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漢詩を楽しもう

tiandaoの自由訳漢詩

ティェンタオの自由訳漢詩 杜牧1ー3

2011年07月11日 | Weblog
 杜牧ー1
    江南春絶句           江南の春 絶句

  千里鶯啼緑映紅   千里  鶯啼(な)いて  緑  紅(くれない)に映ず
  水村山郭酒旗風   水村(すいそん)  山郭(さんかく)  酒旗(しゅき)の風
  南朝四百八十寺   南朝  四百(しひゃく)  八十寺(はっしんじ)
  多少楼台烟雨中   多少の楼台(ろうだい) 烟雨(えんう)の中(うち)

  ⊂訳⊃
          みわたせば 花紅に緑映え 鶯がしきりに鳴いている

          川辺の村よ  山里よ  風にはためく酒屋の旗

          南朝に    四百八十寺

          無数の堂塔は烟雨のなか  夢まぼろしと浮かんでいる


 ⊂ものがたり⊃ 杜牧の詩のなかで、もっとも人口に膾炙しているには、この詩でしょう。日本人の好きな漢詩についてのアンケートで、「江南の春」は杜甫の「春望」(国破れて山河あり…)についで第二位を占めているそうです。
 この作品の制昨年は不明ですが、二十歳代の後半、杜牧が洪州(江西省南昌市)に赴任し、はじめて江南の春を迎えたころの作品であろうと思います。唐の文宗の大和三年(829)、杜牧二十七歳のときの作である可能性が高いと思うのです。
 この詩は江南の春を絵のように美しく、というよりも絵画以上のものとして詠っています。現前の色と姿と音と動き、吹く風の肌ざわりまでが秀麗な複合した姿で統合され、そこに二重写しになって浮かんでいるのは、過去の幻影、時の経過への哀惜です。
 起承の二句は晴れた春景色、転結の二句は霧雨におぼろに霞む寺々の幻影です。南朝梁の武帝は篤く仏教に帰依し、都建康(江蘇省南京市)には五百余の堂塔伽藍が立ち並び、僧尼十余万人がいたといいます。その南朝も最後の王朝陳が滅亡してから、二百四十年が経っていました。
 「江南の春」を作ったとき、杜牧はまだ建康の地を踏んでいなかったと推定されます。だから杜牧が想い描いたのは、現実の建康ではなく、滅び去った古都の幻影です。若い杜牧は七言絶句二十八字のこの詩で、浪曼的(ロマンチック)ともいえる詩の想念をみごとに描いて見せたのです。

 杜牧ー2
     清明              清明

  清明時節雨紛紛   清明(せいめい)の時節(じせつ)  雨紛紛(ふんぷん)
  路上行人欲断魂   路上(ろじょう)の行人(こうじん)  魂を断(た)たんと欲す
  借問酒家何処有   借問(しゃもん)す 酒家(しゅか)  何(いず)れの処(ところ)にか有る
  牧童遥指杏花村   牧童(ぼくどう)   遥かに指さす  杏花(きょうか)の村

  ⊂訳⊃
          清明の時節というのに  雨がしとしと降っている

          こんな旅路を歩いていると  魂も滅入るばかりだ

          どこかに飲み屋はないかね  尋ねると

          牧童のゆびさす方に   杏の花咲く村があった


 ⊂ものがたり⊃ この詩は『樊川集』(はんせんしゅう)以下三巻の杜牧の詩集にはみえない作品だそうです。南宋の劉克荘(りゅうこくそう)が唐宋時の詩選を出したとき、杜牧の詩十首のなかのひとつとして、はじめて世に出たとされています。
 この詩が杜牧の作としていまも愛唱されているのは、「江南の春」と同じ浪曼的な輝きがあるからでしょう。清明節は晩春三月はじめの節気で、杏の花の咲く季節です。この詩からは、江南の村を雨に濡れながらいきいきと歩いている杜牧の若々しい姿が、目に見えるように浮かんできます。

 杜牧ー3
   自宣州赴官入京 路逢裴  宣州より官に赴き京に入らんとし 路に裴
   坦判官帰宣州 因題贈    坦判官の宣州に帰るに逢う 因りて題贈す

  敬亭山下百頃竹   敬亭山下(けいていさんか)  百頃(ひゃくけい)の竹
  中有詩人小謝城   中(うち)に詩人  小謝(しょうしゃ)の城有り
  城高跨楼満金碧   城高くして楼に跨(のぼ)れば 金碧(きんぺき)満ち
  下聴一渓寒水声   下に聴く  一渓(いっけい)   寒水(かんすい)の声
  梅花落径香繚繞   梅花(ばいか)  径(こみち)落ちて 香り繚繞(りょうじょう)たり
  雪白玉璫花下行   雪白(せっぱく)の玉璫(ぎょくとう)  花下(かか)に行く
  縈風酒旆挂朱閣   風に縈(まと)う酒旆(しゅはい)    朱閣(しゅかく)に挂(かか)り
  半酔遊人聞弄笙   半酔(はんすい)の遊人(ゆうじん)  笙(しょう)を弄(ふ)くを聞く
  我初到此未三十   我れ初めて此(ここ)に到りしとき  未(いま)だ三十ならず
  頭脳利筋骨軽   頭脳は利(せんり)   筋骨(きんこつ)軽(かろ)やかなり
  画堂檀板秋拍砕   画堂の檀板(だんばん)  秋に拍(う)ち砕き
  一引有時聯十觥   一引(いちいん)   時(とき)有りて  十觥(じっこう)を聯(つら)ぬ
  老閑腰下丈二組   老(つね)に閑(なおざり)にする  腰に丈二(じょうに)の組(くみひも)を下ぐるを
  塵土高懸千載名   塵土(じんど)にす  高く千載(せんざい)の名を懸(か)くるを
  重遊鬢白事皆改   重ねて遊べば    鬢(びん)は白く  事(こと)皆改まり
  唯見東流春水平   唯だ見る  東流  春水(しゅんすい)の平らかなるを
  対酒不敢把      酒に対(むか)いて 敢(あ)えて把(と)らず
  逢君還眼明      君に逢(あ)いて   還(ま)た眼(まなこ)明らかなり
  雲罍看人捧      雲罍(うんらい)は  人の捧(ささ)ぐるに看(したが)い
  波臉任他横      波臉(はけん)は  他(ひと)の横(うか)ぶるに任(まか)す
  一酔六十日      一たび酔うこと六十日
  古来聞阮生      古来   阮生(げんせい)を聞く
  是非離別際      是非す 離別の際(さい)
  始見酔中情      始めて見ん   酔中(すいちゅう)の情
  今日送君話前事   今日(こんにち) 君を送りて  前事(ぜんじ)を話(かた)り
  高歌引剣還一傾   高歌(こうか)   剣を引いて  還(ま)た一たび傾けん
  江湖酒伴如相問   江湖(こうこ)の酒伴(しゅはん) 如(も)し相(あい)問わば
  終老煙波不計程   老を煙波(えんぱ)に終えて   程(てい)を計らずと

  ⊂訳⊃
          敬亭山のほとりに  広さ百頃の竹林があり
          詩人謝朓  ゆかりの城がある
          高い城壁  城楼に登れば 金碧の甍はつらなり
          清らかな流れの音が  下のほうから聴こえてくる
          梅花は小径に散って  ふくよかな香りがあふれ
          耳飾りの乙女たちは  落花のなかを歩みゆく
          楼閣の朱塗のあたり  春風に酒旗はゆれ
          ほろ酔いの遊客達は  流れる笛の音を聞く
          私がこの地に来たのは三十歳になる前だ
          頭脳は明敏  筋骨も軽やかだった
          秋の堂宇の大広間で  檀板を打ち割るほどに歌い
          ひとたび飲めば     大杯に十杯は飲みほした
          高官の印綬の事など気にかけず
          千載に残す名前は  塵芥も同然だった
          だが再遊すれば   鬢に白髪 すべては変わり果て
          変わらないのは    春水に満ちて流れる長江だけ
          酒をまえに  あえて飲もうとせず
          君と会って  また元気が湧いてくる
          大杯は   人のすすめるままに飲み
          秋波は   流れるままにしておこう
          六十日間  酔って禍患を避けたのは
          昔の阮籍の智恵という
          君と別れるこの時に  是非を論じてみるのだが
          酔っぱらいの真情は  もう読みとってくれたはず
          今日  君を見送って  昔のことなど語り合い
          志高く歌う剣の舞い  さらに一献かたむけよう
          江南の酒の仲間が尋ねたら
          煙波の土地に隠れ住み  老いるつもりと伝えてくれ


 ⊂ものがたり⊃ それでは、杜牧自身は自分の若いころをどのように考えていたでしょうか。掲げた詩は開成四年(839)春二月、杜牧三十七歳のときの作品です。このとき杜牧は左補闕・史館修撰に任ぜられ、宣州(安徽省宣州市宣城県)の任地から都にもどる途中でした。
 詩題中の「裴坦」(はいたん)は宣州の使府の同僚で、舒州(安徽省潜山県)に出張し、役目を終えて宣州にもどる途中でした。このふたりが長江のどこかで、多分池州(安徽省貴池県)のあたりで出逢って、渡津で一夜の酒宴を催したときの作品と思われます。
 全二十八句の七言古詩。はじめの八句では、宣州の美しい自然と楽しい生活が描かれます。宣州はいいところだったと懐かしみながら、酒を酌み交わしている姿が想像されます。
 詩に「我れ初めて此に到りしとき 未だ三十ならず」とありますが、杜牧がはじめて江南に赴任したのは二十六歳のときで、江西観察使沈伝師(しんでんし)の幕僚として洪州(江西省南昌市)に着任しました。その二年後の秋九月、沈伝師が宣歙(せんきゅう)観察使に転じたので、杜牧も沈伝師に従って宣州に移り、三十歳の春まで宣州にいました。
 だから「未だ三十ならず」というのは洪州から宣州に移る前後のことで、そのころの杜牧は「檀板」(カスタネット)を打ち割るほどにたたいて歌い、「觥」(大杯)で浴びるほどに酒を飲んだと詠います。二十代末の杜牧は元気一杯で青春を謳歌していたのです。
 ところが、それから五年後の開成二年(837)の秋九月、三十五歳の杜牧は宣歙観察使崔鄲(さいたん)の辟召(へきしょう)を受けて、再度宣州に赴任します。これが「重遊」で、一年半ほど宣州に滞在してから都にもどることになったのです。
 その間に杜牧にはいろいろなことがありました。そのことについては、これから逐次述べてゆくつもりですが、三十七歳の杜牧は欝屈した心情をかかえて友と対しています。「白髪」が増えただけではなく、すべてが変化していました。変わらないのは雪解けの水をたたえて満々と流れる春の長江だけです。
 「波臉」が妓女の秋波(ながしめ)などでないことは、すぐあとの二句に「阮生」が取り上げられていることでわかります。魏晋の交替期に魏の権力者司馬昭(しばしょう)が阮籍(げんせき)に縁組みを持ちかけてきました。のちに晋の武帝となる司馬炎(しばえん)の家との縁組みです。そのとき阮籍は六十日間酔いつづけて、相手が縁談を言い出すきっかけを与えなかったと言われています。
 杜牧は酔っぱらいの真情(こころ)はもう読みとってくれたはずと言って、裴坦の目をみつめたと思います。七言古詩の途中に五言の句を八句もはさみこんでいますが、この八句に特別の意味を与え、結句では隠棲への思いさえ口にします。二十代の末に青春を謳歌していた杜牧とは大変な違いです。  

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