みちのくの放浪子

九州人の東北紀行

唐の成立と記紀の編纂

2018年10月13日 | 俳句日記


2世紀の動乱期を乗り越えて統一王朝を
成立させた大和朝廷は、古墳時代の中期
から倭の五王の活躍もあり、半島に確た
る交易圏を広げた。

6世紀に入ると、支那本土の勢いが後退
して半島の諸国が一進一退の攻防を繰り
返しながらも独立を保っていた。
その渦中で日本は任那を失う。

幸いであったことは、再び隋という統一
王朝が支那に成立したことであった。
聖徳太子は遣隋使を送り、華々しく国際
舞台に返り咲く。

仏教も伝来し、聖徳太子は神道を縦軸に
仏教を横軸にして、その中心に天皇を置
いて、その後の日本の国体とも言うべき
政治理念を創り上げた。


7世紀初頭、隋の煬帝がついに半島に軍
を進めて高句麗に迫った。
だが、煬帝の失政から各地に反乱が起こ
り、隋が滅び唐が起こる。

唐もまた半島に兵馬を送った。
高句麗、新羅、百済、任那などは日本に
朝貢し援軍を求めた。
急がれるのは体制の強化である。

その要請から起こったのが「大化改新」
であった。
蘇我氏と物部氏の単なる勢力争いなんぞ ではないのである。

半島情勢に対応する為の内乱であった。
この時にそれまでの記録が消失する。
それはさておき、中大兄皇子は直ちに、
孝徳天皇に改新の詔を発してもらう。

国内体制を整える為である。
諸国の兵庫を修営させ、巨大墳墓の築造
を止め、百官僚の役割を明確に定めた。
さらに諸国の民を数えさせたりする。

これ即ち、唐との一戦を覚悟した上での
備えであった。
各地に柵を設け、宮殿を難波から内陸の
飛鳥に移す事もした。

この間唐は新羅を陥て高句麗を攻めた。
残すは百済・任那だけとなる。
百済は660年10月、唐の捕虜百余人を日本に送り、情報収集に協力している。

いよいよその時が来た。
661年7月、天智天皇が筑紫の朝倉宮に
即位し、8月安曇比羅夫を救援軍として
百済に送り、唐・新羅軍に備えた。

翌年3月、更に上毛野稚子に2万7千の兵
を与え新羅を打たせていた。
そこへ唐の大船団が白村江に姿を現す。


衆寡敵せず一敗地にまみれた日本軍は、
百済の遺臣達と共に引き上げた。
翌年から、対馬・壱岐に百済式山城を、
筑紫には水城を築いて防人を置いた。


福岡県筑紫野市

大野城も百済式山城である。
この歴史的事実を知ってか知らずか?
馬鹿な史家は、だから壱岐・対馬は韓国
の領土だったなどと言い張っている。

遺臣達には関東.近江.長門.筑紫等に土地
を与えて帰化させた。
その後の律令国家建設に貢献した者も数
多くいる。

668年、遂に高句麗も亡ぼされた。
唐は日本軍の戦いぶりを知り、侵攻を諦
め遣唐使の受け入れを再開した。
新羅も大和朝廷への朝貢を再開する。

671年、天智天皇が崩御される。
壬申の乱のあと弘文天皇の即位を経て、
673年2月、天武天皇が即位した。
その後の天皇の律令制への執念は凄い。

その一環が[記紀]の制定であった…。

長くなったのであとは明日にします。

(…つづく)


10月13日〔土〕晴天
一日中よく晴れた。
昨日の秋冷が、今日は秋麗となった。
秋はこうでなければならない。
錦秋の候と言う言葉もある。

山になぞらえるならば、
春は、山笑う。
夏は、山滴る。
秋は、山装う。
冬は、山眠る。
全て季語である。

日本語は楽しい。
竜田川が唐紅に水括り、
山裾が錦織りなすならば、
錦秋と言う季語が有っても
良さそうなものだが、
何故か無い。

勝手に使ってみよう。

〈錦秋に 三夕の歌 かすみたり〉放浪子
勝手に季語・錦秋(秋)