みちのくの放浪子

九州人の東北紀行

ヒコナギ軍筑紫の大和に上陸

2018年10月22日 | 俳句日記


金印は、後漢の建武中元二年(AD57年)
正月に奴国王に下されている。
光武帝は、翌月には亡くなった。
直ちに明帝が立つ。

光武帝は漢室の再興を願い、簒奪者王莽
を破って後漢を建てた。
前漢末期の反省から内政に力を注いだ。
次の明帝も領土的野心のない王である。

従って、筑紫での乱は国際紛争では無く
土着した渡来勢力との戦いであった。
原因は前に書いたように、金印をめぐる
騒動である。

これが後漢の倭国侵攻であったならば、
倭軍は一溜まりもなかったであろう。
ただ、ヒコナギ軍には日高見国(高天原)
からニニギ尊に下された使命がある。

出雲にスサノオ尊、畿内へはニギハヤヒ
命、そして九州にはニニギ尊と三正面に
亙る渡来勢力平定の広域作戦である。
故にヒコナギ尊は常に模範的であった。

八代海を出て島原半島を北上する船の中で、ヒコナギ尊は皆にこう下知をした。


「もし筑紫の大和の地に倭人の邑が在れ
ば、陣を構えることはしない。
その時は他所に移動する」

縄文時代から一つの邑(ムラ)は4〜5百人
の単位で形成されていたようである。
生活範囲は半径5キロ程。
これを超えると又一つのが出来る。

これは江戸時代まで続いていたらしい。
古代人が見つけた、争う事なく生業を愉
しむ自治の知恵であったのだろう。
住居表示の「大字」はその名残と言う。

幸いにその頃の大和は、荒涼とした砂土
が広がる丘陵地であった。
謂わば海岸段丘の上の平地である。
塩害で農耕には向いてはいない。


「うむ、これならばよかろう。筑後川に
向かい柵を設け、背後の川に泊まりを築
けば敵が筑後川に迫っても安心だ。
してあの川はなんと言う?」
「矢部川と申しております」

「矢部川かぁ、矢竹が多く生えていそう
な名じゃ。そうであれば良いの」
「御意」

ヒコナギ軍は早速陣の構築にかかった。
総勢八百、当時としては大部隊である。
当然兵站が必要となる。
長期戦に備える為だ。

そこに、この天孫族と邪馬台国の接点が
生じることになるのである。

(…つづく)


10月22日〔月〕曇り
トランプ大統領が又意表を突く
挙に出て来た。


INF条約を破棄すると言う。
私達の年代はキューバ危機に戦慄し、
このINF条約に続くソビエトの崩壊で
安堵した。

約30年間、米ソの核対決に
付き合わされて来た世代だ。
我々の世代で終わりかな、
と思っていたらこの始末。

ただ相手がロシアだから救いがある。


プーチンさんは共産主義者では無い。
厄介なのはお隣の二国である。
米露の出来レースによる二国牽制で
あって欲しい。

〈秋の夜や 辿れぬ夢の うつつ哉〉放浪子
季語・秋の夜(秋)