寺さんの【伝えたい話・残したい話】

新聞記事、出来事などから伝えたい話、残したい話を綴っていきます。
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(第2822話) 私の正信偈

2019年08月06日 | 行動

 “毎朝七時、仏間に「正信謁」のテープが響きます。このテープは菩提寺の先代住職の懐かしい声のお経です。梅雨晴れの今日は夫の三回目の月命日です。毎朝のお祈りの作業も慣れてきて、家族の手を借りなくても手順よくできるようになりました。  経が終わるまで遺影といろいろお話をします。聞きたいこともまだいっぱい。遺品の整理も思い出が手を止め、なかなかはかどりませんが、少しずつ進めています。夕方は庭の花の手入れを終え、夕げの支度にかかります。一人のメニューにも今日は美食家だった夫の好物を一品加え、少し豪華にします。膳のまま仏前に供え、お祈りの準備を入念にして私の正信渇が始まります。まだ住職のテープについていけないので、経本を読みながらです。声もよく出るようになり、あとは節回しですが、カラオケのようにはいきません。
 初盆までには上達したいな。「下手なお経で天国行きの邪魔になりませんか」と話しかけると、遺影は苦笑いしているようです。経が終わるころ、窓には美しい夕日が沈み、今日一日の無事に感謝の手を合わせます。冷めた夕食を食べながら、中日ファンだった遺影の夫と二人、ナイターの交流戦を観戦しています。”(7月10日付け中日新聞)

 岐阜県八百津町の伊藤さん(女・82)の投稿文です。ご主人が亡くなってまだ三月ばかりである。82歳、この短い期間で、こんな投稿文が書けるまでよく立ち直られたと思う。これも正信偈のお陰であろうか。正信偈とは、親鸞の著書『教行信証』の「行巻」の末尾に所収の偈文で、真宗の要義大綱を七言60行120句の偈文にまとめたものである、とある。
 ボクの家も浄土真宗であるので、仏の前に座れば必ず正信偈を唱える。ボクはもう何百辺と唱えたろうが、いまだ暗記できていない。小学生に頃に習っておかなかった酬いである。ボクの寺では、夏休みに日曜学校と言って小学生はお経さんを習ったものである。そのお経さんとは正信偈が中心である。たまたまボクの時代には開かれなかった。ボクの娘は習っている。その後習う機会はない。子供の記憶力は凄いのである。歳いって時折ではいくら唱えても記憶できない。

 


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