高校数学も再構築が必要

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10月31日(火)
大きなお世話 (9)
難度の高い技よりノーミスが勝つ
 音楽-----楽しいコンサートへの道,生活----衣食住の中で生き生き,保健体育----病気の自己診断,情報----情報・通信機器との出会い,国語----本が読める,外国語----英語サイトが読める,生物----自己の根源,化学----物質の根源,地理----経済生活の基本,歴史----温故知新,公民----生きてる社会環境,数学は?と考えたとき,思い当たるものがない。専門家は論理的な考え方をしているのは数学の成果だとお答えになる。しかし,論理的な考え方は目に見えないし,数学の成果だと考える人は少ない。

 世間では高校でしっかり学んでると思われている教科の一つに数学がある。しかし実際は数学ではなく,数字と文字を使った数楽という感じで授業は進んでいる。音学といわず音楽というのと同じである。音を楽しめる人はいいが,苦手な人には苦痛であるから選択しない。つまり数学も本来の目的達成をあきらめて,数を使った問題を読み進めていくことに終始している。好きな子供を除いて,数の世界に浸っていられない。授業にがまんできなくて教室を立ち歩くのと似ている。問題を解いているというが解き方の練習をつんでるだけで,音楽の新しい曲を何回も歌って覚えるのと同じである。
 教育再生会議で議論がされているが,この際,必須の全教科に渡ってその内容の検討をすべきである。専門家の立場で検討していては効果がない。無関係な立場の人が検討することに意味がある。それぞれ教科の内容を見たとき,一般市民がここまで必要かどうか,これがどこに使われ応用されているか専門家の説明は受けることにして,素人の知識人が議論し,大幅な変更を要求するものについては専門家に代案を提出させるようにする。一芸一能に秀でていてもいっときは役に立つが長続きしない。高齢社会では幅広く耕しておくことの必要性を感じる。

 こうして各教科の代案が出てきたとき,選択教科はなくなり,誰もが同一の教科を履修して,国民全体の教養を高めることができるようになる。いま,専門知識は大学や専門学校に入ってからでいい。高校で未履修や学力不足を大学で補っているのが現状である。生物を履修しないで医学部に入学してきたり,ろくに数学も勉強しないで,経済学部や心理学科に入っている。こういう矛盾や無駄や入試の不公平を失くすために教育再生会議に要望したいと同時に,私も上に述べた代案を考えているので次回書いてみたい。
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粉末の灰かぐら

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10月30日(月)
町内ご近所でおこる話し (47)
訓練をして理解できることもあるが何か足りない
 昔起こった大地震の日に因んで10月29日に地区一帯で町内ごとに防災訓練が行われた。集まって点呼をとり,班長は自治会長に員数報告をするよう求められてもきちんとできない人が多い。班内の人数(今日は世帯数)のうち参加者何人という2つの数を報告しなくては意味がないのに参加者だけの数を言っている。最初にこういう基本的なことを皆が学んだことになる。

 ABC粉末消火器で炎を消すという体験をするのが今回の訓練規模であり,5本用意されていた。炎の大きさも小さいのですぐ消えるわけであるが,消えたから粉末が出てくるのを止めようとして,あちこち触っているうちにホースが上をむき,空中に粉末を撒き散らしてしまう。空一面に粉末が舞い上がり,参加者は逃げなくてはならなくなる。消火器の使い方は出終わるまでホースを火元に向けて待つものであるが,大部分の人は途中で止めたいらしい。止めて他の箇所の火を消しにいくものだと思い込んだまま終わってしまい,消火器が機能しない壊れ物という認識であった。初期消火に使うもので,あちこち持って廻って消す道具ではない。この意識を払拭しないで終わってしまったのは残念である。
 消化に使った場所はある法人が駐車場に使っている空き地であり,粉末の淡紅色が簡易舗装した地面を染めてしまった。掃除のため水をかけてブラシでこすって送り流そうとすると簡易舗装に使った小石が分離する。ブラシをやめてホースの勢いだけでどぶ板まで送り,穴に流し込んでしまおうとしたが粉末は舞い上がる。今日はずいぶん粉末を吸い込んだことになり,健康被害はないだろうかと気にしながら水の行き先のどぶ穴に押し込む。粉末を下水道に流して水が汚染されるのがこれまた気になる。この水が再び飲み水になって戻ってくるわけである。

 こうして消火器の使い方を目で見て学んだが,本当に火災において役立つ訓練とはなんだろうか。消化器がある家庭はほとんどないだろうし,訓練に出てくる人は各家庭ひとりで,いつものメンバーである。実際に非常事態が発生したら見知らぬ人がいて,助け合う人とのコミュニケーションのとりかたに困惑するだろう。町の中の災害救助のむづかしさは顔を知らないことである。国を挙げて,強制的に1年に1回は町内の老若男女全員が一同に会することを義務付けて実行させる方法を打ち出してほしい。ひとと人が会うという単純なことであるがむつかしいことなのである。
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ラーメン屋の店じまい

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10月29日(日)
町内ご近所でおこる話し (46)
変化を見て秋を知る
 きのうラーメン屋の前を通ったときは何の変化もなかったが今日その店の前に”誠に勝手ながら閉店させていただきました”と張り紙がしてある。その向かい側には,英語塾が開店したばかりで,ガラス全体に大きな生徒募集の要項が貼ってある。どちらも家から30m前後のご近所である。英語塾はこの町内へ新規参入した人だから知る由もないが,ラーメン屋は3年くらい続いた店であるから,店主も知っている。

 どちらの店も借り店舗で,ラーメン屋の前はうどん屋でこれも短命の店であった。場所が悪いといったら当たらずとも遠からずだが,もう一軒反対の方角に飯屋が長く続いているから場所だけの問題ではないだろう。中華料理の専門店でもあり,味は悪くない。若夫婦だけで営業し,出前も結構あったように思う。ただ,住まいが離れているから,ご近所としてのお付き合いはなかった。どこかいい場所でも見つけて再出発されるといいが。
 一方,新規参入の開店の模様は派手である。間口2間半くらいの小さな英語塾で2人制の授業方式だ。週1回150分,4万円とガラス戸にでかでかと出ている。このわかり易さが開店するときのテクニックかと思わせる。近くに高校があるから,それを狙った商売である。学校帰りの1,2年生を対象にした塾であり,週4日の営業活動だから,曜日をうまく割り振りして8人が放課後待たずに指導を受けられる計算になる。1日2組に膨らめば最大16人となる。収入は64万円となり,家賃と光熱費や通信費などひいても一人で行うなら大きな収入だ。しかし,どれだけ集まるか。捕らぬたぬきの皮算用である。

 新旧入れ替わりの話を持ち出したのは,「”空”とは万物は変化するという意味である」とラジオ深夜便の4時台の再放送が土曜日に聞こえてきたからである。般若心経の一文字を理解するのに何人かのお坊さんに聞いてもわからなかった。上のような解釈を発見してわかるような気がしたという。「物事は死と生が繰り替えされて発展していく。死とは滅びることではなく生への出発である。」とも,番組【たけしの誰でもピカソ】から聞こえてきた。やがて自分の死がやってくるが次の生への発展につながるステップであると考えると気が落ち着いてくる。変化を見て秋を知らされた。
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高校騒動「人の噂も75日」

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10月28日(土)
<ショート>大きなお世話 (9) 
各種メディアは知りたいことを報道せよ
 放送局は毎時のニュースに未履修問題の学校の名前の報道ばかりやっているが,もっと肝腎なことを聞きただして報道すべき である。今回の学習指導要領無視と言うのは法律違反なのであるから,ライブドア事件と同じように起訴されてもよさそうなはずである。たった一つの企業のた めに国が莫大な費用をかけて罪の重さの測定に時間を費やしている。こうすることが当たり前ならば,マスコミは,教育委員会にこれからの仕事すなわち学校の 対応が確実に履行されるかどうかの確かめ方を聞き出さなくてはならない。さらに警察を訪ねて,この犯罪行為(ライブドアでは商法違反)に目をつむってしま うのか。どう償いをさせるのか。内申書の履修偽装と姉歯建築士の耐震偽装とどう違うのか。明確な答を聞きだして報道しなくてはならない。
 「受験生に負担にならないように」などと被害者への同情を求めるようなNHKキャスターのコメントが毎晩報道されること をいいことに高校は甘えてしまうことは明らかである。伊吹文科相の発言をホローすることは全くない。すなわち,「まじめにやってきた高校生とうまい汁を 吸ってきた高校生とを比べて,これらがアンフェアにならないようにしなくてはならない。」ということに触れなくてはならない。教育委員会も警察も動かなけ ればうやむやになってしまう。つまり3日坊主のような終わり方,講堂のようなところで教科書も使わず講演会をやって終わりとかではやったことにならないの である。いやしくも単位を認めるからには生徒も試験のために勉強して(世界史のカタカナ語や年代を覚えることは容易ではない),一定の点を取れるまで学校 は指導しなくてはならない。報道機関は密着取材が得意であるから,教育委員会に張り込んで,高校の補講状況をどう観察把握していくかを見定め,その結果を われわれ国民に報道して欲しい。人の噂も75日に終わらせたくない。

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高校世界史恐い将来

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10月27日(金)
故きを温めて新しきを知る (22)
先得さきどくのつけ踏み倒しが心配
 企画会社の経営を紹介しているNHKの番組”プロフェショナル”。社員は懸命にアイディアを提供し,寝ても覚めても頭の中はおもちゃの開発で染められている。その努力が結果として,社員の利益につながる。この仕事には賄賂や談合や法律の網の目をくぐるなどの道がない。世間の眼鏡にかなうかどうかで生き残るか廃業かである。

 一方,この2,3年あちこちで不祥事や法律違反が暴露し,謝罪会見で世間を騒がせている団体は,何を考え誰の利益を追いかけているのだろうか。今まで長い間来たことのない大きな台風が突然やってきてあらゆるものを洗い流した後のような現象である。公的機関の不祥事,鉄道会社や航空業界の内部問題,建築業界の不正利益追求,医学会の倫理問題,行政府の裏金作り,そして学校のいじめ,カリキュラム不正運用など本来の業務に真剣に取り組んでいればなんら問題にならないばかりか,尊敬さえされる団体である。架空請求とかを行う架空の団体ではない。それがなぜ隠さなければならないあるいは横道にそれて行くことに自己規制がかからないのだろうか。
 医師の倫理問題は賛否両論があって,患者や家族,妊婦にとって利益になるも,第三者がその行為を自己利益のため不正利用するからということで,医師の意志と法律の間に摩擦がおきている。それを強行に実行してしまってあと処理に手をこまぬいている。今回の学校の教師の倫理問題には賛成をもって許す者はいない。生徒や家族にとって利益になるも,将来の生徒や家族にとっては利益にならないので,文科省が基準を設けている。その基準を破っていたことをこれまで隠してきた。誰がこれを裁くことができるのだろう。

 何事もいずれわかることを愚かにも人間はやるものだ。みんなでやればたとえ不正でも恐くない。人間が公平に暮らせるように法律がもうけられ,それを守るのも取り締まるのも皆人間である。法律がもうけられる時点はでは人間の精神は神の心を宿し,法律に神の心を吹き込んでいた。古今の法律の歴史を調べるとわかる。例えば,ちという神獣が神社の参道に祀られているが,古代の裁判に用いた動物で,法という字は,裁判に破れて穢れたちを皮袋に入れて水に投じ去るさまを表している。法を守ることはその場では不利益を蒙るようでも終局において皆が公平に利益を得ることを保障するものである。今回何万人もの高校生が不正に卒業することになるだろうが,いい味を占めたこの体験が将来の日本を背負う立場になったとき,どんな判断を下して国民を引っ張っていくのかと思うとやり切れない。
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世界史未履修

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10月26日(木)
町内ご近所でおこる話し (45)
知っていてもいい子でいたい
 世界史が未履修のまま高校を卒業した大学生が時効であることを知ってマスコミに密告?したのかどうか定かでないが,このようなことを教育委員会が知らないというのはおかしい。県庁裏金問題にかかわっていて教育委員会に異動した教育長がいれば,高校でのカリキュラムにかかわっていて教育委員会に異動した指導主事もいるはずである。ただ,今まで黙っていただけであろう。日本人の義理と人情とでもいうか,いい面でもある。今後本気で調査するにしても,疑ってかかっていい科目は2,3科目である。情報という教科も2単位必修であるが,1ないし0のところもあるだろう。

 「世界史が必修であることはルールであるから,ルールを守ってもらわなくてはいけない。」と記者会見するのは塩崎官房長官である。このルールを実際に守ってきた学校(生徒)が日本中にはたくさんある。受験前だから無罪放免では日本中の高校生が黙っていない。受験に不利になるのは他校の履修してきた高校生である。どうやって公平さを保つのか論ずる時間もない。昭和44年の東大や東京教育大の入試が実施されなかった不公平とは出所が違うけれども同じ受験生間で面白くない感情が沸き起こるのは避けられない。
 世界史を2単位分履修させるには50分授業を70回近く行わねばならない。1日6こま連続授業を11回は行う計算だ。ひとつのクラスならまだしも数クラスある。これでは教師が参ってしまう。地理歴史という教科の中で世界史を選択にしている学校では教師の数は1人か2人であろう。日本史や地理を教えるベテランの教師は二三十年世界史は教えていないから,急に教えろと言われても集中講義などできるわけがない。だから援軍は当てにならない。つまり教師不足となる。そうすれば,集中講義をやったとしても,うやむやのやり方でお茶を濁してしまうだろうことは火を見るより明らかである。

 生徒と先生が向き合う世界史の補講を想像してみよう。おそらく授業にならないであろう。不平不満の場面が手にとるようにわかる。馴染みのない先生が当たっているからなおさらだ。一部の生徒は授業に出てこない。そうなれば,学校はやったことにしてまた世間をだますことになるだろう。ではどうするのか。卒業生も世界史を履修せずに卒業してしまっているから,このまま目をつぶって,病院や警察と同じように文科省が世間特に他校の受験生に頭を下げて「このたびの不祥事が二度と起きないように省内の綱紀粛正をします」と謝罪するより仕方がないであろう。
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映画技法

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10月25日(水)
IT・マルチメディア関連のカタカナ語と略語ABC (35)
ショット・アングル・キー
 業界用語というのはその道に生きている人は毎日使っている言葉であるが,ときにそれを素人に向かって発せられると,こちらは聞き返したり,定義をあらためて聞かざるを得ない。ショット・アングル・キーなど聞いても,普段,別の意味で使っているからあきらめるかしっかり勉強しなおすかの選択に迫られる。例えば,カメラのアングルすなわち角度と聞くと,どこに角という図形ができるのだろうと考えてしまう。「角とは1点から引いた2本の半直線でできる図形」と定義され,私にはこれが当たり前の使い方なのだ。普通の人には答えられない定義である。メディア講習会ではこれらの言葉を説明できるように課題が出された。答をノートに書いてもいつかは埋もれてしまうので,データベースとしてのブログに簡潔に書いてみた。

ショットとその種類 ショットはカメラと被写体の距離に関係する言葉である。望遠レンズを使うとこの限りでない。
1 超ロングショット 叙事詩映画に使われる
2 ロングショット 劇場の舞台と観客の距離
3 フルショット 人の頭から足まで入る
4 ミディアムショット 人の膝から上が入る
5 クローズアップ 顔だけ入る
6 超クローズアップ 目や口だけ入る

アングルとその種類 アングルとは被写体の目の高さから見てカメラの高低位置を表す言葉である。
1 俯瞰ふかん視点 頭の真上
2 ハイアングル クレーンか高台の位置
3 アイレベル 登場人物の目の高さ
4 ローアングル 低い位置
5 斜角 カメラを傾けて撮影

キーとその種類 証明のスタイルで基準になる明るさをキーという
1 ハイキー コメディーやミュージカルなどに明るく
2 ローキー ミステリーやスリラーなどにぼんやりした光
3 ハイコントラスト 悲劇やドラマなどに明暗くっきり
4 ハロ効果 頭上から照明
5 逆光照明 シルエットをおぼろげに浮かびあがらせる
 
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無理しないでね

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10月24日(火)
<ショート>大きなお世話 (8)
思いやる心を表す言葉
 人間が生きていく上で,行動中に頭の中は何を考え,ひとり静かなときは何を考えるのか。十人十色と答えてもいいが,99%は自分の問題を考えているものだ。体調の悪い人が多いだろうから,どうしたら苦痛から逃れることができるかと考えているし,暇な人はどうやって時間を費やすべきかを考えているだろうし,何かに追われている人はどう処理して楽になろうかと考えているに違いない。世のため人のために頭を使う時間は極めて少ないと思う。ばったり顔見知りと会っても,「元気かー」と声をかけるか,天気の話を交わすぐらいでそれ以上の話は出てこないことからでもわかる。

 時に,そのひとにとって1%に当たる他人を思いやるときがある。ここで言う他人とは家族を含めて,自分以外の知っているひとのことである。この思いやる言葉で,実際に使う言葉にどんなものがあるか考えてみると,「気をつけてね」「お大事に」「がんばってね」この3つぐらいが定番である。「皆様のご健康をお祈りします」と書く文面はうそである。神仏の前に進み出て合掌することはほとんどないであろう。
 今度は毎日顔を合わせている仲間の一人が,体調が悪くなって早く帰ったとしよう。このとき人はどんな言葉でその人を思いやるのか。もっとも多いのは「身体の具合はどうですか? 」「気分はどうですか?」「あんまり無理しないでね。」「シンドイの我慢しないでね。」「元気でいてくれないと、とっても心配になります!」「元気になるまで絶対無理しないでね。」こういう言葉がメールなどで使われる。いま上で1%の思いやりと述べたが,2%にすれば,人は幸せになれると思う。すなわち,元気なうちにひとりひとりを思い浮かべ,「気分はどうですか?」「あんまり無理しないでね。」「シンドイの我慢しないでね。」と心で唱えることである。

 
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ミュージカル「ヨセフと色とりどりのコート」

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10月23日(月)
故きを温めて新しきを知る (21)
映画をおもしろく見る方法
 原作の旧約聖書「創世記」を読んでからこの映画をDVDで見た。というより,読まされ見せられたのであるが,そのわけは講習会の1日の講座の内容であるからだ。そして,映像表現とテキスト表現の違いを比較してレポートにまとめる課題がある。これを一晩で清書して他者にプレゼンせよというきつい課題である。それはともかくとして,この映画がミュージカルであることから,この映像が現実味を持っているかどうかは問題にせず,監督がどこまでも独自の基準による美やパワーを追求しようとする意図に注意を払って鑑賞し,そういう場面を見つけることにした。

 「ミュージカルを見る会場すなわち講堂の舞台が物語の進展によって,急遽,児童たちが物語の出演者の中に溶け込んで一体化したり,場面が牢獄の中へ吸い込まれていったりする。」この映像表現は映画の中で何度も使われることから,これがこの監督の素材の様式化とも言うのだろう。また「父親ヤコブのもとに兄弟全員が集まったとき,あろうはずのないカメラで記念写真を撮る場面を入れている。」―――他者の目にはどのように映るか気にしない。これも様式化の例だ。
 「ヨセフが穴に投げ込まれるが,穴の中は見せることができない。一工夫として,蛇を出して水のたまっていない草むらもどきの中を表現している。野獣が蛇に変わっているが食われる場面はないので何でもよいのである。」このシーンも現実にはありえないが様式的に凝っている部分のひとつである。

 形式や技術よりむしろ内容こそが最も重要であるする通常の映画に対してミュージカルは台詞にメロディーをつけ,振りを加えて意思表示するという手法はまさに表現の仕方の最も特徴的なところである。文字通りミュージカルのミュージカルたる所以である。この映画ではナレーターの歌もうまいがヨセフ役の男声も聞きほれる美声である。柔らかい声帯から発する音は日本人からは聞かれない独特の雰囲気をかもし出してくれた。今回一つの視点から映画を見たのであるが,別の観点,例えば「明と暗」の効果を担当するライティングの手法に目を向けて見るのも映画をおもしろく見る方法である。
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非Windows2

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10月21日(土)
<ショート>大きなお世話 (7)  
Linuxもいいですよ
 16日の日記に「10月から大学で新規科目を学ぶことになって,LinuxリナックスというOSを紹介された。」と書いたが,Linuxの一つKNOPPIXクノーピクスのほかに本命のFedoraCore5をインストールした。この画像はデスクトップである。そこへOfficeシリーズのライターを起動中のものである。
 ライターの使用感はさくさくテキストの入力ができ,機能もWORDに近いものが揃っている。 インターネットもMozilaというブラウザソフトがあり,すっきりしたメニューが用意されている。これをWindowsと併用するにはDドライブを開放して,Linux専用のパーティションを切らなくてはならない。ファイルを共有するには,サーバーのブリーフケースなどを使うとよい。
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