TAZUKO多鶴子

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『弓道:阿波研造』…『見る』

2007-11-24 | TAZUKO多鶴子からの伝言
ドイツの哲学社、オイゲン・へリゲルに『日本の弓術』という名著がある。
大正13年、東北大学に招かれてギリシアおよびラテンの古典語を教え、
昭和4年に帰国したが、その間、ヘリゲルは弓聖と称えられた
阿波研造に師事して日本の弓術を学び、ついに東洋的な無の真髄に触れた。
阿波師範がヘリゲルに求めたのは、
的に当てることではなく、矢のほうが勝手に的に当たっていく、
そのような射であった。
この射を行うには、無にならなければならないと、阿波師範は教えた。
的を狙わずに当てる(当たっていく)という教えは、
西洋人のヘリゲルの理解を絶していた。
その目で見て狙わなければ当たらないという、
深く体に染み込んだものの考え方から解き放つために、
ある夜、
師範はヘリゲルを自宅の道場に呼んだ。
屋外の道場は暗い。
数十メートル先の的は、肉眼では見えない。
阿波師範は、その真っ暗な的の前に蚊取り線香を立てて戻り、
無言で矢を二本、射た。
一本は的の中央に、もう一本は、
その先の矢の筈に当たってそれをふたつに引き裂いた。

「この暗さでいったい狙うことができるものか、
 よく考えてごらんなさい。
 それでもまだあなたは、狙わずには当てられぬと言いはられるのか」。

 阿波のこの射を見て以来、
 ヘリゲルは疑うことも、問うことも、思い煩うこともやめた。
 そして『射る』のではなく『射られる』ことをつかんだ。
  
  阿波研造の言葉。
 「私は的が次第にぼやけて見えるほど目を閉じる。
  すると的は私の方へ近づいて来るように思われる。
  そうしてそれは私と一体になる。
  …的が私と一体になるならば、  
  それは私が仏陀と一体になることを意味する。
  そして私が仏陀と一体になれば、 
  矢は有と非有の不動の中心に、
  したがってまた的の中心に在ることになる。 
  …矢は中心から出て中心に入るのである。 
  それゆえあなたは的を狙わずに自分自身を狙いなさい。
  するとあなたはあなた自信と仏陀と的を同時に射当てます」
 だれが見るのか。何をみるのか。
 「あなたの代わりにだれが射るかが分かるようになったら、あなたはもう師匠が要らなくなる」 
 …阿波研造



上記文章は『禅の本』の抜粋である。
が、しかし、上記文章の内容全てが真実かどうか…ヘリゲル自信の誇大表現の可能性も否定は出来ない。
ただ…様々なことを調べてみても
阿波研造がただ者でない人物である事実が言い伝えられている。
『射は術ではない。
 的中は我が心を射抜き、
 仏陀に至る。』…(語録より)
上記は間違いなく阿波研造のことばとして残っている。
このことばからも感じるように
やはり何かが観えていた凄い人物であることは間違いないのではないかと…。
ただし
頭が全てであると考える方々の間では現在偏見と批判の声もある…
TAZUKO多鶴子は
それも何かを見落としているような批判の声のように…
理屈で無く何かが違う様に感じる…
それは
昨日ご紹介したブログの内容と何かが通じると…
色眼鏡でみない…自然と一体となった肌で
私は感じるからである。


参考資料:『禅の本』
      発行人:高木俊雄
      発行所:(株)学習研究社

      『古武道の本』
      発行人:小池徹郎
      発行所:(株)学習研究社

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