“九月二十一日付本欄「ノートをタブレットに」を読み、十一歳の小学生が素直な思いをつづっていて感心しました。ノートを買い替えるのは面倒でIT機器のタブレットが魅力的という合理的な考えは理解できます。けれどタブレットは充電しないと動きません。九月の北海道地震で停電した被災地ではタブレットが充電できずに困った人もいるでしょうが、子どもたちの皆さんが日頃使っている紙と鉛筆、消しゴムなら電気がなくても使えます。地震後、道内の子どもたちの間では昔ながらのトランプがはやったそう。
タブレットは「現代の利器」でしょうが、それ以外にも古典的ながら便利で楽しめるものがあることも忘れないでください。”(10月18日付け中日新聞)
名古屋市の専門学校講師・小野さん(女・62)の投稿文です。今の小学校では学習にタブレットを使っているようだし、こうしたものを使いこなす能力は、ぼくらの目から見ると全く脅威である。びっくりする能力である。今中学生となった孫は、小学生の時からいつもわが家にタブレットを使いに来ている。自宅にあるものを使わせて貰えないからである。もちろんゲームをするためである。来た時に何か聞けばすぐに解決してくれる。そんな孫を見ているのでタブレットがいろいろ使えることは分かる。子供の能力も分かる。しかし、タブレットがノート代わりになるのだろうか。今のボクには疑問であるので、今度来た時聞いてみたい。
しかし、代わりになってもボクは小野さんの意見を支持する。一つに偏るのは危険である。言われるように電気が来なければ使えない。いろいろな手段を用意しておいた方がいい。用意するだけではいけない。使えるようにしておかねばいけない。何でもそれなりのメリットはある。便利になるとは、人間の能力をそれだけ落とすことにもなる。頭も体も使わねばいけない。使わねば鍛えられない。
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