カラスに豆をやる人

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     町内ご近所でおこる話し (49)
12月22日(金)
何かおかしい
 一歩外へ出ると目に入る珍事。その人には当たり前でも,昭和10年台末から日本の成長と共に成長してきた私たちから見ると不思議な光景であり,否定的に見てしまうことがやたらと多い。

 家を出てコンビニへ寄った。レジで支払いを待つと,前の客が缶ジュース1本の代金を財布から取り出し,と思ったらカードを取り出して店員に見せ,カードリーダーで決済がなされていた。客は高校生である。私には初めて見た光景であり,カードはこういう使われ方をすることを目の当たりにした。すぐに計算が浮かんでくる。ものを買うのに借金して支払いをしなくてもよさそうなもの。借金の利息まで払うならもう1本余分にジュースが買えるのにと思いやってしまう。
 しばらく行くと,犬をつれた女性がJRの高架橋の下の休憩広場で鳩に豆をやっている。豆と言うか麩というか定かでないが,10数羽が拾って食べている。黒いものも混じっているなあと思ったらカラスである。2羽のカラスが鳩よりスピーディーにえさを拾う。普通はカラスにえさをやる人はいない。やらなくてもごみ袋をあさって困っている敵であるのにこの女性は3種のペットに囲まれてご満悦そうだった。

 横断歩道を渡る所で待っていると,向かい側に白いマフラーをまいた高校生が青信号を待っている。そのマフラーが長い。首にひと巻きして尚2本の先が太ももまで届きぶら下がっている。風に吹かれればなびくこと必至であり,私には危険が思いつく。車と並行して走らなければならない道もあり,浮かんだマフラーを車が引っ掛けるに違いない。そういう想像力は若い高校生にはないのだろうか。危険きわまりないと思われる光景に出会ってしまった。以上3件忘れないうちに記録しておきたかった。
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次の葬儀のために

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     町内ご近所でおこる話し (48)
12月6日(水)
礼儀作法の審判場
 高齢化が進んでると言うのに,斎場はすごいことになっている。1年で1館ずつ増えて今は火葬場の前に7館が林立している。これだけ揃っていれば毎日15人ずつ葬式を行える。市立の斎場は2世帯用。お寺の建てた斎場も2世帯受け持てる。その他は葬儀屋の建てた斎場である。昨日ご近所の専門学校の創立者が亡くなって葬儀があった。

 何回も見ている葬儀の進行の中で今回初めて見たのは,空き座席への案内をはじめ,ご焼香の順番の促しなどを一人の若い女性が担当していた。今まででも女性がいなかったわけではないが,送り花の世話とか小道具の準備片付けの下働きをしていた程度で目立つことはなかった。しかし,今回はメインの司会の片腕となってよく動いていた。その功あってスムースな進行ができたことは確かである。
 お導師様と法中様が祭壇の前から少し離れて中央にお座りになる。親族と来賓は祭壇の前でご焼香する。一般参列者は法中様の後に設置してある焼香台に来て礼拝する。このときが最も大事な瞬間である。4列に並んで焼香を待つ一般参列者は並ぶ列によって喪主と挨拶を交わすことができない。他の列の参拝者で遮られてしまう。解決策は簡単である。喪主とその配偶者が両サイドに立って挨拶を受ければよい。そこが若いスタッフのせいか喪主に指示するとき舌足らずなのである。見ているこちらがお節介を焼きたくなる。

 話が前に戻るが,親族の名前が呼ばれて焼香が始まると,参列者の席の一部で必ずひそひそ話しが始まる。見たことのない親族に興味がわくのであろう。サスペンスドラマの焼香のときの場面さながらである。これは失礼な態度であるから慎むべきことである。逆に祭壇前で焼香する親族になったときは,参列者に対して,よくぞおいでくださいました。私は親族の一人ですとしっかり挨拶すべきである。たくさんの審判員がその振る舞いをしっかり評価しているのである。急にはできないので日ごろから人としての礼儀作法を実行していることが大事である。誰にも葬儀の親族側に座る可能性をもっているからこそ,こんなことに触れてみた。
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粉末の灰かぐら

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10月30日(月)
町内ご近所でおこる話し (47)
訓練をして理解できることもあるが何か足りない
 昔起こった大地震の日に因んで10月29日に地区一帯で町内ごとに防災訓練が行われた。集まって点呼をとり,班長は自治会長に員数報告をするよう求められてもきちんとできない人が多い。班内の人数(今日は世帯数)のうち参加者何人という2つの数を報告しなくては意味がないのに参加者だけの数を言っている。最初にこういう基本的なことを皆が学んだことになる。

 ABC粉末消火器で炎を消すという体験をするのが今回の訓練規模であり,5本用意されていた。炎の大きさも小さいのですぐ消えるわけであるが,消えたから粉末が出てくるのを止めようとして,あちこち触っているうちにホースが上をむき,空中に粉末を撒き散らしてしまう。空一面に粉末が舞い上がり,参加者は逃げなくてはならなくなる。消火器の使い方は出終わるまでホースを火元に向けて待つものであるが,大部分の人は途中で止めたいらしい。止めて他の箇所の火を消しにいくものだと思い込んだまま終わってしまい,消火器が機能しない壊れ物という認識であった。初期消火に使うもので,あちこち持って廻って消す道具ではない。この意識を払拭しないで終わってしまったのは残念である。
 消化に使った場所はある法人が駐車場に使っている空き地であり,粉末の淡紅色が簡易舗装した地面を染めてしまった。掃除のため水をかけてブラシでこすって送り流そうとすると簡易舗装に使った小石が分離する。ブラシをやめてホースの勢いだけでどぶ板まで送り,穴に流し込んでしまおうとしたが粉末は舞い上がる。今日はずいぶん粉末を吸い込んだことになり,健康被害はないだろうかと気にしながら水の行き先のどぶ穴に押し込む。粉末を下水道に流して水が汚染されるのがこれまた気になる。この水が再び飲み水になって戻ってくるわけである。

 こうして消火器の使い方を目で見て学んだが,本当に火災において役立つ訓練とはなんだろうか。消化器がある家庭はほとんどないだろうし,訓練に出てくる人は各家庭ひとりで,いつものメンバーである。実際に非常事態が発生したら見知らぬ人がいて,助け合う人とのコミュニケーションのとりかたに困惑するだろう。町の中の災害救助のむづかしさは顔を知らないことである。国を挙げて,強制的に1年に1回は町内の老若男女全員が一同に会することを義務付けて実行させる方法を打ち出してほしい。ひとと人が会うという単純なことであるがむつかしいことなのである。
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ラーメン屋の店じまい

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10月29日(日)
町内ご近所でおこる話し (46)
変化を見て秋を知る
 きのうラーメン屋の前を通ったときは何の変化もなかったが今日その店の前に”誠に勝手ながら閉店させていただきました”と張り紙がしてある。その向かい側には,英語塾が開店したばかりで,ガラス全体に大きな生徒募集の要項が貼ってある。どちらも家から30m前後のご近所である。英語塾はこの町内へ新規参入した人だから知る由もないが,ラーメン屋は3年くらい続いた店であるから,店主も知っている。

 どちらの店も借り店舗で,ラーメン屋の前はうどん屋でこれも短命の店であった。場所が悪いといったら当たらずとも遠からずだが,もう一軒反対の方角に飯屋が長く続いているから場所だけの問題ではないだろう。中華料理の専門店でもあり,味は悪くない。若夫婦だけで営業し,出前も結構あったように思う。ただ,住まいが離れているから,ご近所としてのお付き合いはなかった。どこかいい場所でも見つけて再出発されるといいが。
 一方,新規参入の開店の模様は派手である。間口2間半くらいの小さな英語塾で2人制の授業方式だ。週1回150分,4万円とガラス戸にでかでかと出ている。このわかり易さが開店するときのテクニックかと思わせる。近くに高校があるから,それを狙った商売である。学校帰りの1,2年生を対象にした塾であり,週4日の営業活動だから,曜日をうまく割り振りして8人が放課後待たずに指導を受けられる計算になる。1日2組に膨らめば最大16人となる。収入は64万円となり,家賃と光熱費や通信費などひいても一人で行うなら大きな収入だ。しかし,どれだけ集まるか。捕らぬたぬきの皮算用である。

 新旧入れ替わりの話を持ち出したのは,「”空”とは万物は変化するという意味である」とラジオ深夜便の4時台の再放送が土曜日に聞こえてきたからである。般若心経の一文字を理解するのに何人かのお坊さんに聞いてもわからなかった。上のような解釈を発見してわかるような気がしたという。「物事は死と生が繰り替えされて発展していく。死とは滅びることではなく生への出発である。」とも,番組【たけしの誰でもピカソ】から聞こえてきた。やがて自分の死がやってくるが次の生への発展につながるステップであると考えると気が落ち着いてくる。変化を見て秋を知らされた。
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世界史未履修

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10月26日(木)
町内ご近所でおこる話し (45)
知っていてもいい子でいたい
 世界史が未履修のまま高校を卒業した大学生が時効であることを知ってマスコミに密告?したのかどうか定かでないが,このようなことを教育委員会が知らないというのはおかしい。県庁裏金問題にかかわっていて教育委員会に異動した教育長がいれば,高校でのカリキュラムにかかわっていて教育委員会に異動した指導主事もいるはずである。ただ,今まで黙っていただけであろう。日本人の義理と人情とでもいうか,いい面でもある。今後本気で調査するにしても,疑ってかかっていい科目は2,3科目である。情報という教科も2単位必修であるが,1ないし0のところもあるだろう。

 「世界史が必修であることはルールであるから,ルールを守ってもらわなくてはいけない。」と記者会見するのは塩崎官房長官である。このルールを実際に守ってきた学校(生徒)が日本中にはたくさんある。受験前だから無罪放免では日本中の高校生が黙っていない。受験に不利になるのは他校の履修してきた高校生である。どうやって公平さを保つのか論ずる時間もない。昭和44年の東大や東京教育大の入試が実施されなかった不公平とは出所が違うけれども同じ受験生間で面白くない感情が沸き起こるのは避けられない。
 世界史を2単位分履修させるには50分授業を70回近く行わねばならない。1日6こま連続授業を11回は行う計算だ。ひとつのクラスならまだしも数クラスある。これでは教師が参ってしまう。地理歴史という教科の中で世界史を選択にしている学校では教師の数は1人か2人であろう。日本史や地理を教えるベテランの教師は二三十年世界史は教えていないから,急に教えろと言われても集中講義などできるわけがない。だから援軍は当てにならない。つまり教師不足となる。そうすれば,集中講義をやったとしても,うやむやのやり方でお茶を濁してしまうだろうことは火を見るより明らかである。

 生徒と先生が向き合う世界史の補講を想像してみよう。おそらく授業にならないであろう。不平不満の場面が手にとるようにわかる。馴染みのない先生が当たっているからなおさらだ。一部の生徒は授業に出てこない。そうなれば,学校はやったことにしてまた世間をだますことになるだろう。ではどうするのか。卒業生も世界史を履修せずに卒業してしまっているから,このまま目をつぶって,病院や警察と同じように文科省が世間特に他校の受験生に頭を下げて「このたびの不祥事が二度と起きないように省内の綱紀粛正をします」と謝罪するより仕方がないであろう。
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酒酔い自転車

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10月20日(金)
町内ご近所でおこる話し (44)  
”車は止まらないかもしれない”と思え
 優良運転者講習といえども私のように自転車しか乗らない者も含んでいて無事故といっている集団であるが,自動車運転者と同様運転者のしぐさ悪さは毎日見ていてわかるものだし,自転車の運転も交通ルールを守らなくてはならないから,講習を受ける義務がある。自転車の飲酒運転,自転車の携帯メール運転など歩行者に危険をもたらすことは必至である。

 この稿では,自転車運転で身を守る方法?をここに記しておきたい。①自転車が安全に進んでいくのは自動車が避けて通ってくれるからである。ちょっとでも身体に触れたり近づきすぎたりすれば,転倒するに決まっている。存在を示すためには,前後ろから見えるように暗くなる前に早めのライトをつけること。これは自転車を見ていると守られていない例である。
 ② 横断歩道を自転車や歩行で渡るときはそこへ突っ込んでくる運転者の顔をにらむことである。女性運転者は運転にはハンドルを使う選択肢しかもっていない。ブレーキを使うことを知らない。横断歩道を渡る人がいたらハンドルで避けて自分がその人の前を先に横切ろうとする。ぶつかる寸前を走る。決して歩道の前では止まらない。これを肝に銘じて渡るときは車の運転者と視線を合わせることである。

 ③ 雨の日の運転はめったにないが途中から雨ということもある。傘は常に持っていて,かさをさして運転するのがよい。①で述べた自分の存在を相手に知らせることで安全を守ることができるからである。カッパなどを着て顔などをビニールでおおうような姿は前方が見えなくて最も危険である。カッパは着ないで傘を使う。片手運転となるから慎重になり,力も入り手と足の運動になって体力増強にもなる。
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4300円の身分証明書

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10月17日(火)
町内ご近所でおこる話し (43)
簡略すぎる運転免許更新講習会
 運転免許証更新のお知らせのハガキが届いた。自分のリアクションは次の3つである。
① 長い間車に乗っていない。もう免許証は廃棄しようかどうしよう。
② 指定日を見て,都合が悪い。日曜日の予約をしなくてはならない。
③ 写真をどこで撮ってもらおうか。以前に撮ったデジカメ写真を持っていこうか。
これらが最初のさっと読みの印象である。

 ①は学校や職場の身分証明書より信頼度が高いから継続することにして,もういちど文面を読むと,②と③が改善されている。これはサプライズである。②の指定日以外でウイークデーなら予約無しでいいと書いてある。③の写真は必要ありませんとボールドで書いてある。これまで写真をもって行っても,講習所で個人撮影する。どうして必要なのだろうと疑問視していた。公安委員会の中で改善案を具申できる立場に昇進されたのであろう。昇進おめでとうございます。といいたい。ところが郵政公社はお年玉年賀はがきの景品に50円の切手を未だにつけている。50円切手ばかりあまる。30円切手を買って80円として封書に使っている。一般の人が50円切手をどこへ使うのだろう。
 はがきには講習区分等に優良運転者講習(講習時間30分)と書いてあった。講習手数料と時間に差のある一般講習と違反講習の3つに分かれている。優良というのは過去5年以内に無事故無違反というが,つかまっていないだけの人もこの中に入る。講師の講習内容を聞きながら,これだけで運転者の心構えが向上するのだろうか。事故を起こさないポイントを目で見て,耳で聞く(写真)のであるが,心に訴えるものがない。「私はあのとき,横断歩道で歩行者の前を突き切ってしまった。どうして止まれなかったのだろう。歩行者をヒヤーとさせることが何回もあった。」こういう反省が沸いてこなくては講習会の意味はない。いわゆる腰掛の状態で聞き,講師は忙しそうに話される。もう少しで終わるよ。終了3分前になりました。こんな調子である。

 きょうは講習会に行くことをサラリーマンなら上司から認められて大ぴらに参加できる日なのだ。腰を据えて聞こうと心構えもできているはずである。3時間分のカリキュラムを組む必要がある。運転で出くわすあらゆる場面を提示して,このときの処置の仕方を考えさせる。このことは配布した冊子に書いてある。これをいかに消化させるかがこの講習会であり,警察の力量が発揮される場である。家に帰ってから読んでおきなさいというだけでは,ほとんど読まない。この時間を最大限に生かす姿勢が欠けている。規制緩和とか易きに流れる方だけは進捗するが,3時間の講習時間を生かすための計画に頭を使う人が警察にはいないのかといいたい。それに比べて放送局の番組編成の努力は頭が下がる。24時間の番組を作って放送されている。警察は各種あわせて5.5時間の番組しか作っていない。しかも毎日同じ番組であるから比較にならない。もっと国民の教育(指導ではない)に力を入れるべきではないか。
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いじめる教授

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10月07日(土)
町内ご近所でおこる話し (42)
不適格な質問の面接試験
 
 大学入試に面接を入れた推薦入試がある。それを受けるために事前に練習をしてもらってから受けに行く。一般には「学校を選んだ理由,入学後学びたいこと,卒業後の進路,在校中に経験したボランティア活動,最近のニュースで印象に残っているもの,それに特技や趣味」こういうことが相場でその原稿を作り,そらで言えるように練習をしていく。

 面接する側の立場では上記のようなことを準備して受験に来ているからそれを質問したのではすらすら答えられて評価に差がつかないと見ているのだろうか。準備したもののひとつか2つぐらいしか聞かれなかったらしい。一人の老教授が「メールはよくするのかね」と,「人並みにやります」と答える。もう一人の若い面接官が補佐役をしている。「女子高生ならメールするのは当然でしょう」と横槍が入る。「最近貴校からの入学者がいないがどうしてかね。」これはいじめである。同じような質問が来て,15分くらいで面接が終わったらしい。
 これを聞いただけでこんな感想を持つ。何を面接で見ようとしているのか,面接の目的が受験生に伝わっていない。事前に原稿をつくることは国語の勉強にはなるがそれを大学側はみようとしない。大学が示す受験科目の中で面接と基礎学力とするならば,「面接では,自己の意見を恥ずかしがらないで話すことができる。社会で起こることを速やかにキャッチし,自分の物差しで判断して批評できるなど」こういう内容を明示しておけば,そのように1年次から高校生活を送ることを心がける。

 大人にとって面接の目的はわかっている。しかし老人になって若い子と話ができる能力に欠けてくると,どんな質問をしたらいいかおそらくわからなくなる。評価できる的確な話題提供と言った方がいいだろう。普段学生に一方的に講義をしていてもそれは専門分野の用語の羅列にすぎず,学生を理解しているとはいえない。だから,面接試験などといっても「木に縁りて魚を求む」類の行為に過ぎない。大学の先生は研究室に引きこもらないで,学食へ行き,毎日会食する意欲を持ち続けなくては学生を理解できるようにはならない。
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すみません

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10月04日(水)
町内ご近所でおこる話し (41)
このあいさつ返すべきか返さなくていいか
 
 人間の脳細胞の1個が1バイトの記憶をするメモリーなのかわからないが,計算処理はCPUに比べて遙かに遅いし,間違えることはざらである。しかし神経伝達はケーブルを使う情報通信と同じだと思う。だから間違いを行動に移すことも極めて速い。間違えて言う「すみません」を1時間の道中で3回聞いた。人間は計算間違いをする動物である。間違えたことが人間同士のこころをつなぐインターフェースである。

 クリーニング店で 50代の店の主人,個人経営で受付から現場作業まで一人でこなすつわものと見ていい。店と仕事場を改築中。仮店舗で営業している。そこへズボンを持っていった。360円を1000円で支払っておつりを受け取った。360円ですという声と一緒が印象に残り,手の中のつり銭を見ながら外へ出た。610円をつかんでいた。そのとき6と1では10にならないととっさに計算をした。主人と目を合わせながら店内に戻って,360円を唱えて,30円を追加ゲットした。「すみません」を聞きながら店を後にした。
 T字路で 電動3輪車を運転してきた80近いおばあさんと出くわした。こちらは自転車だ。自転車同士どちらによけるか相手の心が読めなくてぶつかってしまう経験がある。とっさの計算をした。自転車は電動車に負けるし,相手はお年寄りである。ここで一歩譲って自転車を止めた。「すみません」を聞きながら無事すれ違うことができた。

 コンビニで 品物を持ってレジのカウンターにもって行こうとした。近い方に休止の札が立てられていて,その向こうに店員さんがいた。揚げ物のケースをはさんで他方のカウンターは空いていて誰もいない。始めは空いているほうに足が向いた。店員さんが来ないので休止の札の方へ変更した。そのときは店員さんは空いているほうへ行きかけでまたもどってきた。相互にものすごい速さで計算をし合ったのだ。答が一致したとき「すみません」という笑顔が返ってきた。
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墓地で待ってた猫

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10月03日(火)
町内ご近所でおこる話し (40)
墓はいずれ無縁仏に
 
 お彼岸に参れなかったので本日墓参を企てた。歩いても30分から40分で行ける近さで散歩にも使っているコースである。地図のSを出て赤線に沿って,WとAを経由して墓地Gにつくコースである。T地点からトンネルに入れば四角形の1辺なのですぐにつけるが排気ガスを吸わずには通れない。今日は雨模様なので自転車を使った。 

 町中に伸びた山の端(山の稜線の終点)を見ながら歩くコースである。第一コーナーのW地点は昔スキー場と同じリフトがあって,その上の遊園地に通じていた。今は岩壁に水が流れる滝にしてある。
 第二コーナーのA地点の山肌が褶曲を示している。その上に秋葉神社が町民を守っている。ここまで来ると,この山の端がうらめしい。これがもっと引っ込んでいたら墓地が近いのにといつも思う。しかしこの山は南北2km,東西5kmある地球上の突起である。山肌が見えるところはそんなにない。ありがたく拝むくらいの気持ちがあってもいいと言い聞かせる。

 終点の墓地は100m四方余の広さで住宅地と隣接している。囲いはなく,四方八方が入り口である。斎場の建物と墓地の間に来ると,子猫のお出迎えがあった。「待っていたよ」とばかりに足元に絡み付いてくる。顔は大猫にやられたのか傷だらけであった。拾ってくるわけには行かないので,そのまま別れて,我が家の墓地に着いた。いずれこの墓も訪れる人がなくなるだろうと,周りの墓と比較しながら帰ってきたのである。
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