みちのくの放浪子

九州人の東北紀行

天武天皇の思い

2018年10月14日 | 俳句日記

天武天皇

天智天皇(中大兄)は武人であった。
正義感が強く、半島に危機が迫る時に政
権争いにうつつをぬかす蘇我氏に我慢が
ならなかった、入鹿を切ってすてる。

6月12日に切ると、14日に自分を皇太子
に据え、初めて左右大臣.内臣.国博士を
置いて戦時内閣を形成するのである。
8月東国の国司を集め施政方針を示す。

この東国と言うところが重要だ。
東国はまだ渡来人の影響を受けてない。
そして9月1日、諸国の兵器を収公する。
中大兄の戦略眼に脱帽の思いがする。

西国は蘇我の残党が多い、渡来人の邑も
多くある、そこから兵器を収公と言う法
に則った名目で召し上げ東国人に配る。
内通を牽制し倭人の軍団を創り上げた。

ある意味西郷のように強引に。

今の日本国にも必要とされる施策だ。
閑話休題、中大兄の胸中には日本の防衛
戦略をいかに立てるか⁈しかなかった。
島津斉昭の思いに通じるものがある。

島津斉昭

それに対して天武天皇は優れた政治家で
あり、優れた行政マンであった。
兎に角、日本を諸外国と肩を並べる近代
国家(律令国家)にして行きたかった。

長く病床に伏した晩年の天智天皇の傍で
政治を補佐した大海人皇子(天武)は、兄
天智とその思いを語りあったであろう。
ところが皇位継承が乱れる。(壬申の乱)

この時の身の処し方も天武天皇らしい。
兄が自分の子を立てたいと察した彼は、
兄崩御の後継嗣の立場を辞し出家する。
だが兄の子大友皇子は天武を攻めた。

琵琶湖の北端にまで逃げた所で、彼を慕
う者達が集結して、大友軍を撃退する。
天武の人と手腕が評価されていたのだ。
この辺り足利尊氏に似ている。

673年2月、即位した天武天皇は堰を切
ったように諸制度の改革にあたった。
人事改革、人材登用制度、国司任用制度
また百官に国利民福の案を奏上させた。

大久保は天武天皇を学んだに違いない。

これ全て律令制への準備である。
そして681年、飛鳥浄御原律令の作成を
詔して、同時に[日本書紀][古事記]の編纂
を命ずるのである。

支那には「史記」があり、その他の諸国
には其々に「国史」があった。
それは外交ツールでもあったのである。
天武天皇は何としても欲しかった。

長くなりましたので、あとは明日に。
明日から「出雲神話」に戻ります。

(…つづく)


10月14日〔日〕晴れのち曇り
世界の覇権をめぐる闘いに
中共の狼狽ぶりが甚だしい。
各国が先端技術の流出阻止に
動き始めた。

人口大国であることを餌に
不正な手口や金で先端技術を
掠め取る手法はもう通用しない。
こうなると一帯一路も画餅となる。

国民動員法での恫喝も
効果は薄れていくだろう。
世界は中共が思うほど
馬鹿ではない。

それぞれが歴史から学んだ
良心を持っているのだ。
何よりも14億の民を解放しなさい。
そうすれば付き合ってくれるでしょう。

〈支那の友 月下の杯を 相期せん〉放浪子
季語・月(秋)












伊藤博文も悩みに悩んだように。