・・・ゴヤ(1746-1828)は、ルネサンスの主人公レオナルド・ダ・ヴィンチの誕生から約300年も時代が進んだ頃に登場し、歴史に名を残した人物です。
プラド美術館のガイドブックによれば、「1819年のプラド美術館創立当初、存命中のゴヤの作品は3点が展示されたのみであった」と記されています。
それ以降、王室コレクションはじめ、各方面から収集し、約150点の絵画、500作の素描・版画シリーズなどを収蔵し、量・質ともに世界最大のゴヤ・コレクションを誇っています。
ベラスケス(1599-1660)とレンブラント(1606-1669)を師と仰ぎ、自然を愛した方のようです。
ゴヤの作品の前に、・・・プラド美術館にもルネサンス三大スターの作品がありました。
「枢機卿」(1510-1511頃) ヴァチカンの枢機卿ですがモデルの名前は不明のようです。
この人物の表情、朱色と白で織りなす見事な衣裳の質感、立体感、濃淡・ハイライトの描画テクニック、美に対する繊細な感性が感じられます。
作者はラファエロ・サンティ(1483-1520)、宮廷画家であった父の血筋でしょう、天才肌です。
肖像画も多く描いています。彼をフィレンツエからローマに呼び寄せたのがユリウス2世。
教皇がスポンサーとなり「ローマ教皇ユリウス2世の肖像」を作成しています。人気者ですから、次の教皇レオ10世からも
「ローマ教皇レオ10世の肖像」
次々に依頼されています。ローマ時代には大きな工房を持ち大活躍します、スタッフを抱え、プロデューサーの才能も有り、社交的で若くして大成功した人物です。
優しく優美な聖母子像は、ラファエロ人気の作品で独特の雰囲気があります。
母を8歳で亡くし、年少から仕事を手伝っていた宮廷画家の父も11歳で亡くしています。母を想い理想の聖母を描いていたのでしょうか。
プラドにあるのは「聖家族」1518年(35歳)頃の作、・・・残念ながらこの後若くしてここローマで亡くなります。
・・・これらはローマ時代の作品です。彼は25歳の頃ローマに来ます。
その前の17歳頃~25歳までの頃、憧れのフィレンツエに何度か行くうちに、フィレンツェに数年間落ち着きます。
この頃フィレンツェで巨匠と新鋭の彫刻家、将来有望の少年とルネッサンス三大スターが顔を合わせる事になったのです。
・・・1498年、巨匠はミラノで46歳「最後の晩餐」を完成させ、争いが静まったフィレンツェに1500年ころ戻ってきました。ここで「モナ・リザ」や「レダと白鳥」などの制作に入ります。
一方フィレンツエで学んでいたが才能を見込まれ、若い彫刻家は1496年ローマに招待され、1498年から制作を始め2年後、25歳で2作目の作品として「ピエタ」を完成させ人々に衝撃を与えます。ミケランジェロです。
今日、「ピエタ」はサン・ピエトロ大聖堂1階右側防護ガラスの中に置かれています。
1500年頃フィレンツェに戻って「ダビデ像」の制作を依頼され、1504年完成させます。
「ダビデ像を」市庁舎広場のどこに据付けるか、依頼主や市、巨匠とカンカンガクガク・・・。今日では、当初の位置にレプリカが置かれています。
ここに、この時代、少年ラファエロが、熱気溢れるフィレンツェにやってきました。最先端の芸術に触れられたのです。
もちろん憧れのレオナルド・ダ・ヴィンチの工房に行き、制作中の「モナ・リザ」(1503~1506年頃)、や「レダと白鳥」などを夢中で模写しているようです。これらの模写作品も有名になっています。
こちらもルーブル美術館で、防護ガラスに囲まれた特別展示室に展示されています。
巨匠はフィレンツェ政庁舎の大会議室壁画の製作依頼を受け、「アンギリアーリの戦い」に着手、
向かいに「カッシーナの戦い」を競作として描くことになり青年彫刻家に依頼されました。
・・・ところで、フィレンツェでは、有名なメディチ家が1494年に追放され、メディチ銀行は破綻、財産没収されましたが、
約20年後ローマにおいて、メディチ家当主のジョバンニ枢機卿が1513年「ローマ教皇」に選出されます。
ラファエロの先程の作品「レオ10世」がその方です。
・・・さてフィレンツエでは、巨匠のレオナルド・ダ・ヴィンチも気鋭の彫刻家ミケランジェロも、新作絵具の失敗や多忙なこともあり、
1505年頃には大会議室の壁画は共に製作途中で放棄された状態になったようです。
遠く南のローマ、カトリックの総本山では、1505年教皇ユリウス2世がサン・ピエトロ大聖堂の大改築を始めます。
ラファエロはローマ教皇ユリウス2世の招きで1508年からローマに移り、多くの大作を残しています。
・・・ミケランジェロは、ユリウス2世から1505年ローマに呼び戻され自分の(ユリウス2世)霊廟を造るように命じられています。
ラファエロは翌年には、教皇の宮殿の壁面にこの有名な大作を含む作品を一部完成させています。
今日、ヴァチカン宮殿のラファエロの間に、この「アテナイの学堂」(1509-1510)などがあります。
・・・彫刻家ミケランジェロはユリウス2世から、霊廟と並行して礼拝堂の天井画を描くように命じられます。題材は12使徒。
気乗りがしない・・・彫刻が一番・・・題材を勝手に12使徒から旧約聖書の「創世記」に変えて、着手します。
この礼拝堂は、ラファエロが「アテナイの学堂」等を制作していました宮殿とサン・ピエトロ大聖堂の間にありました。
1511年ミケランジェロが制作中で未完成の「礼拝堂天井画」を天井の足場を一部外し、大聖堂改築責任者のブラマンテが密かに見せたという話も有名です。
・・・ミケランジェロはラファエロを嫌っていたそうで、ラファイロの死後も彼の作品は盗作だと非難していたようです。
話が脱線・・・この時代に関心があるのでつい・・・
・・・・・
フランシスコ・デ・ゴヤ、Francisco Goya y Lucientes(1746年~1828年)
生誕の地はバルセロナの東、首都マドリードとの中間位にあるサラゴサという街の近くで、父親は金メッキ職人といわれる。
14歳から地元サラゴサで絵画の修行、・・・、24歳でイタリア、ローマに留学、翌年サラゴサに帰ると地元の教会などから次々と仕事が舞い込む。
やはり、この時代になってもイタリア帰りの看板は効果があったようです。やがて27歳で結婚し、マドリードで王立タペストリー工場で40歳頃まで下絵描きをしています。
タペストリーは、下絵を基にして織り込まれ織物が完成します。
この下絵が重要で装飾絵画の一分野とされ、彼の一連の作品は評判を呼び、1789年43歳、カルロス4世の即位と共に宮廷画家(国王の専属画家)となります。
人気肖像画家として貴族、政治家とも交際が広がり、社会的地位も得ていきます。
しかし、二つの不幸が襲います。1793年47歳の時、病気から聴覚を失います。
次の不幸は戦争の現実、ガイドブックなどによると、
・・・1807年フランス・ナポレオン軍がスペインに侵攻し支配下に置かれる。1808年、ナポレオンの兄がホセ1世としスペイン王国の王位に就く。
市民からはスペイン独立戦争が始まる、・・・複雑でしょう。
ゴヤは当時62歳、絶対王政スペイン政府が倒されて、・・・宮廷画家ではあるが知識人たちとも交流があり、宗教的権威に反対する啓蒙主義のホセ1世(ジョセフ・ボナパルト)政権を支持した。
時代遅れの王政から自由で理性的な新しい政治に期待して・・・。
しかし、現実の戦争は・・・残虐で不条理なものでしかなかった。圧倒的な失望感に襲われた。
・・・やがてフランス軍がスペインから駆逐され、フェルナンド7世(1813-1833)が復帰、・・・ゴヤは宮廷画家の粛清から免れたが、友人は新仏派、自由主義者の罪名で投獄される。
・・・1819年73歳晩年マドリード郊外に買った家の壁に謎の多い「黒い絵シリーズ」と呼ばれる絵を描いています。
1828年、亡命先のフランス・ボルドーで波乱の人生、82年間の幕を降ろします。
・・・どのような時代にどのような環境で生活されていたのか、作品と作品の背景に興味がわいてきます。
1800年 カルロス4世の家族 280×336㎝ ゴヤのコーナで人混みになる人気作品です。
詳細な解釈・説明が多方面でされています。
中央右の王子(末子)の描画には、・・・子供には優しさあふれる視線が感じられる。
宮廷直々の注文の王室一家の肖像画ですが、じっくり見て下さい。王子の右隣は国王です、理性と威厳が?・・・政治に無能な王様だったようです。
左側の端から二番目の青年は、皇太子、その後ろが弟の王子・・・その後・・・尊敬するベラスケスと同じように影の中からこちらを見ているのがゴヤ本人です。
右端は、パルマ公爵の妻(王女)腕には国王夫妻の孫、その左長身の男性が夫、さらにその左隣で国王との間の夫婦が王の弟とその妻(当時すでに故人)、
さて国王の王妃は、右手で娘(王女)を抱えて笑顔で素敵に?・・・顎を突き出して不満そうです。(こんな話も・・・王妃マリア・ルイサと愛人が実権を握っていた)
王妃からゴヤにクレームが当然出ました・・・が、ゴヤは毅然とありのままにと言ったかはわかりませんが、修正はしません。
皇太子と王妃の間に、左から4番目は王の妹(内親王)顔に黒い小片がありますが・・・膏薬(コウヤク)だそうです。(普通は描きませんが・・・)
その右側は、・・・肖像画ですから横向きは無いでしょう・・・皇太子が嫌いだったようで、まだ決まらないどこかの王女のようです。
ガイドブックによれば、ゴヤの王室に対する批判との解釈がされた時期があったが、フランスとの関係が険悪であった当時において、
スペイン・ブルボン家の正当性(フランス・ブルボン朝は当時すでに革命により断絶している)と、その重要性を主張したと見るのが妥当である。
と書かれていました。(ご参考まで)
・・・
「裸のマヤ」制作年代が1800年以前とあります。98×191㎝
個人宅の壁面に飾っていたのでしょう。
依頼主も不明、もちろんカトリックの国です、裸体画は異端(カトリックの教えに反する)審問の対象になります。
当然有力な権力者からのポルノの依頼でしょう。リスク覚悟で描いていますが、1815年、国王に告発者があったのでしょう、ゴヤが異端審問所に召喚されたとする説があります。
異端審問、実はフランス統治下の1808年廃止されたが、1814年にフランスから独立すると復活します。
裸体の表現は、厳格なスペインではタブーで、・・・結果は?・・・警告くらいだったのでしょう。
12万5000人くらいの裁判があり、1~2%が死刑、大半は警告か、無罪だったようです。
「着衣のマハ」 1800~1808年 95×190㎝
「裸のマヤ」と「着衣のマヤ」は並んで展示されています。両作品とも有名ですから、ここも人混みとなっています。
この作品は、1808年のゴドイの資産リストにその記録があるそうです・・・1808年の作成?・・・この年は?・・・、
ナポレオンの侵攻で慌てて資産リストを作成したのでしょう、裸のマヤは記載されていませんが・・・。
・・・次が連作となっていますが、ゴヤの葛藤でしょうか 。祖国の一大事、1808年です。
「1808年5月3日の銃殺」 1814年~ 268×347㎝ (ゴヤは、・・・無名の市民を英雄として描いた)
5月2日 市民が隆起する、・・・マドリッドのプエルタ・デル・ソル広場で、素手やナイフで仏騎兵に立ち向かったが捕えられ・・・
その日午後から夜にかけて、フランス軍はマドリードの各所で反乱に加担した者を命令により銃殺で処刑した。
直視できず、フランス兵は目を伏せて撃っていたのでしょうか?
中央から右に処刑を待つ人々の列が・・・
フランス軍の外燈の光が照らし出す・・・この場所は、マドリードの外周門プエルタ・デ・ラ・ベガ付近と思われ、
背景の塔は、サンタ・マリア・レアル教会かサン・ニコラス教会と思われるとあります。
この絵の細かい説明が色々ありますが、割愛。
・・・(それから6年間抗仏戦争の後、1814年にフランス軍を追い出す。)
このような社会性のある絵が、その後ピカソらに影響を与えました。
・・・
他にもあるプラド美術館、人気画家の作品を3点ほど
この画家も波乱の人生、モデルを使用して考えた、構図、光と影、ドラマチックな作品の数々
「ゴリアテを負かしたダヴィデ」1600年頃の作品 110.4×91.3㎝
カラヴァッジオ 1571年生まれ
「ゴリアテの首を持つダビデ」:ローマ「ボルゲーゼ美術館」も有名です。
・・・
「三美神」 1630~1635年頃の作品 220.5×182㎝
ルーべンス 1577年生まれ
このような(現実的な)肉感あふれる女性美は・・・ご覧になるのは?始めてでしょう。
肉屋のルーベンス、血の通った生身の身体の美しさが好き、(太った女性が好き)のようです。
・・・
「ユディト、ホロフェルネスの晩餐会の席にて」 1634年頃の作品 142×154㎝
4
レンブラント 1606年生まれ
オランダ絵画の巨匠、この作品も従来の1887頃の写真では左奥に袋を持った老女やカーテンがあることで解釈が変わって来て・・・
題名も、・・・晩餐会の席にてと変わってきています。
また、有名な「夜警」1642年作・・・も背景の黒は経年変化で茶色く変色していたためで、市民隊(火縄銃手組合による市民自警団)の行進を命令する
との記述がある素描が見つかり、昼の情景を描いていることに解釈も変わりそうです。
・・・
そう!、最後にガイドさんの重要な一言が・・・
ここに展示されている「モナ・リザの複製」は1666年からスペイン王室のコレクションとなっていました。
・・・18世紀に背後に広がる景観が黒く塗りつぶされていたが、最近(2011年)無傷の状態で洗浄が済むと、上塗りで隠された変更点、訂正箇所が発見された。
これらはオリジナルのルーブル美術館と大部分で共通しているので、ダ・ヴィンチの工房の作者不明「モナ・リザの複製」は、オリジナルと並行して同時に描かれた作品である。
但し、スフマート技法とはかけ離れたイラスト的作風で弟子の作品と思われるが、高価な顔料が使われ保存状態も良く単なる複製ではないことがわかる貴重な作品とのことです。
(背景の描写・色彩が分かり易いですね、この作品から背景について新しい解釈が生まれてきそうです。)
何度でも見たくなる、そんな作品がたくさん増えると楽しいですね。では、
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