戦後障害児教育史の資料整理を少しずつはじめている。「戦後」という時代を自分自身の歩みと共に振り返ることも多い。
そう思うとき、いつも思いおこすのは、はじめて重症心身障害児病棟へいって、ベッドにねかされていた水頭症の子どもと対面したときのことだ。シャント手術がなされていないのか、大きな頭を指でおし、顔をはじめてであう人の方向に向け、少しはにかむような表情をしていた。
はじめて出会った子どもと重なる子ども-水頭症で、重症心身障害の子どもが登場する推理小説に、打海文三『時には懺悔を』(1994年初版)がある。訪問教育をうけている「新くん」と育てている男の存在が、ページを追うごとに共感を持って主人公達に受けとめられていく。それにつれて、読み手の私たちの中にも子どもの発達的な共感がひろがっていく。在宅訪問教育を受けている場面では、「(新くんと男が住む)あの二軒長屋には、濃密な時間が、ゆったりと流れているように思われた」と締めくくられている。障害の重い子どものくらしと教育、そして希望が語られている。
重症心身障害児病棟を訪問した後、指導教官に「この子どもたちには教育というより医療が必要では…」と率直な感想をいった。その時、先生が、「そういう医療も含めた教育が必要なのです。わたくしたちはそのような教育を追求してきたのです」と、鋭く射抜くような目で、静かではあったが強くおっしゃられたことを今も忘れない。
これまでの障害児教育とともに歩んだ過程では、「反省」のみならず、「懺悔」という冷や汗ものの経験や思いも多い。しかし、そんな思いをこめて、戦後障害児教育の歴史の事実を、そこで試され、確認され、そして深められた「権利」ということばとともに、考えてみたい。課題は山積である。
(「たちあがる」)
そう思うとき、いつも思いおこすのは、はじめて重症心身障害児病棟へいって、ベッドにねかされていた水頭症の子どもと対面したときのことだ。シャント手術がなされていないのか、大きな頭を指でおし、顔をはじめてであう人の方向に向け、少しはにかむような表情をしていた。
はじめて出会った子どもと重なる子ども-水頭症で、重症心身障害の子どもが登場する推理小説に、打海文三『時には懺悔を』(1994年初版)がある。訪問教育をうけている「新くん」と育てている男の存在が、ページを追うごとに共感を持って主人公達に受けとめられていく。それにつれて、読み手の私たちの中にも子どもの発達的な共感がひろがっていく。在宅訪問教育を受けている場面では、「(新くんと男が住む)あの二軒長屋には、濃密な時間が、ゆったりと流れているように思われた」と締めくくられている。障害の重い子どものくらしと教育、そして希望が語られている。
重症心身障害児病棟を訪問した後、指導教官に「この子どもたちには教育というより医療が必要では…」と率直な感想をいった。その時、先生が、「そういう医療も含めた教育が必要なのです。わたくしたちはそのような教育を追求してきたのです」と、鋭く射抜くような目で、静かではあったが強くおっしゃられたことを今も忘れない。
これまでの障害児教育とともに歩んだ過程では、「反省」のみならず、「懺悔」という冷や汗ものの経験や思いも多い。しかし、そんな思いをこめて、戦後障害児教育の歴史の事実を、そこで試され、確認され、そして深められた「権利」ということばとともに、考えてみたい。課題は山積である。
(「たちあがる」)