みちのくの放浪子

九州人の東北紀行

蕉風俳諧

2017年12月26日 | 俳句日記

蕪村筆による「奥の細道」那須の小姫の
段である。
昨日に続き、俳句の世界を書いてみる。

俳句は、真似てはならないそうだ。
蕪村は、師事した巴人から、
「必ず師の句法になづむ(こだわる)べか
らず」と教えられて、
「やや俳諧の自在を知れり」
と言ったとか。

昨日書いたように、俳人は其々の渡世を
よすがに句作に勤しむものであるから、
発句の対象も様々で、だからこそ面白く
、深い驚きと発見を味わうことになる。

画学生に聞いたことがある、同じ裸婦
を描くにしても、いやらしい者はいやら
しく描くし、高邁な者はそうはならない
らしい、だから怖いと言っていた。

排風もそうなのであろう。
怖いと言えば怖いし、だから修行だと言
われれば修行するしかない。
もちろん内面と知識の磨き方である。

と言っても、指針もないままに放り出さ
れては、弟子は困ってしまう。
そこで芭蕉先生は蕉風俳諧の美的理念と
して、次の三つをあげた。

「寂(さび)」とは、
作者の内面から表れる閑寂・枯淡の境地
→古池や 蛙飛びこむ 水の音

「細み」ととは、
細やかな心で対象を深く捉える美的感覚
→石山の 石より白し 秋の風

「しをり」とは、
自然・人事に対する作者の思い遣りの心
の余情→行く春や 鳥啼き魚の 目は泪

何とも、凡人には到達不可能な境地だが
、分からなくもない処に句作に取り組む
価値があるようで、蕉翁の巧みな誘いに
感心しながら、はまってしまう。

永田町の「しをり」さんも俳句を学べば
「アーニー」の自己承認欲求を卒業して
一皮剥けるのでは無いでしょうか?
もう、無理か⁈

〈永田町 私が俺がの 寒さ哉〉放浪子
季語・寒さ(冬)

12月26日〔火〕晴れ
今年為すべきことは明日で終わる。
後はゆっくり俳句でも捻ろう。
こんな底意地の悪い川柳なんぞ詠んで
いるようじゃぁ時間の無駄か?
嗚呼、日暮れなんとして道遠し‼️