たばこ

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10月10日(火)
<ショート>大きなお世話 (2)
たばこのにおいが問題
 すきっ腹にたばこは脳に最も影響があり,ふらーとする気分を味わえる。これはまだ体にニコチンが蓄積していない頃の思い出の気分である。喫煙歴が長くなればこんな気分は得られない。50本入りのピースの缶をいつも机の上において仕事をしていた先輩のパワーはすごかった。それでもあるとき肺炎で入院することになり,留守中奥さんに喫煙道具を全部片付けられて,戻ってからしばらくは灰皿のことも忘れ禁煙が続いたらしい。しかし,いつの間にか再びすうことになってしまった。真似して自分がピースなどすえば,すぐに下痢をするほど胃腸が弱かった。そして,いろいろな条件が重なって,のどの調子を崩してからはやめたけれども,うまかった味は忘れられない。
 一度は書きたいと思っていたたばこのはなし。今日それを思い出したのは,いつも来ていただく毎月のお勤めの住職さんが,読経中にのどが詰まり,声がかすれるのを聞いたからである。ヘビースモーカーですれ違えば匂いが鼻につく。この方もいずれ嗄声がひどくなって最悪の事態に陥られるのではないかといつも思うのである。自分が再びすうことを始めないのはこの匂いをばら撒くことを恐れるからである。ひとのそばにゆけば,その人は逃げる。逃げられないときはハンカチで口鼻をふさぐ。そのしぐさを見たくないからである。若いカップルがタバコをすっているのを見ると,そのときどんな気分なのだろうとか,やめる気分にならないのだろうかとつい思いやってしまう。
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いいかげんのすすめ

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10月09日(月)
故きを温めて新しきを知る (16)
毎日の生活は文化の創造
 博物館サイトをめぐって,実際に行って見たいところとユニークな所を探して第三者に紹介するという課題を大学生はやらされる。わたしも試みてみた。長年携わってきた仕事に関係の深い度量衡の道具とか房総数学文庫のある博物館につい目が行ってしまう。
 自動車博物館を選んだ仲間の受講生がいた。背丈の低い薄っぺらな車体の自動車を彼は紹介しながら興奮気味である。FERRARI (フェラーリ)だのDINO(ディーノ)と聞いても私には何の名前かわからない。この違いはどこから来たのだろうか。どうして自動車の形に興味が沸いて,その道に遊ぶ時間を作り出したのだろうか。

 講師の先生は飛行機などの乗り物が好きである。その形の微妙に違うところまで詳しい。ご専門とは関係がない。かような趣味と言うか,時間の使い方と言うか,人の生き方に2つの種類がある。現在は比較的少ないが,同じ仕事をするにも丁寧で時間をかけてする。その日にできなかったことを気にして家に持ち帰ってまでやってしまう。その分自分の時間はなくなるがそれで満足なタイプである。他方,残した仕事は明日すればいい。自分の時間は好きなことに使う。好きなことを持っている。それが趣味となってその世界を広げていくタイプがある。これが何十年と続いてそれぞれの今日がある。
 こういう違いが生まれる要因はいろいろ考えられる。遺伝による影響,家計による影響。兄弟姉妹から受ける影響。地域環境の影響。偶然の重なり。いずれにしても老いてから変更はできない。前者から後者への変更をすることはよいことである。仕事をまじめにすることが善であると育ってきた私の世代のうちサラリーマン系では,自由な時間をもらってももてあましてしまう人が多い。振り返ってみると「いいかげんのすすめ」に真っ向から反対するグループに属していたと思う。

 趣味を深めることも文化である。文化の創造の貢献にもなる。こういうことができるためには「いいかげんのすすめ」を実行して,やる気のある年齢のうちに自己の関心領域を広げていくことである。
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コピーできないページ

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10月08日(日)
<ショート>大きなお世話 (1)
大英博物館の日本語案内ページ
 博物館サイトをめぐって,実際に行って見たいところとユニークな所を探して第三者に紹介するという課題を大学生はやらされる。わたしも試みてみた。千葉県立上総博物館には度量衡の道具を取り上げたバーチャルミュージアムあり。千葉県立中央博物館には和算の房総数学文庫がある。また,伊賀流忍者博物館やら麻雀博物館まである。
 名古屋大学博物館からリンクが張ってある大英博物館に飛んでみたが,英語のサイトで所在地や所蔵品のメニューが見つからない。時間がないので日本語サイトを見つけてこれでよしとした。日本文の解説を選択してコピーしようとしたができない。文字は画像だった。サンプルの写真もテキストもすべて画像とは何ということだ。サ-バーに負担がかかるではないか。こういう無駄遣いをしていいものか。コピーされないようにするって?。じゃーフランス語サイトやイタリア語サイトはテキストだよ。なぜ日本語だけ画像なんだ。そういえば千葉県立上総博物館も解説ページが画像でつくってある。最近はいやな事をやるもんだ。
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いじめる教授

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10月07日(土)
町内ご近所でおこる話し (42)
不適格な質問の面接試験
 
 大学入試に面接を入れた推薦入試がある。それを受けるために事前に練習をしてもらってから受けに行く。一般には「学校を選んだ理由,入学後学びたいこと,卒業後の進路,在校中に経験したボランティア活動,最近のニュースで印象に残っているもの,それに特技や趣味」こういうことが相場でその原稿を作り,そらで言えるように練習をしていく。

 面接する側の立場では上記のようなことを準備して受験に来ているからそれを質問したのではすらすら答えられて評価に差がつかないと見ているのだろうか。準備したもののひとつか2つぐらいしか聞かれなかったらしい。一人の老教授が「メールはよくするのかね」と,「人並みにやります」と答える。もう一人の若い面接官が補佐役をしている。「女子高生ならメールするのは当然でしょう」と横槍が入る。「最近貴校からの入学者がいないがどうしてかね。」これはいじめである。同じような質問が来て,15分くらいで面接が終わったらしい。
 これを聞いただけでこんな感想を持つ。何を面接で見ようとしているのか,面接の目的が受験生に伝わっていない。事前に原稿をつくることは国語の勉強にはなるがそれを大学側はみようとしない。大学が示す受験科目の中で面接と基礎学力とするならば,「面接では,自己の意見を恥ずかしがらないで話すことができる。社会で起こることを速やかにキャッチし,自分の物差しで判断して批評できるなど」こういう内容を明示しておけば,そのように1年次から高校生活を送ることを心がける。

 大人にとって面接の目的はわかっている。しかし老人になって若い子と話ができる能力に欠けてくると,どんな質問をしたらいいかおそらくわからなくなる。評価できる的確な話題提供と言った方がいいだろう。普段学生に一方的に講義をしていてもそれは専門分野の用語の羅列にすぎず,学生を理解しているとはいえない。だから,面接試験などといっても「木に縁りて魚を求む」類の行為に過ぎない。大学の先生は研究室に引きこもらないで,学食へ行き,毎日会食する意欲を持ち続けなくては学生を理解できるようにはならない。
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恥ずかしい弁当

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10月06日(金)
故きを温めて新しきを知る (15)
弁当の中身は進化していない
 
 今時弁当の話は珍しくもないが,これを出すのは学校へもって行った自分たちの弁当(昭和30年~32年頃)と今の子たちの弁当と比較して,中身があまり変化も進化もないということをあらためて思うからである。昔も今も,男の子は大きな弁当箱,女の子は小さな弁当箱で,中身は夕べのおかずを詰めたものが相場である。

 一般に弁当の中身は家庭ごとに事情があって決定したもので,平均して話をすることはできないが,食べ方に違いがある。今の子たちは恥ずかしがらずに堂々と開いて食べている。私たちの頃は,弁当箱のふたを立てて前から見えないようにして食べている者が多かった。その理由は私の場合は,見せられるおかずではなかった。油揚げを煮てご飯の上に敷いたものそれだけ,次の日は煮た卵一個に梅干1個を麦飯の中央に埋め込んだもの,これらを1日おきにもって来ていた。パン代を親がくれたときはホッとした。食パン2枚の間にクリーム系のサンドをはさんだものを買うことができた。 
 今の子でもたいしたおかずを作ってもらってきているわけではない。自分の口に合わないときもある。そんなときは仲間が食べる。残したのでは作ってくれた母親に叱られる。これが恐い。とにかく仲間同士が一緒に食べる。オープンな雰囲気で食べられることは小学校時代の給食のスタイルが元になっているのだろう。私たちの教室,小学校では2人で一つの机,中学校では机と椅子がくっついていて容易に向き合うなどの移動ができなかった。だから一斉授業スタイルで弁当を食べていた。

 弁当の箱が現在はプラスチックが主流である。私たちの頃はアルマイトのベントバコと言っていた。今でもあるでしょうが,当時はその形がブックスタイルで,これがカッコよかった。しかし防水のことは保障されていなくて,汁がこぼれて教科書がベタベタになることがよくあった。密閉機能の金具のついたおかず入れもあったが小さくておかずが入らない。ご飯を入れる方の箱に入るように作ってあるから浅い作りである。弁当のおかずは辛くて少なくて済むものというのが当時の常識であった。弁当箱のごはんとの仕切りが2:8位であった。それが逆転した今日のコンビに弁当は進化したのであろうか。どこの弁当もうまくないのである。
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総理の名前書けますか

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10月05日(木)
故きを温めて新しきを知る (14)
名は自分以上に大事である
 
 自己の名前は自分で付けたわけではないので,どんな名前であろうとも恥ずかしいこともなく自慢することもない。親からもらったIDであることには違いがない。しかしもらったことを忘れていつの間にか自分の分身となり,その名前が一人歩いてゆこうものならすぐに後を追いたくなる。紙に書かれた自分の名前を踏みつけられれば怒鳴りたくなるのが普通だ。

 教える立場の者が自分の名前を学生たちは果たして知っているのか,知らずに受講しているのか,期末のテストに出されたことがある。4肢選択問題で漢字2文字を2種類作って組み合わせると4通りになる。その中から正解を一つ選ぶというもの。先生には教えた内容以上に重要なことであったのであろう。知らない学生には単位が出なかったかもしれない。そんなことはないだろうが,名前は自分自身であるから顔と変りがない。普段授業に出たことがない学生がせめて名前ぐらいを知っていたら褒美に点をやろうとされたに違いない。
 5人の18歳の若者たちに総理大臣の名前を書けるかきいてみた。「あべしんたろうだ・・・/」「いや,あべしんぞうだ」こんな声から始まって,書いた紙をそれぞれ見せてくれた。2人は正しく書けたが,『安部』とか『普三』,『普造』まで飛び出してきた。確かに難しい。私は『阿部』だと思っていて不確かなのでインターネットサイトを探してみると,『阿部』を使ってる人もいた。前首相に比べると今度の首相は名前が難しい。面接試験に出そうだよと話を結んだ。

 アルファベットの国なら音だけで”Shinzo Abe”とやっていれば通用するが,日本国内では名は人を表すので正確に名前を表記しなくては通用しない。書かれたほうは間違いであればそれは自分ではない他人のことと思う。まず政府は「あべしんぞう」という音だけでなく,『安倍晋三』をわかりやすく国民に浸透させなくてはいけない。
安心が倍増する政府であり,任期がすすむ(晋)と三倍にもなると。
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すみません

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10月04日(水)
町内ご近所でおこる話し (41)
このあいさつ返すべきか返さなくていいか
 
 人間の脳細胞の1個が1バイトの記憶をするメモリーなのかわからないが,計算処理はCPUに比べて遙かに遅いし,間違えることはざらである。しかし神経伝達はケーブルを使う情報通信と同じだと思う。だから間違いを行動に移すことも極めて速い。間違えて言う「すみません」を1時間の道中で3回聞いた。人間は計算間違いをする動物である。間違えたことが人間同士のこころをつなぐインターフェースである。

 クリーニング店で 50代の店の主人,個人経営で受付から現場作業まで一人でこなすつわものと見ていい。店と仕事場を改築中。仮店舗で営業している。そこへズボンを持っていった。360円を1000円で支払っておつりを受け取った。360円ですという声と一緒が印象に残り,手の中のつり銭を見ながら外へ出た。610円をつかんでいた。そのとき6と1では10にならないととっさに計算をした。主人と目を合わせながら店内に戻って,360円を唱えて,30円を追加ゲットした。「すみません」を聞きながら店を後にした。
 T字路で 電動3輪車を運転してきた80近いおばあさんと出くわした。こちらは自転車だ。自転車同士どちらによけるか相手の心が読めなくてぶつかってしまう経験がある。とっさの計算をした。自転車は電動車に負けるし,相手はお年寄りである。ここで一歩譲って自転車を止めた。「すみません」を聞きながら無事すれ違うことができた。

 コンビニで 品物を持ってレジのカウンターにもって行こうとした。近い方に休止の札が立てられていて,その向こうに店員さんがいた。揚げ物のケースをはさんで他方のカウンターは空いていて誰もいない。始めは空いているほうに足が向いた。店員さんが来ないので休止の札の方へ変更した。そのときは店員さんは空いているほうへ行きかけでまたもどってきた。相互にものすごい速さで計算をし合ったのだ。答が一致したとき「すみません」という笑顔が返ってきた。
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墓地で待ってた猫

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10月03日(火)
町内ご近所でおこる話し (40)
墓はいずれ無縁仏に
 
 お彼岸に参れなかったので本日墓参を企てた。歩いても30分から40分で行ける近さで散歩にも使っているコースである。地図のSを出て赤線に沿って,WとAを経由して墓地Gにつくコースである。T地点からトンネルに入れば四角形の1辺なのですぐにつけるが排気ガスを吸わずには通れない。今日は雨模様なので自転車を使った。 

 町中に伸びた山の端(山の稜線の終点)を見ながら歩くコースである。第一コーナーのW地点は昔スキー場と同じリフトがあって,その上の遊園地に通じていた。今は岩壁に水が流れる滝にしてある。
 第二コーナーのA地点の山肌が褶曲を示している。その上に秋葉神社が町民を守っている。ここまで来ると,この山の端がうらめしい。これがもっと引っ込んでいたら墓地が近いのにといつも思う。しかしこの山は南北2km,東西5kmある地球上の突起である。山肌が見えるところはそんなにない。ありがたく拝むくらいの気持ちがあってもいいと言い聞かせる。

 終点の墓地は100m四方余の広さで住宅地と隣接している。囲いはなく,四方八方が入り口である。斎場の建物と墓地の間に来ると,子猫のお出迎えがあった。「待っていたよ」とばかりに足元に絡み付いてくる。顔は大猫にやられたのか傷だらけであった。拾ってくるわけには行かないので,そのまま別れて,我が家の墓地に着いた。いずれこの墓も訪れる人がなくなるだろうと,周りの墓と比較しながら帰ってきたのである。
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オブジェクト指向家電

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10月02日(月)
身の回りの小道具 (13)
ISOへの希望
   
 風呂の湯沸しの追い炊きのタイマーが壊れて久しい。テレビの録画機能のヘッドが不調になって3年。ラジオのボリュウムが不調になって3年。ノートパソコンのファンが壊れて3年。電子レンジのタイマーが壊れて3年。デジカメの電池室の蓋の爪が折れて3ヶ月。今度は古い二層式洗濯機の洗濯とすすぎ用のタイマーが壊れた。いずれも年数が経ったいわゆる年代ものである。これら障害をもった道具であるが,残された機能だけを使って私は使用している。

 壊れてすぐ買い換える人々もいる。しかしその分だけごみになり,埋め立て地が満杯に近づくのが速くなる。どうすればいいかを小学生でも作文にエコロジーの話を書く。そこで具体的な提案として大人の作文を書いてみた。「機械ものはタイマーなどの部品が壊れることが多い。タイマー自身は直せなくても取替えができるよう規格化して造る。蓋を開けて,タイマーを固定しているネジをはずし,内部コンセントを抜くだけで取り外しができるようにする。取り付けは逆の操作をする。今のアプリケーションソフトはこの方法で作られている。オブジェクト指向プログラミングが一般的である。」その根拠と問題点を次に書く。
 根拠 インターネットなどの通信はプロトコルに従って送信しているから,メーカーや機種が違っても受信できる。ISOの管轄は環境基準やカメラの感度だけでなくていい。どんどん主導してエコにいいすべてのものを対象に国民の手でできるリサイクル技術を製品に組み込むよう積極的対処を願いたい。パソコンのメモリーの増設やCDドライブをROM用からRW用にユーザーが自分で取り替えていた。今はメーカーがその仕事を奪ってしまい,使い捨ての製品が多くなってきた。ソフトの勉強だけでなくハードの勉強も国民的義務くらいにしないと,地球は存続できない。今の所子々孫々のことまでは考えて入るようで実行ができてない。日本が戦時中,国土戦になったときのことを考えて,竹槍を造ってまでしてそれに備えた実績がある。やればできると思われる。

 指摘されそうな問題点 素人が電気回路にさわることになり危険である。ガス中毒や爆発の恐れがある。火災の心配がある。こんな問題が指摘されそうである。今の内部構造ではその心配があるが,素人が蓋を開けるという前提で製品を作る。車体でもボンネットを開ける。電気回路にも触れることがある。解決はそんなに難しくはない。それより何倍も危険な車を運転させている。電気製品で死傷者が出る確率は車の運転で死傷者が出る確率よりはるかに小さい。今すぐできることは,運転を減らすことである。偶数日は偶数番号の車のみ運行できる。どこかでやっていたことをこれからもやってみることだ。
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すずめ蜂の巣の中を見た

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10月01日(日)
町内ご近所でおこる話し (39)
巣の外部と内部の観察記録
   
 すずめ蜂が巣を作って困っていたがようやく子供も成長(成虫)して,巣は空き家になっていた。水分が蒸発して今にも壊れそうな状況ではあるが,軒下から巣を切り離して下へおろした。以前に紹介した蜂の巣である。巣の中がどうなっているのか気になってしょうがなかった。以下その顛末である。

 踏み台に乗れば取れる高さであるが,万一使用中では危ないと思い,棒でつつきながらいないのを確かめ,慎重に作業をはじめた。蜂の巣は直径10cmの球体である。巣の屋根は角材に巻きつけてあった針金にしっかり固定工事がなされていて,足長蜂の巣のように簡単にちぎり取ることはできなかった。壊しては元も子もないので,固定先の針金を切断する方針で,右手にペンチを左手に帽子をもって踏み台にあがった。届きそうで届かない高さのため難航したが,針金を切断して帽子の中に落ちた巣をゲットした。
 外部を観察すると,丸い穴が開いている。この写真(右側が上部)のような穴を切り取った蓋が裏返され穴の上側にくっついている。赤線の矢印の先同士が切り取られる前の接点である。丁度マンホールの蓋を開けてひっくり返した様である。

 今度は屋根側のてっぺんを見てみると,針金を抱き込むように,壁の中に棒を塗りこむように巣の外皮が作られていた。頑丈なつくりでドームが外れて落ちるようなことは決してない。ドーム自身は軽いもので,ふわふわばさばさの枯れ落ち葉のようなものである。さていよいよドームの中を覗かせてもらった。そこに見たものは何と幾何学模様の敷き詰められた正六角形の集合体であった。足長蜂が作る巣と同じものを作ってその周りをドームで囲ったのである。そのドームのところどころが2重になっていて,下側が開いている。風通しのいいものにしているようだ。昨日の家作りの駄文の続きが「すずめ蜂は平屋を建て,子育てが終わったらどこかへ転居してしまう生き物なのだ。」
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