goo blog サービス終了のお知らせ 

ガンバレ、ニッポン

なんか、不安定なニッポンですね。

日本に謝罪求めるなら韓国もベトナムに謝るべき 高まる「ピエタ像」設置運動

2016-01-27 08:47:52 | 政治、経済
韓国人の残虐性は特異なものを

感じます。

日本で起こる在日の犯罪でも残酷な事件が多すぎる。

少年Aとか女子高生コンクリート事件とか。。。



ソースから


1950年6月25日の朝鮮戦争勃発を受けて、
残忍・冷酷な殺人鬼・李承晩は、韓国軍と韓国警察に、
共産主義からの転向者やその家族を再教育するための統制組織「国民保導連盟」
に登録されている者たちと収監中の政治犯たち合わせて100万人以上を大量虐殺した。
保導連盟事件である。

「朝鮮戦争前後民間人虐殺真相糾明と名誉回復のための汎国民委員会」の研究では
60万人~120万人が虐殺されたとしている。

李承晩が失脚した1960年の四月革命直後に、全国血虐殺者遺族会が、
遺族たちの申告をもとに報告書を作成した。
その報告書は虐殺された人数は114万人であったと述べている。




1948年4月、済州島で起こった島民の反政府蜂起を鎮圧するため、
残忍・冷酷な殺人鬼・李承晩は、韓国軍、韓国警察、右翼青年団に命じて
済州島島民の5人に1人にあたる6万人を虐殺した。

残忍・冷酷な殺人鬼・李承晩の命令で済州島の村々の70%が
焼き払われた。

英国のBBCは、この済州島事件のむごたらしい虐殺現場映像を放送して
残忍・冷酷な殺人鬼・李承晩を強く非難した。



1948年10月、済州島で起きた島民の反政府蜂起鎮圧のため
出動命令が下った全羅南道麗水郡駐屯の国防警備隊第14連隊の隊内で
南朝鮮労働党員が反乱を煽動した。この煽動に全隊員が応じて、
第14連隊全体の部隊ぐるみの反乱となった。これが麗水事件である。

李承晩は直ちに鎮圧部隊を投入した。1週間後に反乱は鎮圧された。

第14連隊の敗残兵、その後北部の山中へ逃げ込み、長く執拗にゲリラ
抵抗を行った。

残忍・冷酷な殺人鬼・李承晩は、麗水事件処理と称して、
反李承晩勢力の徹底的殲滅をおこなった。この徹底的殲滅は過酷を極めた。

反乱部隊兵士たちに加えて、「関係あり」との「でっちあげ」常習犯李承晩の
悪辣な人殺し常套手段で、非武装の民間人8,000人以上が殺害された。
身の危険を感じた、実に多くの者が、日本へ密航・国外逃亡した。


朝鮮戦争以前、韓国は農業国であった。人口の約7割が農業で生計を立てていた。
それが朝鮮戦争で約40万世帯が農地を失うという悲惨な状態に陥った。

その結果、韓国は歴史上最悪の飢餓に陥った。

日本の植民地支配時代にも凶作による飢餓はあったが、朝鮮戦争後の
権力亡者・李承晩政権時代ほど長い期間にわたって、しかも
広範囲にわたって飢餓に苦しめられたことはない。

それは権力亡者・李承晩政権の悪政を、韓国国民が実感することであり、
国際社会に対して、韓国は文明国ではなく、実は野卑な民族社会であることを
強く印象づけた厳然たる歴史事実であった。

日本の植民地支配時代の1940年の農業生産に較べて、1954年~
1959年の農業生産は、驚く無かれ、僅か30%にまでも落ち込んでいた。

1959年の穀物収穫高は、日本の植民地支配時代最後の年にあたる
1944年の穀物収穫高の半分に過ぎなかった。

李承晩政権時代、毎年、韓国の農産物の生産量は、韓国国民の
絶対必要量に遙かに及ばず、韓国国民の食生活は悲惨な状態に陥った。

1957年3月、李承晩政権自身の発表によると、
飢えに苦しんでいた貧農=絶糧農家の数は350万世帯に達していた。

貧農は、麦の収穫直前期ごろ、文字通り、食料皆無となり、飢えに苦しんでいた
ので絶糧農家と呼ばれていたのである。

慶南、慶北両道の多くの地方では、農家の総数の60%以上が飢餓線上を
さまよっていた。

1957年2月の『韓国日報』は、「絶糧農家のほとんどがトウモロコシや
モヤシのかゆで命をつないでいる。やがては草根木皮をかじるほかはあるまい。
ネズミなどをとって食べなければならない状況だ」と報じた。

さらに韓国経済の停滞は、文字通り、膨大な失業者・半失業者を生み出した。
韓国の失業者数は、1954年3月には132万人を超えていた。
1958年8月には413万人と3倍増、1960年3月には、実に、
600万人以上が完全失業、または、半失業状態で街をさまよっていた。

当時の韓国の総人口2,300万人の住民のうち、
失業者・半失業者が600万人以上であったという厳然たる歴史事実は、
当時の韓国社会そのものが重病人状態であったことを意味している。

職場を確保した「幸せな人たち」も、1日に10時間から17時間の労働に
耐えて、僅かに飢餓賃金を得るのみであった。

失業者・半失業者家庭の少年たちは、乞食同様になって、米軍基地の周辺で
屑拾いとなり米兵の銃弾で射殺される者もいた。貞淑を美徳として来た
誇り高き韓国の女性たちで、生活苦から、【パンパン】に転落した者も
少なくなかった。

1956年-1957年の首都ソウルの悲惨な姿

250万人の人口を擁した当時のソウルーの大部分を占めている庶民の
唯一の楽園は、すべてを忘れて深い眠りにおちいる僅かな時だけだった。
愛する妻子と雁首を並べて夢をみる僅かな一とき、その時だけが
彼ら庶民の楽園だった。

権力亡者・李承晩政権の悪政時代は、
精いっぱい働いても、口に糊することさえ難しい時代だった。

首都・ソウルには真昼の暗黒地帯がいくらでもあった。

【パンパン】をめぐって繰りひろげられる西部劇さながらの世紀末的場面。
スリ、かっぱらい、強盗、……。
1956年度は、これらの犯罪件数は合わせて10万件以上であった。

張勉副大統領暗殺未遂事件、金昌竜中将暗殺事件、国際密輸団事件、等々、
血の雨を降らせた凶悪犯罪が絶え間なく起きた。

「凶悪犯罪には、必ず、国会議員、警察官、高級官吏どもが黒幕として
幽霊のように不気味に浮び上ってくる」、「首都・ソウルは、猟官の輩、悪徳商人、
殺人陰謀家の巣窟に変わった。酒池肉林で蠢く黒幕幽霊が韓国を動かしている?」
(『Korea's Hope』1957年3月号)。


1951年2月5日~7日、慶南山清郡今西面及び咸陽郡柳林面の二かヵ所で、
婦女子を含む約800名の村民が、権力亡者・殺人鬼の李承晩の政権によって
集団虐殺された。
老若男女約800人すべてを、共産分子とみなして、一か所に集めて、
全員を機関銃で虐殺した後、さらにガソリンをかけて焼き殺したという
韓国4000年の歴史においてかってなかった極悪非道な集団大量虐殺であった。

次いで3日後の1951年2月10日、慶尚南道居昌郡神院里という山間で
全員の老若男女517人が、韓国軍に協力しない共産分子であると断定され、
学校の校庭に集められてみな殺しにされた。集団大量虐殺の手口は、今西柳林
事件と同様であった。




ソースから

民間人虐殺問題、黙過してはならない」
報道以後、市民からの寄付相次ぐ

 元歴史教師のハン氏(50)は2年前にベトナム中部地方に歴史踏査をして「ベトナム戦民間人虐殺慰霊祭」を見た。 慰霊祭の後には祭りもあり食事も一緒にするのかと思ったが、現地の人たちにはお金がなかった。 ハン氏は「当時参戦した韓国人にも慰霊祭を続ける責任があるのではないか。 韓国人である私も金を出すべきではないか」と考えた。 そして少しずつ貯めたお金が50万ウォンになった時、ハン氏は「韓国ベトナム平和財団建設推進委員会」(推進委)に進んで寄付した。

 ベトナム戦争で起きた民間人虐殺について参戦国である韓国も謝ろうという運動が、韓国人の間でも続いている。 特に昨年末の日本軍慰安婦被害者問題に関する「12・28合意」以後、戦争犯罪に対する日本の真の謝罪を要求するには、韓国もベトナム戦争当時に起きた民間人虐殺問題を黙過してはならないという声が一層力を得ている。 韓国とベトナム現地に「ベトナムピエタ」彫刻像を作って設置しようという推進委の活動も、ベトナム戦争に参戦した韓国の歴史的責任を反省しようという動きの一つだ。

 ベトナムピエタ像の製作には、2011年にソウル中学洞の駐韓日本大使館前に建てた「平和の少女像」の作家キム・ソギョン氏(51)とキム・ウンソン氏(52)が参加している。 ハン・ホング聖公会大教授とイム・オクサン画伯、ドキュメンタリー監督のイ・キルポラ氏など推進委員65人と発起人10人が参加して昨年9月に発足した推進委は、今年中に国内とベトナム現地にベトナムピエタ像を設置することを目標に市民募金を集めているが、16日のハンギョレ報道以後の10日間に700万ウォン(約67万円)の寄付が集まった。

 発起人として参加したイ・ドンウォンSBSディレクターは「過去の問題について韓国は被害者であり加害者だと思う。ピエタ彫刻像が韓国とベトナムの人々の間に真心を伝える役に立って欲しい」と伝えた。

キム・ミヒャン記者(お問い合わせ japan@hani.co.kr )


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。