TAZUKO多鶴子

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『アレキサンダー大王』…NO.2

2008-01-22 | TAZUKO多鶴子からの伝言
『アレキサンダー大王』の<マケドニア王時代>
マケドニア王フィリッポス2世とエピロテ王女オリンピアスの間に生まれ、幼年期にアリストテレスを家庭教師に迎えギリシアの基礎的な教養を身につけた。紀元前338年、アレクサンドロスは一軍の将として父に従ってギリシアに出兵しカイロネイアの戦いでアテナイ・テーバイ連合軍を破る。これが彼の初陣であったが、このときアレクサンドロスは精鋭の騎兵を率いてギリシア軍を壊乱させ、マケドニアの勝利に大きく貢献した。父フィリッポス2世は全ギリシアの覇権を握ると続いてペルシャ東征を計画したが紀元前336年に暗殺された。
20歳の若さでマケドニア王を継承したアレクサンドロスは、敵対者を排除してマケドニアを掌握すると、トラキア人と戦うためにドナウ川方面に遠征して成功をおさめ、その隙に反旗をひるがえしたテーバイを破壊。父王暗殺後に混乱に陥っていた全ギリシアに再び覇を唱えた。ギリシアの諸ポリスと同盟したアレクサンドロスは、父の遺志を継いで紀元前334年にギリシア軍を率いてペルシャ東征(東方遠征)に出発した。

<マケドニア軍の強さ>
ギリシア世界で伝統的であったファランクスに加えて、馬匹の確保や地形に起因する運用の難しさからギリシアでは重視されなかった騎兵を組み合わせたマケドニア軍は、当時最高級の戦闘力を誇る軍隊であり、そのうえ各々の将兵はその軍務に誇りを持っていて精強の兵士であった。また、アレクサンドロス自ら行軍中にあっても荷馬車に乗り降りして体を鍛錬したと伝えられる。彼は常に最前線で将兵とともに戦い、自らの頭部や胸部に重傷を負うことさえあった。数々の戦場で危機を乗り切ったアレクサンドロスは神懸かった戦士であり、将兵から絶大な人気を得ていた。


<ヘレニズム文化>
ギリシア文化がオリエント文化と融合し華やかなヘレニズム文化がアレクサンドロスの帝国に開花し、ラオコーン像、ミロのヴィーナス、サモトラケのニケ、瀕死のガリア人などの優れた彫刻が各地に制作された。エウクレイデス、アポロニオス、アルキメデス、エラトステネス、アリスタルコスらの優れた学者も輩出し、その後、古代ローマ、イスラーム、ヨーロッパに強い影響を及ぼした。
さらに、東方奥深くに入植したギリシア人はガンダーラ美術に大きな影響を与えた。はるか極東の日本の法隆寺の柱にまでヘレニズム文化の痕跡が認められている。


参考資料: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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