Tiangangの毎日

浦和から国分寺に引っ越したフットボール好き。レッズの試合や食べたもの、旅行、読んだ本などをのんびり書いてます。

「希望格差社会とフットボール」

2005-01-06 22:40:14 | Weblog
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・「中央公論04年12月号」の山田昌弘氏の「希望格差社会の到来~努力が報われる人、報われない人~」を読んだ。社会にとって問題なのは、単なる貧富の差ではなく、努力しても無駄であると絶望感に陥る人々が増大することであり、社会の分断と停滞、社会秩序崩壊への脅威になり得ると警告している。私は、今の日本は、スポーツ選手やITビジネスの若手実業家等がびっくりする程の収入を手にして騒がれるなど、旧来の閉塞的平等社会ではなく個人の実力と能力に応じて大きく報われる社会へ変わっている印象を持っていた。しかし、著者の指摘はこうである。現代の日本社会は、一方で職業、家族、教育等の面で「努力しても報われない」人々が増えている。もちろん経済的格差は以前から存在していたが、人々はそれを質的なものではなく、量的なものであると意識し、時間が経過すれば追いつくことができるものと意識していた。ところが90年代に世界的に起きた社会・経済構造変化の中で、職業面で将来が約束された中核的・専門的労働者と使い捨て単純労働者の分断がなされたというのだ。この後者に分類される人々(いわゆる単純な下働き労働者、フリーター)は「努力すれば報われる」希望がもてなくなるという。職業の分断は家族生活にも影響をもたらす。医者夫婦、教員夫婦など子育て期もフルタイムで働ける夫婦は勝ち組夫婦として努力を続け希望を持てるが、対極に男女ともフリーター等経済的に不安なまま「できちゃった結婚」をして将来の家族生活に明るい希望がもてない人々が出現しているとする。この「努力をしても報われない人々」の増加が社会へ大きな影響(新興宗教、ドラッグ依存、「やけ型」反社会的犯罪等)をもたらす危険があるとしている。現行のセーフティーネット対策(最低生活保障)やチャレンジ支援(失敗しても再挑戦するチャンスが多ければ、意欲が出る)という対策は「努力が報われない組」を「努力が報われる組」に移行させるには不十分だとしている。著者は、多くの人が「努力が報われる」ことを実感できる場を公共的につくりだすことが重要だと主張している。それは何であろうか。職業以外での、例えば努力すれば評価や感謝を通じて「報われる実感」を味わえる地域コミュニティーや趣味のサークルでの活動の場なども該当するのではないか。一生懸命に地元のフットボールクラブを応援して何年かに一度クラブを優勝させることが出来れば、努力が報われたと感じ、希望を持って生きることが出来る。そんな希望価値をつくり出す役割をフットボールクラブにも担って欲しい。