気になる写真!

このブログはその時々の好奇心で、気になった被写体を切り取り、・・・チョットだけ考えてみようと

金剛峰寺というお寺

2015-12-01 | 旅行記

奥の院を後にして、先程駐車場が満車だった金剛峰寺に車を走らせる。

観光バスが駐車場の入口に並んでいる。空いたスペースを探していると運良く、バスの裏側に1台分のスペースがあり枠内に駐車できた。

駐車場前の道路を渡り、ここからお寺への参道です。

世界遺産 金剛峰寺の案内板によると、

「1131年10月17日に覚鑁上人(カクバンショウニン)が、鳥羽上皇の許しを得て大伝法院を建立、その後豊臣秀吉が亡き母公の菩提を弔うため、木喰応其上人に命じて建立したことに始まります。

当時は、秀吉公の母公の剃髪が納められたため、剃髪寺と名付けられたそうですが、のちにその名を青巌寺(セイガンジ)と呼び、応其上人の住坊(ジュウボウ)となりました。

その後は法印御房の住坊となり栄華を誇りましたが、再三の火災によって焼失し、現在の本殿は1863年に再建されました。

1868年(明治元年)に行政官から青巌寺を金剛峰寺に改号するように指導され、さらには隣接していた興山寺というお寺を庁舎として使用することになりました。

1869年(明治2年)この二つのお寺は合併され総本山金剛峰寺として現在に至っています。」

・・・正門(1593年の再建)の向こうに檜皮葺の大主殿が見えます。大きな塔婆も、

「昔はこの門を正面から出入りできるのは、天皇、皇族、当山の重職に限られていました。今でも一般の僧侶は、右の小さな入口をもっぱら利用しています。」とも記されています。

・・・堂々と正門から入ってしまいました。

大主殿(東西54m、南北63m)をはじめ、別殿、新別殿、奥殿、新書院、茶室、阿字観道場(瞑想を体験できます。1時間くらい、参加料¥1000-)、経蔵、

そして右側に鐘楼(1864年の再建)があります。

・・・伝燈国師廟、護摩堂など・・・境内は総坪数48,295坪の広さです。

金剛峰寺のHPより画像を拝借

正面の大玄関に龍の立派な彫刻が・・・

さて、「金剛峯寺(コンゴウブジ)」の名称は、空海さんがこの聖地、高野山一山の総称として、金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経(コンゴウブロウカク イッサイ ユガユギ キョウ)というお経より命名されたそうです。

高野山金剛峰寺の名称は、山号が高野山となります。

昔はこの地の寺全体が金剛峰寺でしたが、明治以降から現在では、各種行事、法要などは壇上伽藍の金堂(本堂)で行われ、この金剛峯寺は、高野山弘法大師御廟を信仰の中心とされる高野山真言宗の総本山として、1000万大師信徒の信仰の中心となっています。 

 

・・・下図のように建物の正面から右側に回り込んだ所が入口です、下足を脱ぎ入場します。

 座敷を次々に拝見していきますが、建物内部は撮影禁止なのでパンフレットの一部をご紹介します。

パンフレット中央の画像を、・・・別途HPより借用したの画像を再掲します。

ここ柳の間、悲しい事件が起こっています。1595年、秀吉から自刃を命じられた二代目関白豊臣秀次が、ここで自害しています。「秀次自刃の間(ジジンノマ)」です・・・秀吉 我が子可愛さで・・・晩年の老害でしょう、忠告者の声に、・・・聴く耳持たず 。

・・・渡り廊下で、左側の別殿に進みます。

上の画像が、別殿(ベツデン)、1934年(昭和9年)弘法大師御入定1100年に建てられました。

・・・さらに左下の新別殿に進みます。

この部屋に進む手前で、お茶のサービスを受けました。上の画像のようにお茶を頂き、この部屋でしばし休憩。この建物は、1984年(昭和59年)弘法大師御入定1150年建立、参詣者への接待所として建てられたコンクリート造りの入母屋式建物です。

新別殿を出て、ここから庭園や阿字観道場、書院、中庭、売店、台所などを通ります。

庭園は回廊のような廊下を進みます。・・・屋外だから撮影は大丈夫でしょう・・・歩きながらのスナップ写真です。

 

・・・イタリアやフランスの修道院にも建物の周囲の廻廊を歩けるような構造が多く見られます。修道僧が瞑想の時間に利用しているようです。

この白砂は、海原か雲海か・・・雄大な自然界を庭園という様式に凝縮して表現する日本独特の文化は、・・・大切にしたいですね。

 

この金剛峯寺で有名な庭園が、蟠龍庭(バンリュウテイ)です。一部改宗中でしたが。

ここも新別殿と同じく1984年に造園されました。2340㎡ 国内最大級の石庭とありました。

もう一つ、時間が無くて体験できなかったのが残念!

阿字観道場です。上部画像はHPより借用。この建物は1967年(昭和42年)建立とのことです。

・・・最後に大きな釜がある広い台所を通って・・・どこかで見たのと似ている・・・(永平寺の台所によく似ていました)

出口から斜め右方向を見ると 、程好い大きさの落ち着いた建物が木々の緑と実に良く調和していました。

経堂のようです。

・・・突然、鈴鹿の家族から夕食を一緒にとTELがあり、6時頃までに寄れないか?と

他にも周りたい所が有るのと高野山からの夕日が見たい・・・ウーン、朝靄の高野山も体験していないのだから、・・・しょうがない、また来よう

3時半高野山を後にする

ここ高野山は、空海さんが日本の国の形ができたころ、原生林を切り開かれ、真言宗(密教)の曼荼羅の世界を体験し修行できるように努力され、晩年自ら即身成仏も示されさらに入定され、伝説が生まれた。

・・・「有難(アリガタ)や、高野(タカノ)の山の岩陰に 大師はいまだ 在(オワ)しますなる」・・・弘法大師 第一番 御詠歌「金剛(コンゴウ)」

高野山は、空海さんが見守ってくださる聖地でした。

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 奥の院 三の橋から | トップ | ちょっとした試練を体験して »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

旅行記」カテゴリの最新記事