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漢詩を楽しもう

tiandaoの自由訳漢詩

ティェンタオの自由訳漢詩 杜甫35ー39

2009年12月05日 | Weblog
 杜甫ー35
   陪鄭広文遊何        鄭広文に陪して 何将軍
   将軍山林十首        の山林に遊ぶ 十首
   其一              其の一

  不識南塘路     識(し)らず  南塘(なんとう)の路(みち)
  今知第五橋     今は知る  第五橋(だいごきょう)
  名園依緑水     名園は緑水(りょくすい)に依(よ)り
  野竹上青霄     野竹(やちく)は青霄(せいしょう)を上(さ)す
  谷口旧相得     谷口(こくこう)とは旧(かねて)より相い得(ちぎ)れば
  濠梁同見招     濠梁(ごうりょう)に同じく招かれぬ
  平生為幽興     平生(へいぜい)より幽興(ゆうきょう)の為には
  未惜馬蹄遥     未(いま)だ馬蹄(ばてい)の遥かなるを惜(お)しまず

  ⊂訳⊃
          南塘の路の美(よ)さには  不案内だったが
          いま  第五橋を渡っている
          めざす名園は  緑水に沿ってひろがり
          野生の竹が   すっくと青空に伸びている
          鄭虔は古くから気の合う友であり
          水辺の山荘に  いっしょに招かれた
          自然を楽しむためならば  日ごろから
          遠くに馬を走らせても    厭いはしない


 ⊂ものがたり⊃ 杜甫の詩魂は不遇ななかで次第に研ぎ澄まされてゆきますが、そんな夏、かねて親しくしていた鄭虔(ていけん)に誘われて、何(か)将軍の山荘に招かれます。何将軍の伝は不明ですが、鄭虔は国士監(国立大学)の教授で、広文館博士でした。学者で絵もよくする文人です。
 其一の詩は山荘に赴くところで、「南塘」は長安の南郊西寄りの地になります。杜甫はこの地をはじめて訪れたようです。「第五橋」は橋の名前ですが、第五は順番ではなく、人の姓だそうです。「口谷」は漢の隠者鄭子真(ていししん)が隠棲していた場所で、鄭虔と同姓であることから鄭虔をしゃれて「口谷」と言ったものです。
 杜甫はこの詩で「幽興」という語を用いています。幽はもともと物事の奥深さ、ほの暗さをいう言葉でした。杜甫はそれを、自然の摂理のはかりがたいこと、自然の営みの奥深さの意味に用い、新しい語感をつけ加えています。

 杜甫ー36
   陪鄭広文遊何        鄭広文に陪して 何将軍
   将軍山林十首        の山林に遊ぶ 十首
   其二              其の二

  百頃風潭上     百頃(ひゃくけい)  風潭(ふうたん)の上
  千章夏木清     千章(せんしょう)  夏木(かぼく)清し
  卑枝低結子     卑枝(ひし)は低くして子(み)を結び
  接葉暗巣鶯     接葉(せつよう)は暗くして鶯を巣くわしむ
  鮮鯽銀糸膾     鮮鯽(せんそく)  銀糸(ぎんし)の膾(なます)
  香芹碧澗羮     香芹(こうきん)  碧澗(へきかん)の羮(あつもの)
  翻疑柁楼底     翻(かえ)って疑う  柁楼(だろう)の底(そこ)
  晩飯越中行     晩飯(ばんはん)  越中(えつちゅう)を行くかと

  ⊂訳⊃
          広さはおよそ百頃  風の吹く池のほとり
          千本ほどの夏木立 清らかに茂っている
          枝は垂れ下がって  低いところで実を結び
          葉陰の暗がりには  鶯が巣くっている
          活きのよい鮒は   銀糸の刺身となり
          香りのよい芹は   山菜の羹となる
          ふとなんだか  舟の苫屋(とまや)の底にいて
          夕飯などを食べながら  越を旅する心地がした


 ⊂ものがたり⊃ 其の二の詩では、山荘の自然を繊細な目で描いています。対句が揃っていて、首聯は風と池と夏木立、頷聯は枝葉と木の実、鶯の巣、細かい観察です。頚聯は川魚や芹の料理、対句と言っても硬直的でなく、柔軟に描かれているところが杜甫の技量のすぐれているところだと思います。
 尾聯では、新鮮な山里の料理を食べながら、若いころに旅行をした越を思い出すと詠っています。現在と過去を結びつけて、詩にふくらみを持たせているのです。

 杜甫ー37
   陪鄭広文遊何        鄭広文に陪して 何将軍
   将軍山林十首        の山林に遊ぶ 十首
   其六              其の六

  風磴吹陰雪     風磴(ふうとう)に陰雪(いんせつ)の吹くは
  雲門吼瀑泉     雲門(うんもん)に瀑泉(ばくせん)の吼ゆるなり
  酒醒思臥簟     酒醒めて簟(たかむしろ)に臥(ふ)さんことを思い
  衣冷欲装綿     衣(ころも)冷ややかにして綿を装(よそお)わんと欲す
  野老来看客     野老(やろう)  来たりて客を看(み)
  河魚不取銭     河魚(かぎょ)  銭(ぜに)を取らず
  只疑淳樸処     只(ひとえ)に疑う  淳樸(じゅんぼく)の処(ところ)
  自有一山川     自(おのずか)ら一山川(いちさんせん)有るかと

  ⊂訳⊃
          風の吹く石坂道に  冷たい雪が吹きつけるのは
          洞窟に瀧が吼える  飛沫であった
          酒の酔いが醒めて  竹筵に寝そべりたいが
          着物がひんやりして 綿を入れたいほどである
          客に会いたいと     村の老人たちがやってきて
          手土産に持って来た  川魚の代金を取ろうとしない
          この淳樸な人たちの  住むところこそ
          別天地ではないかと  ただひたすらに感じ入る


 ⊂ものがたり⊃ 其の六の詩の前半では、山荘の涼しさを詠っています。それは近くに瀧があって、水飛沫が吹いてくるからでした。「雲門」は雲を吐き出すと信ぜられていた石門のことで、後半の布石になっています。
 後半の頚聯では村の老人たちが訪ねてきて、土産に川魚を持ってきますが、代金を受け取ろうとしません。その淳樸な人柄に、杜甫はこの地は陶淵明の『桃花源記』に出てくる桃源境のようなところではないかと感じ入るのです。

 杜甫ー38
   重過何氏五首        重ねて何氏に過る 五首
   其一              其の一

  問訊東橋竹     東橋(とうきょう)の竹を問訊(もんじん)するに
  将軍有報書     将軍より報書(ほうしょ)有り
  倒衣還命駕     衣(ころも)を倒さにして還(ま)た駕(が)を命じ
  高枕乃吾廬     枕を高うすれば乃(すなわ)ち吾が廬(いおり)なり
  花妥鶯捎蝶     花の妥(お)つるは鶯の蝶を捎(かす)めるにて
  渓喧獺趁魚     渓(たに)の喧(かまびす)しきは獺の魚を趁(お)うなり
  重来休沐地     重ねて休沐(きゅうもく)の地に来たれば
  真作野人居     真(しん)に野人(やじん)の居(きょ)と作(な)る

  ⊂訳⊃
          東の橋の  竹のようすを尋ねてやると
          将軍から  返事があった
          衣を逆に着るほど急いで  馬の支度をさせる
          枕を高くして寝ころぶと   わが家のような気分になる
          花が散るかと見えたのは  鶯に追われた蝶々で
          谷川の音が騒々しいのは 獺が魚を追いかけているのだ
          重ねて  将軍の安息の地を訪ねると
          ここは本当に  野人の住まいかと思えてくる


 ⊂ものがたり⊃ 杜甫が何将軍の山荘をはじめて訪れた天宝十二載(753)に、長安は日照りと水害に交互に見舞われました。そんななか、杜甫が妻子をかかえて浪人暮らしをつづけられたのは、奉天県令の父杜閑の援助があったからだと思われます。
 父杜閑の官歴は奉天県令までで、死去の年はわかっていません。しかし、天宝十二載のころまでに死去していたとみられます。父親の死後に継室の盧氏と三子一女の異母弟妹が残されました。すぐ下の別の異母弟は、斉州(山東省済南市)管下の県の下級事務官になっていて、はやくに自立していました。
 盧氏の生んだ長子杜観は杜甫が長安に出てきた年に生まれていますので、まだ八歳に過ぎません。ほかに杜占、杜豊の幼い弟と一女がいて、これら父の遺族五人の生活は杜家の嫡子である杜甫の肩にかかってきます。加えて、この年の秋には杜甫の次子宗武(幼名は驥子)が生まれていますので、杜甫は大家族をかかえて生活困窮の度が加わります。
 任官して収入を得ることは、もはや一刻の猶予もできない状態になってきて、天宝十三載(754)の正月、杜甫は三度目の延恩匭投書を行いました。そのほか中書省の起居舎人(従六品上)の田澄(でんとう)や宰相の韋見素(いけんそ)にも嘆願の詩を贈っています。
 その春、杜甫は長安南郊の少陵原の一角、杜曲の地に家を借り、城内から転居しました。杜陵は杜甫の尊敬する遠祖杜預(どよ)の居宅のあった地ですが、転居の本音は自分も入れて十人の大家族になり、城内では暮らすことが困難になって田舎に移ったのでしょう。
 杜曲に転居して間もない晩春のころに、杜甫は何将軍に書簡を書いたようです。住所の移転などを伝えたのかもしれません。すると何将軍から遊びに来ないかという返事が届き、杜甫は大喜びで出かけてゆきます。
 其の一の詩は、何将軍の山荘を再訪するときの詩ですが、小さな子供が七人もいる自宅では騒々しくて、さすがの杜甫も落ち着いて詩想を練ることもできなかったでしょう。山荘に来て、ゆったりした気分になったことが山荘の自然の描写と併せて描かれています。獺(かわうそ)の騒々しいようすなどを持ち出しているのは、杜曲のわが家の騒々しさと比較していると考えると、杜甫の気持ちがよくわかります。

 杜甫ー39
   重過何氏五首        重ねて何氏に過る 五首
   其五              其の五

  到此応常宿     此(ここ)に到っては応(まさ)に常に宿すべく
  相留可判年     相い留(とど)めらるれば年を判(す)つ可し
  蹉跎暮容色     蹉跎(さた)たる暮(くれ)の容色(ようしょく)
  悵望好林泉     悵望(ちょうぼう)す  好林泉(こうりんせん)
  何路霑微禄     何の路(みち)か微禄(びろく)に霑(うるお)い
  帰山買薄田     山に帰りて薄田(はくでん)を買わん
  斯遊恐不遂     斯(こ)の遊び  恐らくは遂げざらん
  把酒意茫然     酒を把(と)りて意(い)は茫然(ぼうぜん)たり

  ⊂訳⊃
          山荘にやってくると  いつも泊まることになるが
          引き留められるなら  一年でもここにいたい
          日暮れのように  うらぶれ果てたわが姿
          眺めやるのは   林泉の景の好もしさ
          なんとか伝手をえて  いくらかの禄にありつき
          古里の山に帰って   痩せた土地でも買いたいと思う
          だがこの夢が  適えられる日は来ないであろう
          杯を手にして  ただ茫然と立ちすくむ


 ⊂ものがたり⊃ 其の五の詩では、杜甫の生活の困窮したようすが語られます。延恩匭に三度も賦と表(上書)を投じたけれども、宮中からは何の音沙汰もありません。杜甫は微禄でもいいから何とか禄にありついて、故郷の鞏県か陸渾荘にもどって土に親しむ生活をするのもいいと思ったりします。しかし、それも出来そうにない夢であることも分かっていて、茫然と酒杯を見つめているのです。

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