TAZUKO多鶴子

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後藤新平の言葉から…

2011-07-26 | TAZUKO多鶴子からの伝言

 
  よく聞け、

  金を残して死ぬ者は下だ。

  仕事を残して死ぬ者は中だ。

  人を残して死ぬ者は上だ。

  よく覚えておけ


  …… 後藤 新平 ……



 TAZUKO多鶴子の伯母は子孫にお金を通して、
 染み通る人の心を…人を残してくれました。
 泣き言を何一つ言わなかった
 見事な『生き様』と『死に様』を残してくれました。
 この言葉をみて思い出しました。



<後藤 新平>
安政4年6月4日(1857年7月24日~昭和4年(1929年)4月13日)は明治・大正・昭和初期の医師・官僚・政治家である。
伯爵(明治39年(1906年)男爵、大正11年(1922年)子爵、昭和3年(1928年)伯爵)。位階勲等は正二位勲一等。台湾総督府民政長官。満鉄初代総裁。逓信大臣、内務大臣、外務大臣。東京市第7代市長、ボーイスカウト日本連盟初代総長。東京放送局(のちの日本放送協会)初代総裁。拓殖大学第3代学長。
計画の規模の大きさから「大風呂敷」とあだ名された、日本の植民地経営者であり、『都市計画家』である。台湾総督府民政長官、満鉄総裁を歴任し、日本の大陸進出を支え、鉄道院総裁として国内の鉄道を整備した。関東大震災後に内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の都市復興計画を立案した(都市計画の項も参照推奨)。


参考資料:ウィキペディア

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