秋田県横手市増田町 千葉建築のブログ

秋田県の県南、横手市増田町の工務店、(有)千葉建築のブログです。
よろしくお願いいたします。

苗字の日

2016-09-20 09:02:09 | 歴史と文化
9月20日(旧暦8月20日 干支=乙巳 九星=七赤 六曜=先負)


おはようございます。横手市増田町の工務店、千葉建築です。

今朝も半袖では肌寒い朝となりました。

ほんの2週間ほど前は、厳しい残暑と言っていたのがうそのようです。

風邪をひかないようにしたいと思います。


昨日は、自分でも難しい話題になってしまい、途中から広げた風呂敷をどうやって閉じようかと思いました。

本当に話題にしたかったことは別にあり、日本の社会(農村社会)に関連があるもの、現代では誰しもが持ちながら、昔は持っていない人が多かったものについてです。

それは、「苗字(名字・姓)」です。


私は「千葉」という苗字ですが、私の家のルーツがどこにあったかはまだ調査中ですので、いい加減なことは言えないのですが、本家や親せきは増田に固まっていますし、ある家についてきて土着したことや、農家になった経緯などは少しずつ分かってきました。

一般的には「千葉氏」という豪族・武将にちなんで、東北にいる千葉さんのルーツとなっているとの話もありますが、正直よくわかりません。

家紋からも関連を見つけることもできますが、この話をし出すときりがなく、時間もありませんので、割愛いたします。


全国の苗字ランキングは、多い順に「佐藤」「鈴木」「高橋」「田中」「伊藤」となっていますが、日本は世界でも苗字の数が多い国でもあり、全国で1所帯しかないものや、その地域で多く見られる珍しい苗字、あるいは漢字のつくりや読み方が異なるものなど、おおくのパターンがあります。

日本の苗字の数は、約30万種。

10倍の人口の中国が約3000種、韓国が約250種と、アジア圏では群を抜いて多くなっています。

ちなみに、世界で一番苗字(姓)が多いのは、アメリカの約150万種、次いでイタリアの約35万種だそうです。


日本の多種多様な苗字が生まれた理由は、明治維新の戸籍整理が大きく影響しているそうです。

1870年(明治3年)9月19日、太政官布告によって平民が苗字を持つことが許されましたが、これは任意のため普及せず、やむなく1875年(明治8年)2月13日に苗字を義務化したという経緯があります。

以降、戸籍には苗字(「氏」)が記載され、日本の国民はすべて苗字を名乗ることとなったそうです。


苗字、名字、氏、姓。

さまざまな言葉が出ていますが、おおむね現代では同じ意味です。

苗字と名字は、「苗」が常用漢字でないことから「名」にされるものとなっているそうです。


日本史を勉強すると、古墳時代あたりに「氏姓制度」というものが出てきます。

「氏(うじ)」とは、血縁を同じくする家族の集団、つまり先祖が同じ親戚たちを言います。

氏の家長を頭にして、氏に所属する「部民」と、支配される立場の「」によって「氏族」が構成され、氏族の有力者は「豪族」となっていきました。


「姓(かばね)」とは「本姓」ともいい、ヤマト王権(朝廷)が成立して力をつけるうえで、朝廷への貢献度や官職によって豪族をランク付けしたもので、「臣(蘇我氏など)・連(物部氏など)・伴造・国造」などといったものがありました。

壬申の乱(672年)以降、姓は新たに作られた「真人・朝臣・宿禰・忌寸」の4つしか使われなくなり、さらに時代が下ると、「朝臣(あそん)」だけとなります。

飛鳥時代から奈良時代に掛けて律令制が生まれると、平民(部民)にも氏姓が与えられ、この時代に氏姓を持たないのは、皇族とだけとなりました。


都に住む豪族は貴族となり、皇族と親戚関係になりながら力を増していきます。

当然、権力闘争が生まれ、物部氏、蘇我氏はそれに敗れ、藤原氏は摂関政治によって勝ち組になります。

平安時代には、桓武天皇から平氏、清和天皇から源氏の姓(朝臣)が生まれますが、平安時代中頃から荘園制が成立して武士の力が増してくると、律令制と氏姓制度は衰えていきます。

10世紀ごろには、ほとんどの氏姓が源平藤橘で埋め尽くされ、実にややこしい事態となったようです。


そのため、血縁関係の深い同族のグループでは、氏姓の他に貴族(公家)は家名(近衛、一条、鷹司、西園寺など)を名乗り、武士は所領(本貫地)にちなんだ名字(新田、武田など)を名乗るようになります。

本格的な武士の時代が到来すると、武士は家を相続しながら名字を受け継ぎ、室町時代にはそれが固定化され、新しい名字の誕生は少なくなります。


さて、庶民にとっての苗字は、部民に氏姓が与えられた時点で止まっています。

歴史の流れで、制度が有名無実化したこともあって、この先はそれぞれが勝手に氏を名乗ったり、褒美として主人から名字を与えられたりなど、ルーツはさまざまなものとなっていきます。

江戸時代には、幕府から公家と武士、名主や庄屋などの有力者以外は、原則として名字を名乗ることが許されなくなります。


これは「公式の場で、」という但し書きもあることから、江戸時代に庶民は名字を持っていなかったという意味とはイコールではありません。

お寺の過去帳や寄進帳などに名字があるケースや、過去に武士から帰農した場合などが、それに当たります。

また、商人などは「屋号」を名乗り、便宜上の名字扱いもされていました。


こうした時代が250年以上続いたので、さすがに明治維新ですぐに全員が苗字を決められたわけでもありませんでした。

義務化がなされてはじめて、苗字を意識した人も多かったでしょう。

まわりに多かった苗字に合わせた人、職業からつける人、地名にちなんだ人、あるいはまったく新しい苗字を作った人もいたでしょう。

多種多様な苗字は、日本の地域性や歴史を大いに繁栄したものともいえるでしょう。


補助金やローンなどのご相談も承ります。
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〒019-0701 秋田県横手市増田町増田字伊勢堂南6-4

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彼岸の入に考えたこと

2016-09-19 11:03:47 | 建築日記
9月19日(旧暦8月19日 干支=甲辰 九星=八白 六曜=友引)


おはようございます。横手市増田町の工務店、千葉建築です。

おおよそ10日ぶりの更新となりました。

朝晩もぐっと冷え込み、季節はすっかり秋となっています。


昨日、秋田市から国道13号線を通って帰る途中、大仙市の神岡町のあたりを走っていると、すでに稲刈りのコンバインが動いていました。

稲穂は緑から黄金色へと変わり、穂先は実りを存分にたたえ、重みで垂れ下がってきています。

でんぷんの甘い香りを漂わせた、白いつやつやのごはんが食卓へあがるのも、そう先の話でもなさそうです。


この10日間、私は京都・大阪へ行っていたり、戻ってからは大仙市の角間川での勉強会、その他地元のお祭りなどが続きました。

そうした中、地方の農村文化と都会の商人文化、舟運や陸運といった流通の変遷、地主が大きな権力のあった時代と農地解放など、さまざまな面からこれらの地域のことを考えていました。


角間川は舟運と地主の街であり、増田も商人地主の街として栄えました。

大規模な耕作地をもつ地主の財力は、おそらく現代に生まれた我々世代には、いまいち想像ができないところではあります。

しかし、その地主が作り上げた蔵などを見ると、これを現代に一から作るには莫大な金額と手間がかかることはわかります。


その分、現存する遺構は貴重なものであり、その保存と活用は大変な努力を必要とします。

建築という仕事をしていることもあり、古い建物に接する機会も多いのですが、同時にそれが作られた背景や意図など、歴史を学ぶこともとても大切なことと感じています。

もともと歴史が大好きでしたので、そうしたことは願ったりかなったりですが、「地元史」という面からみると、もっと足元を見つめた資料集めや聞き取り、街歩きが重要だと思っています。


さて、今日は彼岸の入りで、先ほど墓参りを両親と共に行ってまいりました。

墓のある場所は、増田の満福寺という曹洞宗のお寺ですが、幼少より彼岸と盆は墓参りという習慣があったため、その意味まであまり意識をすることがありませんでした。

ただ、祖父や祖母が亡くなったり、親戚が亡くなったりしてここを訪れると、また違った意味合いを感じるようになりました。

墓は、地縁と血縁をつなぐ象徴でもあり、例えば離れていたところに住んでいるとしても、実家の墓参りは欠かさないという方もいらっしゃるかと思います。


先日の新聞で、あるお寺の住職の話が載っていました。

それを斜め読みしたところ、最近は寺社仏閣が「非日常の空間」となっていて、若い世代にとってはそれが新鮮なもの、癒しを求める空間として求められている話をしていました。

昔は、そうした宗教的な場が日常に組み込まれていたものが、家族構成の変化や地縁の薄れなどで、だんだん接する機会が少なくなったことが、非日常ということになっているのでは、とも言っていました。

これは、現代人が抱える問題をそのまま表しているのでは、と思いました。


「コミュニケーション」という言葉がありますが、現代ではそれが不足しているといわれています。

コミュニケーションを日本語に訳すと「意思情報の伝達」という意味ですが、情報ツールは便利になった分、「生身の」意思情報の伝達が苦手、という話も聞かれるようになりました。


もう一つ、「コミュニティ」という言葉があります。

これは「地域社会」「共同体」などと訳されますが、過疎化や少子高齢化による人口減少と、上記のコミュニケーションの不足などが加わって、コミュニティが失われる場合があります。

逆に都会など、人があふれているところであっても、同じアパートの隣人が誰かもわからなかったり、住んでいる地域に無関心であったりなど、これもコミュニティの不在といえるかと思います。


「ムラ社会」という言葉が、よく否定的な意味で使われます。

その代表格とされる「村八分」や「隣組」といったものは、異分子への「差別」を生んだり、ある時には「出る杭は打たれる」であったり、「空気を読む力」を強要されたりといった、窮屈な社会を生む場合もあります。

ネット上の炎上などを見ていると、それに匿名性が加わって、より残酷性が増してしまうケースもあり、これもムラ社会の一部なのかなと思ったりもします。


ムラ社会は、稲作を中心とした日本の社会において、多くの地域で受け継がれてきたものとされています。

稲作が人力で行われていた時代には、多くの人手が必要でしたし、農業水利を守るために地域が結束していなければなりませんでした。

それが共同体・地域社会をつくり、個よりも集団、自由よりも規律という意識を作ったと思います。

言い換えれば、「集団に属し、規律さえ守れば、居場所は確保される」ということかもしれません。


その反動からか、現代は「個」を必要以上に重要視するところがあります。

個を強調するために、人と違うところ、人より抜き出た何かを持たなければ、自分は社会にとって不要な存在である(=居場所がない)、成功しないといった風潮があるように思えます。

結局、自給自足を除いて、ビジネスや生活においては、個であっても他の集団と全くかかわらないわけにはいかず、規律は多くの場面で自由に優先します。

人間は人間から生まれるので、最小の集団は親子となりますし、個と集団とを分けること自体、無理のある前提なのかもしれません。


つまるところ、「居場所」がどこにあるのかが、最も大切なことかと思います。

今いる環境の居場所が窮屈なら、一度出てみて居場所を見つけるのもよいのかもしれません。

あるいは、その逆も然りかと思います。


地方に住む私が思うことは、その居場所を様々な形で、いろいろな場所に設ければよいのでは、と考えています。

その構成はいろいろな世代、いろいろな地域、様々な目的を持っていれば、参加しやすいのではないかと思います。

機会がないと嘆くのではなく、機会を生み出すこと、つくりだすこと。

私はつくりだす立場でありたいと、最近よく考えています。

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リンドウと名言

2016-09-07 07:13:48 | 歴史と文化
9月7日(旧暦8月7日 干支=壬辰 九星=二黒 六曜=友引)


おはようございます。横手市増田町の工務店、千葉建築です。

9月に入ってから、夏が本格的になったような日中の暑さが続いています。

朝晩は涼しいとはいっても、寝苦しい夜であることは間違いなく、少し体調も崩しがちとなっています。


今日から季節は二十四節気の「白露」となります。

この次は「秋分」となり、ちょうど彼岸の中日に当たります。

「暑さ寒さも彼岸まで」とは言いますが、果たしてどうなるのでしょうか。


秋の花に、「リンドウ」があります。

フデリンドウなど春に咲く種類もありますが、一般には秋の花とされています。

リンドウは「竜胆」と書き、中国でその根が「竜の胆(肝)」のように苦いといわれたことからその名がつけられ、日本に伝わってそのまま根付いたとされています。

源氏の家紋に「笹竜胆紋」がありますが、可憐な花と武骨な名前に加えて、花言葉にも「勝利」「誠実」があるように、武士にとっても印象深い花であったことでしょう。



武士に好まれただけでなく、リンドウを愛した作家もいます。

今日は、その作家、吉川英治の命日にあたります。


吉川英治は、昭和を代表する作家の一人で、戦前から戦後にかけて、主に大衆向けの小説で人気を博しました。

『宮本武蔵』『三国志』をはじめとして、歴史をテーマにした時代小説を多く発表し、私を含めてその世界に引き込まれた方は数多くいると思います。


吉川英治は横浜に生まれ、幼少より様々な仕事に携わっていきました。

新聞記者を経たのち、関東大震災を境にして執筆活動へ入りました。

1925年の雑誌『キング』の連載からは『神州天馬侠』などのヒット作を生み出し、1935年から朝日新聞で連載が始まった『宮本武蔵』は、新聞小説では類を見ないほどの人気となり、足掛け4年続く大作となりました。


1939年7月に宮本武蔵の連載が終わると、翌8月からは『三国志』の連載が始まり、これも1943年まで4年にわたって掲載され、戦争終結後に単行本となって刊行されました。

三国志の執筆については、1937年7月からの支那事変(日中戦争)が大きく影響しています。

戦争勃発の翌月から、吉川は東京日日新聞(現毎日新聞)の特派員として中国大陸を訪れ、一度帰国したのちに再び、今度は軍の従軍記者として中国へ渡ります。

各地を歴訪し、中国の長い歴史と長大な自然に深い感動を覚えたのが、三国志での描写に生かされたとされています。


三国志の話をすれば、おそらく1か月はその話題になってしまいますので割愛いたしますが、吉川版三国志は『三国志演義』をベースにしたもので、三国のうち「蜀(蜀漢)」を中心に描かれています。

劉備を前半の主人公、後半は諸葛亮を主人公にして、幾多の争いを描いたその物語は、創作が多くありながらも、古代中国の人々の生きざまを思い起こさせます。

歴史で言えば、中国史上3人の皇帝が鼎立した三国時代の「魏・蜀・呉」は全て滅び、魏から国を受け継いだ「晋(西晋)」が三国を統一することになっています。

小説は「三国は、晋一国となった。」という一言で結ばれますが、これを目にするたびに幾多の名場面を思い出し、胸が熱くなります。


吉川英治の小説は、リズミカルな文章に講談を聞いているような面白さがあり、時間を忘れて没頭してしまいますが、様々な名言に心を打たれます。

「楽しまずして、何の人生ぞや(『親鸞』)」

「我事において、後悔せず(『宮本武蔵』)」

また、「会う人、出会うもの、すべて我が師なり」という言葉も、吉川がたびたび口にしたものとされています。

これを書いているうちに、また小説を読みたくなりました。

本棚を開いて、手に取ってみたいと思います。

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国民栄誉賞

2016-09-05 09:26:49 | スポーツ
9月5日(旧暦8月5日 干支=庚寅 九星=四緑 六曜=赤口)


おはようございます。横手市増田町の工務店、千葉建築です。

昨日の夜、イチロー選手のアメリカ・メジャーリーグ(MLB)通算3000本安打の軌跡という番組を見ました。

イチローの凄さをここで語るには、時間も行数も足りませんが、途方もない偉業と記録を作り上げてきた道のりは、常に最高のパフォーマンスを発揮するための準備と、絶え間ない努力によって行われたことは間違いありません。


イチローは、子供のころから周りに笑われてきたことを、すべて実現してきたと語っていました。

プロ野球選手になること、メジャーで首位打者になることなど。

そして、メジャー野手最高齢となった現在、一度は衰えたといわれながらも、8月8日(現地7日)の3000本安打も達成し、「レジェンド」としてなおも輝きを増しています。

メジャー殿堂に一発で入るのも確実と言われるイチローは、日本人にとっても誇るべき存在だということは、言うまでもありません。

そのイチローは、かつて国民栄誉賞の授与を打診されましたが、現役中ということを理由に賞を辞退しました。

それも、2度も。


イチローの3000本安打の達成の1週間前、大相撲の九重親方が亡くなりました。

親方の現役時は、昭和の大横綱、ウルフこと千代の富士貢であり、特に我々の世代では『キン肉マン』のウルフマンのモデルになるなど、そのたくましい肉体と豪快な取り口は、今でも強烈なインパクトがありました。

千代の富士は、1989年に国民栄誉賞を授与しています。


最近の授与は、2013年の長嶋茂雄氏と松井秀喜氏でした。

その他プロ野球界では、連続出場世界記録を達成した衣笠祥雄選手、そして「世界の王」王貞治選手がいます。

そもそも、国民栄誉賞という賞は、王をたたえるために作られたという経緯もあり、王の国民栄誉賞は特別な意味合いもあります。

今日は、1977年に王が国民栄誉賞を授与した記念日となっています。


なぜ、王が賞を授与したかは、言うまでもなく、ホームランの通算世界記録を更新したことによります。

756本のホームラン。

これが途方もない数字ということは、プロ野球ファンなら想像がつくでしょう。

王は、現役22年を通じて868本の本塁打を打ちますが、現役最終年でも30本のホームランを記録しています。

一年平均で40本を22年続けなければならない計算なうえ、王は入団時は投手でしたので、本塁打が30本を超える前の3年を除けば、その記録がとんでもないことだとわかるでしょう。


昭和のニュース特集などで、王の765号はたびたび取り上げられます。

1977年9月3日、後楽園球場でのヤクルト戦。

3回裏1アウトの王の第2打席、鈴木康二朗投手の変化球をライトスタンドへぶち込み、ハンク・アーロンのメジャー記録755本を抜いて、世界で最もホームランを打った選手となりました。

普段は派手なガッツポーズをしない王も、この時は両手を挙げてダイヤモンドを回り、ネクストバッターの張本勲選手も飛び上がって、王を祝福しました。

ちなみに、この次の打席で張本も本塁打を放ちました。


日本中はこの前後で熱狂し、「世界の王」の偉業を祝福しました。

政府も、この偉業をたたえるために「国民栄誉賞」を創設し、王がその第1号となりました。

以降、スポーツや芸能などの分野において、23の個人と団体(女子サッカー日本代表)へ授与されることとなります。


国民栄誉賞には、既存の叙勲に比べて柔軟に与えようという意義もあり、「広く国民に愛され、社会に明るい希望を与たえた」ことをたたえるという意味合いがあるそうです。

時に政権の人気取りといわれる場合もありますが、それでも感謝を形に表すものとしては、よいことだと思います。

王選手の受賞をリアルタイムで見たわけではありませんが、積み重ねの難しさを思うと、やはり後世にわたってたたえられるものだと思います。

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おめでとう、ドラえもん

2016-09-02 07:48:58 | 歴史と文化
9月3日(旧暦8月3日 干支=戊子 九星=六白 六曜=仏滅)


おはようございます。横手市増田町の工務店、千葉建築です。

先日、リオデジャネイロオリンピックが閉幕し、これからパラリンピックが開催されます。

パラリンピックについてはまた別の機会に話すとして、オリンピックの閉会式の際、次回開催の東京のPRが行われました。

安倍首相が登場した際の姿は、全員の度肝を抜いたのではないでしょうか。

オーバーオールに、赤い帽子。

スーパーマリオに扮したその姿は、日本のゲームやアニメといったコンテンツ、愛されるキャラクターを前面に押し出し、いつものフジサン、ニンジャ、ゲイシャと違ったイメージを打ち出すのに有利と思いました。


安倍マリオの登場の際、CGムービーでドラえもんも共演していました。

ドラえもんは私も大好きなキャラクターですので、出演に心躍りました。

日本での人気と知名度は言うまでもありませんが、ドラえもんは漫画とアニメが世界各地で翻訳され、東南アジアや南ヨーロッパ、南米などでも人気があるとのことです。


ドラえもんは1969年に漫画で登場し、「よいこ」「小学一年生」などの児童誌に掲載されました。

作者は安孫子素雄と藤本弘のコンビ漫画家、藤子不二雄。

実際には藤本が手掛けており、後に藤本の名義「藤子・F・不二雄」に代わり、1996年に亡くなる直前まで、ドラえもんのアニメ映画の原作を書き続けました。

最初はドラえもんの人気はいまひとつで、1973年のテレビアニメもヒット作とはなりませんでした。


1974年、ドラえもんの初期の単行本が6冊発刊されてから、その人気は徐々に上がりました。

1977年のコロコロコミックの創刊と、1979年からの新テレビアニメ放送によって、人気は確たるものとなり、大長編アニメ映画も多くのヒット作を生み出しました。

今に至るドラえもん人気は、こうして生まれました。


ちなみに、ドラえもんは22世紀の未来から来た、子守り用のネコ型ロボットという設定です。

ドラえもんがロボット工場で作られた日付は、2112年9月3日。

あと96年後に、ドラえもんが誕生することとなります。


残念ながら、その時まで私が生きるのはほぼ不可能ですので、ドラえもんの実物を見ることはできないでしょう。

数々のひみつ道具もさることながら、喜怒哀楽のはっきりした、愛くるしいロボット。

ネズミが嫌いで、どら焼きが大好物のロボット。

創作の世界とはいえ、ドラえもんが私の人格形成に及ぼした影響は少なからず、ある意味ドラえもんに育てられたと言っても過言でないでしょう。


ドラえもんがのび太を見守り、友達になったように、ドラえもんの漫画やアニメを見た世代は、ある意味リアルな存在として、ドラえもんを捉えているのかもしれません。

困った時に「ドラえもんがいればなあ」と思ったことがあるなら、おそらく私と同じ思いがあるのかもしれません。

あと100年先に、ひみつ道具は無理かもしれませんが、現実にドラえもんが誕生するとすれば、楽しい未来になるなあと思います。



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