サン・マルコ広場の一角に鐘楼が・・・、高さは、ガイドブックによれば96.8m、素晴らしいランドマークです。
エレベータで、60mまで一気に登ります、・・・展望台から・・・これは前回の動画からの画像です。
東側の眺望。奥に見えるのは・・・大陸と続いている細長い半島のような低地で、砂州の親分でしょうか。
この島の周囲にも多くの島が点在し、どこまでが潟でしょう、・・・右側の隣の隣?が外海です。
・・・眼下の寺院でした。
気になるサン・マルコ寺院は、
屋根の上に、ネギ坊主がモコモコトと。
・・・なぜ 聖マルコがこの地に? 寺院の正面に絵解きがありますので・・・後程。
この寺院の建立は11世紀、東ローマ帝国のコンスタンティノープル(現イスタンブル)の聖堂がお手本といわれています。
ヴェネツィアは早くから東方と交易があるので、半球状のドーム(伊:クーポラ)を屋根に載せる工法も確立していたようです。
十字の中央部が一番高いドーム、手前の主身廊と奥の内陣にも各々ドームが載り、更に左右にと・・・何と五つも載せています。
だから内部で天井を見上げると窪みが連続して続き・・・側廊から進んで斜から見上げる結果、さらに複雑な凹凸に戸惑います。
ビザンチン様式に、西ヨーロッパの様式を16世紀頃まで次々と加飾して、完成に至ったようです。
ところで・・・西ヨーロッパ社会が1096年に第1回十字軍を送り、イスラム圏の進んだ文明に驚いたようですが、
ヴェネツィアは、長い間の取引先です・・・参加はしていません。
ローマ法王の熱弁が有名です・・・「ヨーロッパは貧しくみじめだが聖地エルサレムは乳と蜜が流れるところ」
「この地で不幸な者は、彼の地で幸せを得るだろう」
「聖地奪還は神の御業であり、神の御業に参加する者には、罪が許されて、贖(あがな)いは免除される」と
・・・得意の手法で信者を脅し、1000年も昔の聖地は他国の土地だが、
聖地エルサレムが異教徒に圧迫されている、殺人は免罪される奪還しようと。
・・・次男・三男や農業に従事する若者が・・・未来に希望が持てるなら正義の騎士として、異国の地へ戦いに。
11世紀、ヴェネツィアは、海軍を要しアドリア海を支配下におき、繁栄していました。
1202年イスラム教徒に取り返されていた聖地獲得に第4回十字軍を編成し、ヴェネツィアに輸送船を提供してと、
ヴェネツィアは、遠征軍リーダーに・・・乗船料はこれくらいと、・・・エーッ、金の集まりが悪く・・・船賃が無い?
・・・では、アドリア海の都市ザーラを奪い返してと条件を出し・・・遠征軍は奪還してくれました。
では、船と船員も提供し十字軍に参加しましょう・・・ヴェネツィアは法王の威厳、エルサレムの聖地奪還より
地中海交易でライバルの東ローマ帝国の首都、コンスタンティノープルを占領し実益を得ようとします。
難攻不落の要塞が陥落し、首都を占領しました、参加国で占領地を分配し・・・ついでに財宝類を持ち帰りましょう。
1204年のことです。
・・・サン・マルコ寺院にはアレやこれも、沢山残っています。
・・・展望台で、もう少し南に向いてみると、・・・この光景が見たかった。
この港から外海に出て行く船道は、左前方に進みS字形に島の間を抜けていきます。
ヴェネツィアは、12世紀に巨大な国営造船所を建造し、大航海時代までヨーロッパで最強の海軍がありました。
本島の東端にありましたが、現在は立入禁止区域のようです。
素敵なコバルトブルー、いや若干エメラルドグリーンにも・・・濁流が流れ込むことが無く、海の色が綺麗です。
・・・更に少し右に・・・見えている部分は潟に点在する小島です。
球体の海面に光が反射し真珠のようです。平和な光景です。
海に突き出た所に建つ教会が デル・サルーテ教会です。
右側に柱があるので・・・移動します。
サンマルコ広場、寺院の真向かいです。
広場正面には、共和国時代この場所に教会が建ち繁栄を見守っていたそうです。
・・・オーストリア軍を追いヴェネツィアの領土、ヴェローナにやってきたフランス軍のナポレオン
中立宣言のヴェネツィアに味方に付くよう脅迫し、・・・物資の提供を受けながら戦う意志のない相手に宣戦布告、
そしてヴェネツィア共和国は1000年の歴史が終わってしまう屈辱の白旗・・・
フランス軍とオーストリア軍は1797年10月講和条約を結び、ヴェネツィアはオーストリア領に。
・・・ナポレオン様ご一行が来島されるので宿泊施設を、真向かいに左右の建物と調和させ建てたようです。
ナポレオンがこの地に立ち、「世界で最も美しい広場」といったのは、有名な話とのこと。
このような時代だったでしょうか、かつて宿泊したホテルに飾ってありました。
こちらは、北側、大陸と結ぶ鉄道・道路が走っています。
もう少し北東に向きを変えると、共和国時代の商業の中心地、リアルト橋があります。
・・・
ヴェネツィアは、5世紀に戦闘民族から逃げて、湿地帯にある無数の小島の一角(現在より東)に移住したとされます。
・・・ヴェローナで見かけた・・・ローマ帝国が建てたアリーナや公共施設が無いのは、・・・港にも使えないこの地は重要視されなかった。
ナポレオンがオーストリア軍を追ってきた時点で、下図は全てヴェネツィアの領土でしたが、陸路はパドバまで、
赤〇がヴェローナ、青〇はパドバという都市、本島へは・・・
ここから河川を舟で約35㎞くらい下り、渡ったようです。
川の両岸には別荘や住宅が建ち、農業が行われていました。
ヴェネツィアは、地理的に東西ローマ帝国の中間に位置し、戦闘民族では無いがアドリア海を利用して
交易で生きるには、まずは物流の安全には海軍の強化(造船能力と乗組員)、交易相手との友好には外交力
情報の収集には各国に大使館を置き諜報活動も優れていたようです。
国の統治は、かつてのローマ帝国のような共和制、元老院(貴族院)、元首の監視に二人の護民官を置き、
法の支配は貴族といえども厳格に、信教は自由と先進的でした。
しかし、21世紀、改めて問題になっているのが宗教、
今日の信者数:一説には、ユダヤ教:約1700万人、キリスト教:24億人、イスラム教:18億人、ヒンドウー教:約18億人、仏教:約5億人・・・)
これらの宗教の中で、一神教の与える恐るべきマインドコントロールパワーに驚くと共に、なぜこうも信者が多いのか
この疑問が少しでも解けるように、またイタリア各地でアレコレすることになったのです。
サン・マルコ広場(以前の画像・寺院の北側 修理中)
右側の建物の回廊
シャンデリアのような、光の滝が・・・
中央部右側に、・・・ガイドブックで必ず紹介されているお店です。
フローリアン、1720年創業、現存するカフェでは世界一古く、ゲーテなどの来店は有名
フローリアンの前の広場には、11時頃から椅子が並べられます。
広場の向かい側には、1775年創業のカフェ・クアードリがあり、こちら側にも椅子が並び始めます。
サン・マルコ寺院
一部では、サン・マルコ大聖堂とも呼ばれるが、共和国時代はカトリックの司教座は、島の端にある別の教会に置かれていた。
この地でも、若きナポレオンがミラノのドォーモと同様、教会のありように強引に介入してきたようです。
島の端の教会から、この広場の有名なサン・マルコ寺院をカトリック教の司教座に代えたので、
一部の関係者は大聖堂と呼んでいます。しかし信教の自由な土地ですから、昔からの寺院と呼ぶ人が多いとのこと。
さて、寺院の正面、ドームが半球ではなく縦長のプラネタリウムか天文台のように立派な造りです。
正面ファサードの頂上にシンボル、このヴェネツィアの2代目守護聖人です。
手に持つのは福音書でしょう。
キリスト教では4人の著者の福音書が採用されていますが、最も古い紀元50年頃に書かれたとされる著者です。
聖マルコの像が建つ、サン・マルコ寺院です。
少し目線を下げると、羽のあるライオン:マルコのシンボルでもあり、ヴェネツィアのシンボルがここにもあります。
日本語で、有翼の獅子と説明しているガイドブックも見かけます。
・・・中央入口の上部、半円形の部分に鮮やかな色彩で描かれているのが、・・・
あまり話題にならないが、キリスト教でも禁止していた偶像崇拝に逆らって、正面中央は無難にイエスと十字架。
この建立時期は、神聖ローマ皇帝とローマ教皇が対立し、ヴェネツィアは神聖ローマ帝国と争い、
その後、帝国と教皇を和解に導き、教皇から感謝され・・・共和国はキリスト教に重心が移っていったようです。
それから、何故かアーチの上に4頭の精巧な馬がいます。
これは、コンスタンティノープルからの略奪品(銅製のレプリカ)です。
中央の入口以外に、・・・左右に各々2場面、計4か所で描かれているのが、この寺院ができた由来です。
右端:ターバンの人々が何をしているのか・・・
ヴェネツィアの交易相手は、東ローマ帝国やイスラム国、アラブの国々と西ヨーロッパの国々です。
大昔、アレクサンドリアで布教していた聖マルコ が捕らえられ・・・その墓が発見されたとの情報が・・・
キリスト教会でブームになっていた聖遺物、ガラクタでもなんでも物語があれば高く売れた時代です。
ヴェネツィアでは守護聖人をギリシャ出身のテオドーロよりは、聖マルコの方が格が上、
その遺骨が手に入れば正真正銘の聖遺物、異教徒のエジプトの墓から盗み出す・・・作戦が練られ
828年、イスラム教徒が嫌う豚肉で覆って・・・そんなシーンらしいです。
隣りは、自国の船でヴェネツィアに何とか到着
左の3番目のシーンが
結構、力を入れて描かれています。
ドージェ(元首・総統・軍団長)による遺体の引き取り場面です。
遺体を祀る寺院の建設が始まるのは・・・すぐです。
2年くらいで最初のサン・マルコ寺院が完成し、ヴェネツィア共和国は守護聖人を聖マルコに改めました。
一番左が、聖堂に聖遺物(聖マルコの遺体)を運ぶ行進の図です。
このモザイク画は13世紀の完成で、4つの中で一番古いようですから、この新しい寺院ができてから200年後です。
時代は、・・・ライバルだったジェノバ共和国と戦い・・・勝利して、
貿易・商業で他国が嫉妬する程するほど富を集め、地中海交易は前途洋々、そろそろ自国自慢が解禁されたようです。
・・・本堂に入ります。
金色がベースですが・・・ガイドブックはモザイクとありますが、モザイクとしては繊細、画素は・・・?。
画像からでは不明です
1000年もの長い間、蝋燭の煙や香炉で若干くすんだような、沈んだ感じになったのでしょう。
完成当時は、これ以上に豪華、光り輝き・・・。
これは、採光もよく、雰囲気は出ているが
汗だくでこられた巡礼者も多かったでしょう。振り香炉も活躍しています。
こちらの画像では、中央と内陣のドームでしょうか
画像が傾き判り難いが・・・多分中央のドーム、ガイドブックでは12世紀後半の傑作
ルカによる福音書「昇天」聖母マリアと12人の使途がキリストを見上げ・・・以下略
こちらも画像がブレていて・・・そうでした、ここは撮影禁止のようでした
以前は今回と同じく11:30頃、照明が点いた時間帯に多分撮影が可能で
探し出した画像です。
このように主身廊から正面の祭壇を見ると、天井のドームの状態が多少理解できます。
モザイクの主要テーマは、キリストの生涯と受難、そして復活とあります。
制作時期が12世紀から14世紀中までとあり、有名な画家ティツィアーノの下絵をモザイクにした作品もあるとのこと。
こちらの内部も含め16世紀頃まで、コツコツと手を加えられていたようです。
・・・前回は、照明が暗い中、内陣の後ろに別料金で入れるコースがあり、但し宝物の撮影は禁止
「パラ・ドーロ」と呼ばれるサン・マルコ寺院の最大の宝物が据え付けられていました。
これはヴェネツィアの依頼で、コンスタンチノーブルで制作された「黄金の聖壇の飾り」
黄金と数々の大きな七宝が嵌め込まれた大きな衝立状の工芸品でした。
・・・今回は、別料金でテラスに上り広場を見ます。
右側の狭い急な階段を5mほどでしょうか、結構上ります。
そして右側にテラスがあります
何これ! 掠奪してきた4頭の馬、競馬場に置かれていたものらしいですが、素晴らしい作品です。
テラスからの北側広場です。
回廊と上部の窓のアーチが整然と並び重厚な建築物です。
鐘が鳴っていました、あちこちから・・・昼12時のようです。
天気が悪く、広場には両側のお店から4か所テーブルが並べられましたが、閑散としています。
では内部に戻り、テラス内側からの豪華な本堂の様子が鑑賞できます。
階段を降り出口に向かいますが・・・
下の画像の様子は、前々回・・・床上に海水が上がって・・・でもこの位は慣れたもので
このような仮設廊下が造られ、落ちないように進んでいるところです。
では、リアルト橋に行きます。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます