博物館の生き方

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     故きを温めて新しきを知る (26)  
11月26日(日)
負けるなWeb博物館
 Webサイトというのは超巨大な博物館といっても言い過ぎではない。しかも博物館が作ったデジタルミュージアムの民間版といえる。ある目的のため,きょうは仲間と一緒に博物館のサイトを調べてみた。データベースとして公開しているカテゴリーの数を数えてみた。アーカイブ白書2005に掲載されている調査結果の変化を見るためでもある。今回の調査対象の博物館・美術館は全国の中の有名な館に限られているがその傾向はつかむことができたと思える。

 このグラフは,「民芸品生活品を所蔵し,デジタル化して公開している博物館が全館の60%近くに上り,映像資料などは3%位の博物館にしかない」とみるようにしたものである。つまり博物館といえば、民芸品生活品など心のふるさとを思わせるものが多いことが実証されている。絵画彫刻などが多いのは、美術館に行くべきものが博物館にきてしまったことを示し,博物館と美術館の区分が明確でなくなってきているのはデジタル化の影響であろうか。美術館にも絵画以外のものが多数集まっていることもわかった。

 このグラフは博物館と名乗る館と美術館と名乗る館のどちらが表示に気を配っているかを比較したものである。閲覧者のニーズに合わせたり、特徴を発揮して仮想空間を見せたり,カメラを回転して撮影するなどの工夫状況の浸透度がわかる。外国人向けに英語表示や韓国語表示も見られる。最近の著作物に関する問題への未然防止のためにも但し書きが多くなってきている。

 調査した結果から、博物館・美術館のアーカイブの公開にかかわる現状の傾向について少し考察してみた。その結果「全国のお寺の数も多いが、博物館・美術館の数も多くなった。いかにアイデンティを主張するか、またサービスを提供するかの兆しが見えてきてはいる。たとえば ”デジタル図録”が作られ、CD化した絵画を用意したり、”モバイル対応”の博物館情報を提供したりしている。一方、”会員制など利用制限有り”や”画像は見られない”ものも多い。有料の入館を妨げては運営できないこともわかるが、画面で見られるからこそ行ってみようという心理の方が強いのではないか。サイトが大きすぎて管理が滞っている”リンクはずれ”もある。また,検索画面では、入力フォームのみで、カテゴリーや表示見本が示されていないので素人には見られないといった問題もあるが、問題化されていないのが問題である。」ということを添えておきたい。
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Rinuxその後

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     <ショート>大きなお世話 (14)  
11月21日(火)
Linuxもいいですよ
 10月16日の日記に「10月から大学で新規科目を学ぶことになって,LinuxリナックスというOSを紹介された。」と書いたが,Linuxの一つKNOPPIXクノーピクスのほかに[本命のFedoraCore5]をインストールした。この画像はデスクトップである。そこへ [Officeシリーズのライター] を起動しているところであるである。ライターの使用感はさくさくテキストの入力ができ,機能もWORDに近いものが揃っている。もちろん表計算ソフトも揃っている。フィルハンドルがなければ表計算といえないモノもちゃんと揃っている。たいしたものである。これらがすべて無料なのである。ただパソコンを使う層は無料より使いよさを選ぶほうだから,普及しないのだろうと思う。
 インターネットも [FireFoxというブラウザソフト] があり,すっきりしたメニューが用意されている。これをWindowsと併用するにはDドライブを開放して,Linux専用のパーティションを切らなくてはならない。ファイルを共有するには,サーバーのブリーフケースなどを使うとよい。上の3つの画面はRinux上でキャプチャしたものをGooのサーバーにアップロードして使っているものである。これ以外に困難なのは,アクロバットリーダーのインストールである。使用できるようになったが,設定が難しかった。メディアプレーヤーは使えないのでRealPlayer10をインストールしたが,まだ動画のmpgファイルが開かないのである。今週中に先生に聞いて何とかしたいとあせっている。
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これはいじめ

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11月07日(火)
<ショート>大きなお世話 (13)
子供は自分の鏡
  一度や二度なら許される過失でも連続するとそれはいじめである。大人の世界ではいじめと悟られないようにするいじめがはびこる。うちの向かいの会社の駐車場が南隣りにあったとき,従業員が出勤してきて仕事用の車を出し入れする際,先に出した車を一時的にうちの前の道路に止めておく。店の中に入って今日の打ち合わせをするあいだ駐車違反をしていることになる。そして,車が出たあと,必ず吸殻が捨ててある。誰が掃除をしなければならないか分かっていて行う行為である。これが大人のいじめの具体例である。
 回覧板が北隣りから1ヶ月に2度廻ってくる。チラシをはさむものは分厚いファイル状の形のものである。郵便受けに入れてある。先に入っている薄いチラシや夕刊程度のものは回覧板の下敷きにされてしわくちゃにされている。毎回これが起こっている。自分にはこんなことはできない。中にはいっていればそれと一緒に重ねて入れなおすぐらいのことはする。こんなことは社会人の常識中の常識である。ところがとなり同士と言うのは恨みがあるのだろう。建物が境界線を超えた超えないとか,枝が出たとか出ないとかでとかく利害関係が絡むものである。いじめと悟られないようにするいじめの例であるが,これが複数で面と向かってする子供たちのいじめはたちが悪い。これを許してるのはその親である。自分の子供がいじめをやっているかどうかぐらいわかるのが親というものである。
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図書館での異臭

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11月05日(日)
<ショート>大きなお世話 (12)
ブログライターと同じ利用者層
  市内の図書館に50年ぶりに入った。これまで公共の図書館には入ったことがなかった。学校の図書室か大学の図書館なら学生が勉強のために使っていることはよく見ている。しかし,市内の図書館を誰が使っているんだろうと思いながら今日は1日中本探しをしていた。開架式の書棚には本がぎっしり詰められ,出し入れができないくらい窮屈な状態で押し込んである。出したら元のスペースは消えてしまう。一人の老職員が本を元の位置に戻す仕事をしている。「各棚から1冊ずつ抜くと出し入れしやすいですよ」とは言えなかった。抜いてもその本の置き場所がないからである。本を探すというのは長時間かかり,立っているのがつらくなる。1冊取り出して,中身をノートに転記することで足を休ませることにした。つまりそのときベンチに座れるからである。転記が終わると,別の本を探しに行く。室内は静かであるが,受付で仕事をしている職員が使ってるパソコンの音が頻繁に聞こえてくる。ぴ^,ぴ^という音である。おそらくデータベースのテーブルに入力しようとするも不可の状態を知らせる音であろう。小さな音でも騒音に聞こえる。
 受付と反対側に自習室がある。その入り口に張り紙がしてある。「室内で異臭がするという苦情がありました。お互いに気持ちよく利用できるように,清潔な身なりを心がけましょう。」身なりというのは服装のことであるが,身なりと異臭の関係はあるのか疑問である。異臭とは何なのか,喫煙者に染み付いた体臭なのか,服装より体臭の方が匂いは強い。図書館としては身なりというよりしょうがなかったのであろう。今日1日の図書館の利用者はほとんどが若い女性と老いた男性である。ブログのライターと似ているが相関関係があるのだろうか。
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正直者は馬鹿をみない

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11月04日(土)
故きを温めて新しきを知る (25)
高校騒動で得た”公民”の知識
 高校騒動の中間始末の結果は「未履修科目2単位分の補習は50時間程度に軽減」,「2単位を超える分の補習は70時間とリポート提出」という救済策が決まった。将来この事実を忘れたときに見られるようにここに記録したのであるが,この策は時間数だけが軽減されたものではない。「修得しなくてもいい。授業にでるだけでいい」という意味を持ち,全高校生に「学校で未認定科目を作らないように試験勉強したのに,授業は出てるだけでいいんだ。単位をとる為に追試や再試を受けさせられたのは何だったのか。」という不信感を植えつけてしまった。気づかない生徒もいるだろうが。

 政府が一部の高校生と同じように「修得と履修の違いがわからない」のではなく,今度の通達の中でそのことを強調して誤解のない様に提示すべきであった。そして,もう一つ付け加えなくてはならないのは,伊吹文科相のアンフェアにならない策の件では「規定の科目を正規に学んだ者は損をしたのではなく,むしろ得をした。地歴の2科目を学んだからこそ,一方の科目の内容が他方の科目の内容の理解を助けてくれる。1科目だけでは理解が困難である。」,「これらの2科目は1年生か2年生で履修するのであるから,3年生での受験への時間的影響はない。」などのフォローを文科相の責任者がメディアに言わせなくてはならなかった。こういう大事なことが欠落していることが問題なのである。
 国民は立法とか行政とかの仕組を言葉の上で学んできたが,法案が現実にどんな機関を経由し,どう処理されていくかをこの案件の軌跡を辿ることによって,騒動を追いかけてきた我々や高校生が理解できたことがせめてもの収穫である。新聞報道から以下の表にまとめてみた。なるほどそういう名の機関や委員会が作られているのか!

かかわる機関 処 理 内 容
文部科学省 救済策の起案
政府 救済策案を決定
自民党文教制度調査会 救済策案の審議と同意
自民党文教部会
公明党文部科学部会
衆院教育基本法特別委員会 救済策案に対する各党の質疑
文部科学省 各教育委員会,都道府県知事,大学に通知
教育委員会 各学校に通知
    
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なまず九死に一生を得る

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11月03日(金)
<ショート>大きなお世話 (11)
謎が解けた
  小さな川沿いの車の走る道を自転車で通っていくと,いつものように鴨たちが嘴を水中につっこんで朝食の生き物を捕っている。何を食べているのだろうといつも気になっていた。ときどき,しらさぎやあおさぎにも出会うが,用心深い彼らは人の姿を感じ取るや否や川面を飛び立ってしまう。ところが今日は浅瀬に立っているあおさぎがなまずをくわえた瞬間に出くわした。わたしがブレーキをかけ立ち止まると,いつものように驚いてくわえたなまずをぽちゃんと落としてしまった。頭の大きい体長20cmくらいの黒い影が2mくらい動いて泥の中に消えた。
  あおさぎがなまずを呑み込むまで見ていたかったが,それはかなわなかった。あおさぎは身の安全を優先させて,逃げることを選んだ。なまずはおかげで命拾いした。生態系が一時ストップしたに過ぎない事件であるが,毎日連綿と続いている生の営みを目の当たりにして,人の生活は人に守られて成り立っていることをあらためて感じ取った。それにしてもあおさぎにとって逃した魚は大きかった。
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リセットが多すぎる

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11月02日(木)
故きを温めて新しきを知る (24)
人生はやり直しが利かぬ
 子供のときから「人生はやり直しが利かぬから・・・」と親から何度も言われて育ってきたひとが多いと思う。世のコメンテータはゲームのリセットボタンを押して生き返ることを批判の材料にされる。ここのところ,『県政再生推進本部』だの『教育再生会議』など再生が多い。安易に再生という言葉で不始末が片付けられ過ぎてるのではないか。

 安倍総理の負け組みになったひとが再挑戦する機会をもてる社会にするんだと公約のような言葉に賛同するコメンテータも多いが,この発想もリセットボタンに似ている。大半の児童生徒はまじめに勉強して,将来いい生活ができるようにと頑張っている。努力せず遊び放題では負け組みになるからである。努力の差で違いが生まれてくるのは誰でも体で感じ取っているほど明らかなことである。安倍総理の言われる負け組みと,努力しないで必然的に負け組みになった集団とどこが違うのかの区別を明確にしないと教育上不都合が起きる。
 こんなエピソードを何度も聞かされ心の糧にしてきた。【偉い先生が弟子たちと一緒にゴルフのプレーをしていた。先生の番になってボールをティーの上において,ドライバーでこれからうつ素振りをされていたら,ヘッドがボールに触れてティーからころげ落ちてしまった。先生はそのまま第2打を打とうとされたが,見ていた周りの者がお気の毒に思って「先生,もう一度やり直してください。」と申し出たが先生は「君ー,人生にはやり直しはないんだよ。これでいいんだよ。」とおっしゃってそのままプレーを続けられた。】これを聞いてる私たちはリセットボタンなどもってのほかである。

 教育再生会議もいいが,負け組みの再生もいいが,そうならないような根本の所をおさえ,やり直しは利かないからこそ,若いうちの努力が必要であることを押さえなおす方向で検討してもらいたい。学校でも努力もしないで試験を受け,形式的な再試験で合格点をもらってる生徒の行く末は,社会を甘く見て自分の都合で何とかなると思ってしまい,何ともならないことからニートなどが生まれてきているとも考えられる。正当に努力してきた人をもっと引き合いにだしてほめることも教育上大切である。
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SQLの就職先

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11月01日(水)
故きを温めて新しきを知る (23)
改変の最も必要な教科は数学である
 ソフト会社アシュトンテイトがdBASEⅡというソフトを発売して以来,更新を重ねdBASEⅤを最後にビジュアルdBASEに変わった。Windows3.1が発表されたからである。既に会社もボーランドに変わっていた。dBASEの歩みとともに私の仕事の一部であるプログラミング生活が続いていたが,MS-DOSから別れざるを得なくなったとき,dBASEを手放すことになった。その後はMS-Officeで対応していた。同時にプログラミングともお別れしたのである。

 データベースソフトといえばMSのAccessを使えばたいへん楽である。プログラミングの煩雑さから逃れられる。プログラミングの煩雑さから逃れられるからMSのAccessを使う。ところがデータベースを学びなおすために大学で講義をきき,SQLという言語でデータベースを作り,操作することに遭遇した。つまり,再び楽ではない場面に出会うことになった。SQLは初めてであるが,少しかじってみると以前のdBASEとあまり変わりがない。忘れてしまったdBASEの予約語を見返すのと同じ程度の努力でSQLがわかる。このとき思い出したことは情報教育の学者から直接「中高校生にプログラミングをやらせたい。」と聞いてたことだ。パソコンからBASICは消えてしまったが,ここにプログラミングが生き残っている。飛躍があるが数学の身近な応用分野を高校生に体験させられることだ。
 高校生の半分以上は理系で学ぶ数学の半分以下の時間しか数学を履修しない。ついてこない実態から教師がコースわけをしてしまったのである。もとを正せば,数学の学習内容が専門書の「解析学」「代数学」「幾何学」「確率統計学」などの入門書の域を脱していないからである。それらの学問はほとんどの人に縁がないものである。それなのに全高校生に必要であると騙しつつ履修させて,数学の解説をしてきた。学んでも使いみちがないものには意欲は沸かない。他の教科はそれなりに使いみちも実感できる。そして,やれば報われる。しかし,数学にはインセンティブが不足している。

 労働ではないものにインセンティブとはおかしいが,インセンティブの要素の報酬部分を学習内容に取り込む。情報機器を使ってめんどうなプログラミングを学ばせる。プログラミングの後にはその成果が個人に還元される。プログラミングはいかにも数学的である。問題解決型である。学習だから楽な方法を体験させることは避ける。10ピースくらいのジグソーパズルを10個やらせて,そのブロックを1つのピースとして進めるという考え方である。プログラムの実行結果が報酬部分にあたる。そのための基礎部分が従来の数学の基本部分であり,プログラミングが実用部分である。数学の基本を学ぶだけでも使いみちがあることを実感できる教科内容への新規参入がいま必要なのだ。
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