みちのくの放浪子

九州人の東北紀行

古事記の完成が何故急がれたか?

2018年10月15日 | 俳句日記


和銅4年(711年)、太安万侶は第43代元明天皇に召し出された。


「安万侶、記紀の編纂は如何相成るか?
もはや天武帝が御隠れになってから25年
の星霜を経た。
帝も姉(持統)子(文武)と御代が変わり、吾
で四代となる」

安万侶は畏まって奏上した。


「誠に畏れ多い御下問、安万侶恐懼の至
りで御座います。
舎人の宮始め民部の者ども総出でかかっ
ておりますが、なにぶん寮を埋め尽くす
程の書でありまして…」

「その様な事は分かっておる。
天武帝はそのほうの力量を信じて、式部
の者に任せずに、民部卿のそちに託した
のじゃ。

天武天皇

既に大宝の律令も整い、平城の都も完成
した、近く阿倍仲麻呂が唐に渡る。
我が国の「史書」も持たずに遣る訳には
いくまい⁈」

ここで基礎知識。
「律令」の「律」とはしてはならぬ事。
「令」とは、しなければならない事。
「式部」とは文部官僚である。

民部省とは今の財務省である。
主計寮と主税寮に分かれる。
これも今の制度と基本同じである。
当時も秀才達の集まりだったのだろう。

安万侶はそこの卿(長官)であった。
今で言う財務次官である。
よほどの才覚があったのであろう。
だが元明帝の言葉にはグウの音も出ず、

「畏まりました。
幸いに阿礼が存命であります。
直ちに呼び寄せ、天武帝が語られたこと
どもを主に[古事記]から先に完成させる
事と致します」

と、奏上した。

稗田阿礼は流石に天才であった。
天武帝が内外の書を読ませたとあるから
文字も書けたに違いない。
彼は密かにメモを残していた。

その中にあった天武帝の言葉には、殊更
出雲風土記いや大国主命に対する心遣い
が有り有りと表されていたのである。


出雲は大和朝廷に不可欠な国であった。

安万侶は天武帝の大御心を体してその儘
に[古事記]を完成させた。
翌年の1月28日には撰上しているから、
数ヶ月で書き上げたものと推察される。

かくして[古事記]三巻の3分の1を占める
「出雲神話」が挿入された。
[日本書紀]には一部が記されているのみ
で、因幡の白兎は無い。

(…つづく)

10月15日〔月〕晴れ
毎日[記紀]と格闘していると、
二千年も前の事柄だとは
思えなくなって来る。
地理は地名が変わっているだけだし、
少し詳しい年表を繰ると、
現在にも見られる社会制度の改革が、
当時から行われいたことに気付く。

今更遅いのだが、
戦後の歴史教育が如何に
風土に根付いた人情というものを
断絶させようと意図して来たかが
よく分かるのである。

今日の悪しき社会現象を正すには
「律令」の中身を生徒に
教えると良いかもしれない。
長くかかってても。

〈古の 奈良の秋風 今日の風〉放浪子
季語・秋風(秋)