さびしい年賀状

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     大きなお世話 (15)
12月25日(月)
何も書いてないが読める生活事情
 25日は年賀状を出す日と決めて23と24の2日間は年賀状書きに終始した。デザインの作成と印刷は自分で,宛名は筆ペンで,コメントは万年筆でというスタイルである。書き初めていろんな思いがわいて来る。先ず物理的にインクジェット紙は万年筆に向かないので途中からボールペンに変えた。

 昨年の年賀状を見ながら宛名を書き,文面を考える。相手の文面に何も書いていないときはいろいろ想像する。すべてが業者印刷のあいさつ文だけのものは別として,自分でデザインを考え,あいさつ文と名前の間を少しあけ,コメントが書いてないものを見るとき,「何か一言入れなさい。もらっても何も伝わってこないよ。」という気持ちが第一に働き,次にその人の心の中が伺い知れる。
 何も書きたくない心境なんだ。毎日の生活がおもしろくないのだろう。高校時代を共にした仲間が同じ職場の上司になっている。こういうことはよくある。私立の高校を出て,教員として母校に戻ってくる場合,先輩も同輩も後輩もみな昔同じキャンパスに暮らした仲間である。同輩や後輩が校長と教頭を占めている現在の環境では心から楽しい暮らしは出現しないに違いない。

 私は年に一度の情報伝達と思い,近況を3行で書くことにしている。相手が一番知りたいことを書く。毎年交わす相手で,以前職場を非円満退職させられた年上の人であるが,毎回近況が書かれていない。何か一言でも見つけて話の火種にしようにもできない。挙句の果て,姉が亡くなり欠礼しますという葉書がきてしまい,またまた,情報取得が先延ばしされた。おそらく言葉に出して語れない生活が続いているのだろう。年の瀬はいつもさびしい思いをさせられる。
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Rinuxその後

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     <ショート>大きなお世話 (14)  
11月21日(火)
Linuxもいいですよ
 10月16日の日記に「10月から大学で新規科目を学ぶことになって,LinuxリナックスというOSを紹介された。」と書いたが,Linuxの一つKNOPPIXクノーピクスのほかに[本命のFedoraCore5]をインストールした。この画像はデスクトップである。そこへ [Officeシリーズのライター] を起動しているところであるである。ライターの使用感はさくさくテキストの入力ができ,機能もWORDに近いものが揃っている。もちろん表計算ソフトも揃っている。フィルハンドルがなければ表計算といえないモノもちゃんと揃っている。たいしたものである。これらがすべて無料なのである。ただパソコンを使う層は無料より使いよさを選ぶほうだから,普及しないのだろうと思う。
 インターネットも [FireFoxというブラウザソフト] があり,すっきりしたメニューが用意されている。これをWindowsと併用するにはDドライブを開放して,Linux専用のパーティションを切らなくてはならない。ファイルを共有するには,サーバーのブリーフケースなどを使うとよい。上の3つの画面はRinux上でキャプチャしたものをGooのサーバーにアップロードして使っているものである。これ以外に困難なのは,アクロバットリーダーのインストールである。使用できるようになったが,設定が難しかった。メディアプレーヤーは使えないのでRealPlayer10をインストールしたが,まだ動画のmpgファイルが開かないのである。今週中に先生に聞いて何とかしたいとあせっている。
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これはいじめ

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11月07日(火)
<ショート>大きなお世話 (13)
子供は自分の鏡
  一度や二度なら許される過失でも連続するとそれはいじめである。大人の世界ではいじめと悟られないようにするいじめがはびこる。うちの向かいの会社の駐車場が南隣りにあったとき,従業員が出勤してきて仕事用の車を出し入れする際,先に出した車を一時的にうちの前の道路に止めておく。店の中に入って今日の打ち合わせをするあいだ駐車違反をしていることになる。そして,車が出たあと,必ず吸殻が捨ててある。誰が掃除をしなければならないか分かっていて行う行為である。これが大人のいじめの具体例である。
 回覧板が北隣りから1ヶ月に2度廻ってくる。チラシをはさむものは分厚いファイル状の形のものである。郵便受けに入れてある。先に入っている薄いチラシや夕刊程度のものは回覧板の下敷きにされてしわくちゃにされている。毎回これが起こっている。自分にはこんなことはできない。中にはいっていればそれと一緒に重ねて入れなおすぐらいのことはする。こんなことは社会人の常識中の常識である。ところがとなり同士と言うのは恨みがあるのだろう。建物が境界線を超えた超えないとか,枝が出たとか出ないとかでとかく利害関係が絡むものである。いじめと悟られないようにするいじめの例であるが,これが複数で面と向かってする子供たちのいじめはたちが悪い。これを許してるのはその親である。自分の子供がいじめをやっているかどうかぐらいわかるのが親というものである。
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図書館での異臭

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11月05日(日)
<ショート>大きなお世話 (12)
ブログライターと同じ利用者層
  市内の図書館に50年ぶりに入った。これまで公共の図書館には入ったことがなかった。学校の図書室か大学の図書館なら学生が勉強のために使っていることはよく見ている。しかし,市内の図書館を誰が使っているんだろうと思いながら今日は1日中本探しをしていた。開架式の書棚には本がぎっしり詰められ,出し入れができないくらい窮屈な状態で押し込んである。出したら元のスペースは消えてしまう。一人の老職員が本を元の位置に戻す仕事をしている。「各棚から1冊ずつ抜くと出し入れしやすいですよ」とは言えなかった。抜いてもその本の置き場所がないからである。本を探すというのは長時間かかり,立っているのがつらくなる。1冊取り出して,中身をノートに転記することで足を休ませることにした。つまりそのときベンチに座れるからである。転記が終わると,別の本を探しに行く。室内は静かであるが,受付で仕事をしている職員が使ってるパソコンの音が頻繁に聞こえてくる。ぴ^,ぴ^という音である。おそらくデータベースのテーブルに入力しようとするも不可の状態を知らせる音であろう。小さな音でも騒音に聞こえる。
 受付と反対側に自習室がある。その入り口に張り紙がしてある。「室内で異臭がするという苦情がありました。お互いに気持ちよく利用できるように,清潔な身なりを心がけましょう。」身なりというのは服装のことであるが,身なりと異臭の関係はあるのか疑問である。異臭とは何なのか,喫煙者に染み付いた体臭なのか,服装より体臭の方が匂いは強い。図書館としては身なりというよりしょうがなかったのであろう。今日1日の図書館の利用者はほとんどが若い女性と老いた男性である。ブログのライターと似ているが相関関係があるのだろうか。
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なまず九死に一生を得る

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11月03日(金)
<ショート>大きなお世話 (11)
謎が解けた
  小さな川沿いの車の走る道を自転車で通っていくと,いつものように鴨たちが嘴を水中につっこんで朝食の生き物を捕っている。何を食べているのだろうといつも気になっていた。ときどき,しらさぎやあおさぎにも出会うが,用心深い彼らは人の姿を感じ取るや否や川面を飛び立ってしまう。ところが今日は浅瀬に立っているあおさぎがなまずをくわえた瞬間に出くわした。わたしがブレーキをかけ立ち止まると,いつものように驚いてくわえたなまずをぽちゃんと落としてしまった。頭の大きい体長20cmくらいの黒い影が2mくらい動いて泥の中に消えた。
  あおさぎがなまずを呑み込むまで見ていたかったが,それはかなわなかった。あおさぎは身の安全を優先させて,逃げることを選んだ。なまずはおかげで命拾いした。生態系が一時ストップしたに過ぎない事件であるが,毎日連綿と続いている生の営みを目の当たりにして,人の生活は人に守られて成り立っていることをあらためて感じ取った。それにしてもあおさぎにとって逃した魚は大きかった。
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高校数学も再構築が必要

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10月31日(火)
大きなお世話 (9)
難度の高い技よりノーミスが勝つ
 音楽-----楽しいコンサートへの道,生活----衣食住の中で生き生き,保健体育----病気の自己診断,情報----情報・通信機器との出会い,国語----本が読める,外国語----英語サイトが読める,生物----自己の根源,化学----物質の根源,地理----経済生活の基本,歴史----温故知新,公民----生きてる社会環境,数学は?と考えたとき,思い当たるものがない。専門家は論理的な考え方をしているのは数学の成果だとお答えになる。しかし,論理的な考え方は目に見えないし,数学の成果だと考える人は少ない。

 世間では高校でしっかり学んでると思われている教科の一つに数学がある。しかし実際は数学ではなく,数字と文字を使った数楽という感じで授業は進んでいる。音学といわず音楽というのと同じである。音を楽しめる人はいいが,苦手な人には苦痛であるから選択しない。つまり数学も本来の目的達成をあきらめて,数を使った問題を読み進めていくことに終始している。好きな子供を除いて,数の世界に浸っていられない。授業にがまんできなくて教室を立ち歩くのと似ている。問題を解いているというが解き方の練習をつんでるだけで,音楽の新しい曲を何回も歌って覚えるのと同じである。
 教育再生会議で議論がされているが,この際,必須の全教科に渡ってその内容の検討をすべきである。専門家の立場で検討していては効果がない。無関係な立場の人が検討することに意味がある。それぞれ教科の内容を見たとき,一般市民がここまで必要かどうか,これがどこに使われ応用されているか専門家の説明は受けることにして,素人の知識人が議論し,大幅な変更を要求するものについては専門家に代案を提出させるようにする。一芸一能に秀でていてもいっときは役に立つが長続きしない。高齢社会では幅広く耕しておくことの必要性を感じる。

 こうして各教科の代案が出てきたとき,選択教科はなくなり,誰もが同一の教科を履修して,国民全体の教養を高めることができるようになる。いま,専門知識は大学や専門学校に入ってからでいい。高校で未履修や学力不足を大学で補っているのが現状である。生物を履修しないで医学部に入学してきたり,ろくに数学も勉強しないで,経済学部や心理学科に入っている。こういう矛盾や無駄や入試の不公平を失くすために教育再生会議に要望したいと同時に,私も上に述べた代案を考えているので次回書いてみたい。
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高校騒動「人の噂も75日」

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10月28日(土)
<ショート>大きなお世話 (9) 
各種メディアは知りたいことを報道せよ
 放送局は毎時のニュースに未履修問題の学校の名前の報道ばかりやっているが,もっと肝腎なことを聞きただして報道すべき である。今回の学習指導要領無視と言うのは法律違反なのであるから,ライブドア事件と同じように起訴されてもよさそうなはずである。たった一つの企業のた めに国が莫大な費用をかけて罪の重さの測定に時間を費やしている。こうすることが当たり前ならば,マスコミは,教育委員会にこれからの仕事すなわち学校の 対応が確実に履行されるかどうかの確かめ方を聞き出さなくてはならない。さらに警察を訪ねて,この犯罪行為(ライブドアでは商法違反)に目をつむってしま うのか。どう償いをさせるのか。内申書の履修偽装と姉歯建築士の耐震偽装とどう違うのか。明確な答を聞きだして報道しなくてはならない。
 「受験生に負担にならないように」などと被害者への同情を求めるようなNHKキャスターのコメントが毎晩報道されること をいいことに高校は甘えてしまうことは明らかである。伊吹文科相の発言をホローすることは全くない。すなわち,「まじめにやってきた高校生とうまい汁を 吸ってきた高校生とを比べて,これらがアンフェアにならないようにしなくてはならない。」ということに触れなくてはならない。教育委員会も警察も動かなけ ればうやむやになってしまう。つまり3日坊主のような終わり方,講堂のようなところで教科書も使わず講演会をやって終わりとかではやったことにならないの である。いやしくも単位を認めるからには生徒も試験のために勉強して(世界史のカタカナ語や年代を覚えることは容易ではない),一定の点を取れるまで学校 は指導しなくてはならない。報道機関は密着取材が得意であるから,教育委員会に張り込んで,高校の補講状況をどう観察把握していくかを見定め,その結果を われわれ国民に報道して欲しい。人の噂も75日に終わらせたくない。

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無理しないでね

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10月24日(火)
<ショート>大きなお世話 (8)
思いやる心を表す言葉
 人間が生きていく上で,行動中に頭の中は何を考え,ひとり静かなときは何を考えるのか。十人十色と答えてもいいが,99%は自分の問題を考えているものだ。体調の悪い人が多いだろうから,どうしたら苦痛から逃れることができるかと考えているし,暇な人はどうやって時間を費やすべきかを考えているだろうし,何かに追われている人はどう処理して楽になろうかと考えているに違いない。世のため人のために頭を使う時間は極めて少ないと思う。ばったり顔見知りと会っても,「元気かー」と声をかけるか,天気の話を交わすぐらいでそれ以上の話は出てこないことからでもわかる。

 時に,そのひとにとって1%に当たる他人を思いやるときがある。ここで言う他人とは家族を含めて,自分以外の知っているひとのことである。この思いやる言葉で,実際に使う言葉にどんなものがあるか考えてみると,「気をつけてね」「お大事に」「がんばってね」この3つぐらいが定番である。「皆様のご健康をお祈りします」と書く文面はうそである。神仏の前に進み出て合掌することはほとんどないであろう。
 今度は毎日顔を合わせている仲間の一人が,体調が悪くなって早く帰ったとしよう。このとき人はどんな言葉でその人を思いやるのか。もっとも多いのは「身体の具合はどうですか? 」「気分はどうですか?」「あんまり無理しないでね。」「シンドイの我慢しないでね。」「元気でいてくれないと、とっても心配になります!」「元気になるまで絶対無理しないでね。」こういう言葉がメールなどで使われる。いま上で1%の思いやりと述べたが,2%にすれば,人は幸せになれると思う。すなわち,元気なうちにひとりひとりを思い浮かべ,「気分はどうですか?」「あんまり無理しないでね。」「シンドイの我慢しないでね。」と心で唱えることである。

 
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非Windows2

上段:投稿日 中段:カテゴリ 下段:サブテーマ ブログナンバー: 132
    
10月21日(土)
<ショート>大きなお世話 (7)  
Linuxもいいですよ
 16日の日記に「10月から大学で新規科目を学ぶことになって,LinuxリナックスというOSを紹介された。」と書いたが,Linuxの一つKNOPPIXクノーピクスのほかに本命のFedoraCore5をインストールした。この画像はデスクトップである。そこへOfficeシリーズのライターを起動中のものである。
 ライターの使用感はさくさくテキストの入力ができ,機能もWORDに近いものが揃っている。 インターネットもMozilaというブラウザソフトがあり,すっきりしたメニューが用意されている。これをWindowsと併用するにはDドライブを開放して,Linux専用のパーティションを切らなくてはならない。ファイルを共有するには,サーバーのブリーフケースなどを使うとよい。
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恍惚の人

上段:投稿日 中段:カテゴリ 下段:サブテーマ ブログナンバー: 129
    
10月18日(水)
<ショート>大きなお世話 (6)  
要介護1のドラマ
 「恍惚の人」が昨晩放送された。見ていた人も多いと思われるが,感動を持って見られた人は,おそらく身の回りにそういう認知症とかかわりのない,これから認知症になるやも知れない配偶者や親をもった人たちであろう。しかし,過去に認知症の介護を経験してその任務が済んだ人や現在認知症患者を抱えてご苦労されてる方には,ストーリーのような笑い事ではない。ストーリーは最も恵まれた環境の中の軽い認知症出現の話である。この本が出た35年前の当時としては社会問題として衝撃的な現象を世に問うものとして,介護進行形の人にも受け入れられたに違いない。しかし,現代,もっと大変な思いをしている方,公的介護にかかれない貧困と戦いつつ介護をされてる方にとっては,こんな恵まれた介護環境で何が問題なのだと怒りすら覚える設定ではないか。
 ストリーは原文そのままではない。現代にあわせて脚色されている。携帯電話も出てくるし,介護制度も出てくるからそれがわかる。したがって,現代では世間体など気にしなくてもいい日常のありふれた出来事である。しかも介護する人が,息子夫婦や娘や孫など十分にそろっているこんな恵まれた環境では世に問うものがない。どうせ脚色するなら,介護する人が足りない場面(老配偶者とか子一人しかいない)での設定にして,回りの人たちがどのように支援して乗り切って行ったかの見本を示して,現在奮闘中の人の勇気付けになるようなストーリーにすべきであったと思われる。
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