と何と16年もの歳月をかけて完成に至っています。

ローマのナボナ広場の噴水(ベルニーニ作)は最高だ、参考にしようとか・・・

・・・この先で、旧市街の観光にと観光馬車が迎えてくれました。

 

この先右側はメスキータの城壁が続きます。トリホス通りを進みましょう、所々入口がありますがメスキータには入場できません。

前方で人混みが、・・・左に土産物屋があります。その向かいの城壁の開口部から中庭に入れます。

 鐘楼を見上げます。カトリック教では鐘楼、しかしモスク当時は鐘も無く、アルミナールの塔(ミナレットとも呼ばれます)として、・・・

 

イスラムの教義では、コルドバの信者に向かって日に5回、アザーンという呼びかけの言葉が唱えられていました。

・・・TVで見たことがありますが、・・・USAのある都市の話・・・モスクができると拡声器から呼びかけの声が市中に流れます。

抑揚に特徴のあるゆっくりしたアザーン(礼拝の呼びかけ)に静かな雰囲気が壊れると反対する陳情が出され、役所では調整に大変な様子が流れていました。

川向うからの景観、このように鐘楼がシンボルで、そして左手前に守護聖人の像が立ち並ぶ旧市街、世界遺産

メスキータの内部を・・・整理中です。

 

 

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