TAZUKO多鶴子

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『西条八十』が子供達に向けておくった詩

2008-07-22 | TAZUKO多鶴子からの伝言
つい先日、
昔公開された映画と近年紹介されたテレビドラマの2種類
『人間の証明』を見ました。
「母さん…僕のあの帽子…どうしたんでしょうね?…」
この詩が昔から大好きで。

実はこの詩。
西条八十が子供達に向けて書いた詩だそうです。
昔の児童文学の凄さに驚かされます。
今日はその有名な西条八十の詩『僕の帽子』を書き込みます。


     <ぼくの帽子> 

母さん、僕のあの帽子、どうしたんでせうね?
ええ、夏、碓氷から霧積へゆくみちで、
谷底へ落としたあの麦わら帽子ですよ。

母さん、あれは好きな帽子でしたよ、
僕はあのときずいぶんくやしかった、
だけど、いきなり風が吹いてきたもんだから。

母さん、あのとき、向こうから若い薬売りが来ましたっけね、
紺の脚絆に手甲をした。
そして拾はうとして、ずいぶん骨折ってくれましたっけね。
けれど、とうとう駄目だった、
なにしろ深い谷で、それに草が
背たけぐらい伸びていたんですもの。

母さん、ほんとにあの帽子どうなったでせう?
そのとき傍らに咲いていた車百合の花は
もうとうに枯れちゃったでせうね、そして、
秋には、灰色の霧があの丘をこめ、
あの帽子の下で毎晩きりぎりすが啼いたかも知れませんよ。

母さん、そして、きっと今頃は、今夜あたりは、
あの谷間に、静かに雪がつもっているでせう、
昔、つやつや光った、あの伊太利麦の帽子と、
その裏に僕が書いた
Y.S という頭文字を
埋めるように、静かに、寂しく。

            …… 西条八十 …… 


西条八十は、北原白秋、野口雨情と並び称される童謡詩人としても知られている。日本のわらべうたを基調にした白秋、素朴な民謡の調子を生かした雨情に対して、八十の童謡が際立っているのは、これまでにない豊かなファンタジーであった。
 子どものための詩を作るにあたって、八十は「…ぼくは考えた。芸術品である以上、そこには作者の真の感動がこもっていなければならない。そうしてその詩の姿は子供にもわかり悦ばれるものでなければならない。ぼくは二重に裏うちされた絵を考えた。フランスの象徴詩の手法を想った」と、『赤い鳥』に書くことを鈴木三重吉から依頼された当時を回想している。
 『コドモノクニ』の第1作となった「ぼくの帽子」は、不思議な感慨を誘う、自由韻律の当時としてはまったく新しい詩であった。詩としては、今日でも古さを感じさせることがないが、やはり藤田圭雄がいうように、小学校入学前後の幼い子どもを対象にした絵雑誌『コドモノクニ』の作品としては「如何にも場ちがい」である。とはいえ、対象の子どもの年齢よりも、絵も詩も作者の表現への意欲を生かす姿勢が『コドモノクニ』の特性であったともいえる。そのために『コドモノクニ』の存在意義を高める作品も生れたのであろう。

*1922(大正11)年*
創刊第2号に掲載された「ぼくの帽子」以後、『コドモノクニ』には多くの童謡、少年詩を寄稿している。同年、雑誌『童話』の童謡欄を引受け、島田忠夫、金子みすゞらの活発な投稿があった。八十の童謡は、本居長世作曲による「お月さん」などがある。その他、イギリスのわらべ唄やデ・ラ・メア、スティーボンス、ファージョンなどの詩を翻訳紹介。「東京音頭」(中山晋平曲)など歌謡曲が広く知られるようになる。

『西條 八十(さいじょう やそ)』
(男性、1892年(明治25年)1月15日 - 1970年(昭和45年)8月12日)は、日本の詩人、仏文学者。
親戚に外交官石井菊次郎がいる。長男西條八束は陸水学者。長女三井ふたばこ(西條嫩子)は詩人。
漢字表記は旧字体の西條が正しいが、現在では常用漢字による西条も多く見られる。
*エピソード*
・ 名前は筆名ではなく、本名である。両親は、苦しいことがないようにと、「苦」に通じる「九」を抜いた「八」と「十」を用いて命名した。
・映画化やドラマ化もされ有名になった森村誠一の『人間の証明』の中で、『ぼくの帽子』(『コドモノクニ』)が引用された。

参考資料: *フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
     *国立国会図書館国際子ども図書館 絵本ギャラリー

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