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ちゃ~すが・タマ(冷や汗日記)

冷や汗かきかきの挨拶などを順次掲載

是枝裕和『雲は答えなかった 高級官僚その生と死』(PHP文庫)

2019年04月13日 19時15分07秒 | 

水俣関係の映像を社会学の先生にお借りして、デジタル化している関係で、是枝裕和『雲は答えなかった 高級官僚その生と死』を読んだ。この本は、『しかし・・・福祉切り捨ての時代に』というタイトルで、ドキュメンタリーで放映され(是枝のはじめてのディレクターの作品、1991年3月12日放映)、その後、1992年に単行本『しかし・・・ある福祉高級官僚 死への軌跡』として出版された。この本は、オーストラリアから帰って、買って読み、研究室に存在してきた。その後、2001年に『官僚はなぜ死を選んだのか 現実と理想の間で』と改題され、文庫版として出された。2014年、それを改めて『雲は答えなかった 高級官僚その生と死』として再度出版されることとなったものである。

理念や理想と現実:政治と行政とそして個人の思い・良心の間の齟齬や軋轢。「車輪の下」にあるものの苦しみと同時に、その下には民衆の苦しみがあり、それをどう車輪に伝えていくのかという個人と歴史があるということだろう。割り切れない・割り切らないということが、評価されない社会。あれかこれかを上からも、下からも突きつけられる。

水俣病という公害、病気や障害をおうた人間の苦しみを思いつつ、国家と独占資本が障害を発生・拡大させるメカニズムが動く社会をどう変えていくか、それは一筋縄ではいかない。批判したり、合理化したりというスタンスで自己を安全地帯においていくのが、自分も含めて大多数ではないかとおもう。

この主人公、山内豊徳の生と死はなにをものがたっているのか。是枝のその後の映画作品の出発点ともなっているのではないかとおもう。

 


小松左京『小松左京自伝―実存を求めて』日本経済出版社、2008年

2019年01月05日 09時28分46秒 | 

小松左京『小松左京自伝―実存を求めて』は、文庫本の青春期・万博ものと並行して読みはじめたが、ようやく読み終わった。

1931年生まれ、生きていれば今年で88歳の米寿。大阪生まれ、神戸育ちで、旧制三高を1年で新制の京都大学文学部に入学。この間、漫画を書いたり、文学雑誌をつくったり。学生運動の影響で就職がうまくいかず、いろいろあった。この本は作品のまとまりごとでの対談集。ただ、高橋和巳の回想のところは興味深い。子ども向けのものを語っているところで、おとぎ話の倫理性につい触れつつ、「面白い話で子どもを引きつけて、その結論で教訓があるっていうのが、ててもいいなとおもうんだね」と語っている。大阪的には、要するに「オチがある」ということと理解した。芸道小説の生まれる体験をかいたところ、歌舞伎の「信太妻」での短歌書きの場面が興味深い。

「安倍保名が罠にかかった狐を助けて、そお着杖が女に化けてお嫁に来て阿倍清明を産むんだね。ところが行者にばれて、いよいよダメだというときに、障子に「恋しくば たづねて来てみよ 和泉なる 信太の森の うらい葛の葉」って短歌を書いてみせるんだよ。そのときへえーっと思ったのは、最初、右手で「こひしくは」って書くんだ。すると赤ん坊がワァーッと泣く。そしたらぱっと左手に持ち替えて、よしよし言いながら「たつねきてみよ」、そして「いつみなる」を下から上に書いて、バサッと筆を落としちゃう。で、ケーンと鳴くと面をかぶって顔だけ狐になって、「したのもりの」と口で書くんだな。またケーンって声がすると、その女形が逆トンボを切って障子の向こうへ消えちゃわけ。すると裏から照明が当たって、狐の影が口で筆をくわえて裏文字で「うらみくすのは」って書く。これはすごい芸術だと思ってね・(後略)」257-258

この本の目次は次の通り

まえがき

第一部 人生を語る

「うかれな」少年/焼け跡から始まった/空想と文学と恋/小松左京の誕生/万博プロデューサー/日本沈没/不滅のSF魂

第二部 自作を語る

地には平和を/短編小説(1960年代前半) 日本アパッチ族/復活の日 果てしなき流れの果てに さよならジュピター/宇宙小説 継ぐのは誰か?/科学論SF 見知らぬ明日/歴史小説 短編小説(1960年代後半~70年代前半) 日本沈没 女シリーズ こちらニッポン・・・/首都消失/PF小説 評論・エッセイ 映像作品 短編小説(1970年代後半~80年代前半)

特別編 高橋和巳を語る

主要作品あらすじ

年譜


大澤聡編『教養主義のリハビリテーション』筑摩選書、2018年5月

2019年01月02日 09時37分53秒 | 

年をまたいで、大澤聡編『教養主義のリハビリテーション』をよんだ。編者は、近畿大学文芸学部で教鞭をとるメディア批評、現代思想史を専門とする、1978年生まれの若手。「教養」を主題にした対談は、鷲田清一、竹内洋、吉田俊哉とのもの。

鷲田との対談は、現代編:「現場的教養」の時代、竹内との対談は、歴史編:日本型教養主義の来歴、吉田とは、制度編:大学と新しい教養の3本で、教養の過去・現在・今後(大学という制度)の全体像の輪郭を紡ぎ出そうとする。対談なので、頭に入りにくいとことがあるが、時々おもしろい。

鷲田との対談の中で、『「待つ」ということ』等の中でいっていることを、大澤が引き合いに出して次のようにいう。

「近代産業社会で重視されたのは、「プロジェクト」であり、「プロフィット(利益)」であり、「プログレス(前進)」であり、「プロダクション(生産)」であって、いずれも「前に」「あらかじめ」という意味の接頭辞「プロ(pro-)」がついている。さきほどの年次計画もそうですが、未来のあるべきッ嬌態を前提にして、そこから逆算していまの行動が決定される。総じて近代社会は必死に前のめりの姿勢でがむしゃらにがんばってきた。近代の立身出世モードを下地に出発した教養主義もどこかこれと相即していたとおもう。人格形成という将来の目標があって、そこにたどり着くまでのプロセスが体系立っていた。けれど、もはや以前ほどの経済成長は見込めず、コミュニティのサイズも適正規模に修正しないとやっていけない時代。前傾姿勢で走りつづけるあり方に限界がきている。そのときどきの関係性のネットワークおなかで、「いま・ここ」をどう組み直すかを判断していかないといけない。ゴールが流動化した時代には、教養も別のモデルを用意しないと行けない。さらにそのとき「わくわく」がそこにあるといい。」

これにたいして、鷲田は「そう、たのしい、おもしろいうということは重要ですね」と応える。

竹内は、これまでの社会史、学歴貴族、教養主義などの歴史研究を基に語る。昨年、教養主義を体現した阿部次郎に関する著書を書いているが、それも読んでみたい。しかし、本が増えるものなあという気持ちもある。教養主義の最後のしっぽに位置する我々の本にたいする思いも揺らいでいる。

いろいろ考えるところもあった。本の読み方だとか、再読の意味とか、精読のすすめとか、しかし、ぼくたちの中にある前のめりの姿勢、「新しいもの」への飛びつき、そうやっているうちに中身が空洞化するという自身の反省もあった。しかし、対談集という形式は、わかりやすいようで、頭に残りにくい。話題と話についていく、そのテンポが合わないのかもしれない。


藤岡陽子『手のひらの音符』(新潮文庫)

2018年12月25日 12時55分51秒 | 

1年以上前のこと、あるところで、この本のことが話題に上がった。その後、同僚の先生が、この本よんでみたといっていたので、買っておいていた。いつもの調子で、風呂の中で読んでいたが遅々として進まず。ちょど、3連休に、風邪と1年間のつかれで伏せっていたので、布団の中で読んでいたら、とまらなくなった。

服飾デザイナーの水樹が、小・中・高等学校過去を回想する。同級生の家族のことと共に、いろいろなその後が描かれている。裏表紙には、次のような紹介が・・・

デザイナーの水樹は、自社が服飾業から撤退することを知らされる。45歳独身、何より愛してきた仕事なのに……。途方に暮れる水樹のもとに中高の同級生・憲吾から、恩師の入院を知らせる電話が。お見舞いへと帰省する最中、懐かしい記憶が甦る。幼馴染の三兄弟、とりわけ、思い合っていた信也のこと。〈あの頃〉が、水樹に新たな力を与えてくれる―

団地に住む水樹の家は貧しい、そして、高等学校時代の担任遠子が、背中を押してくれて服飾の道へ。おなじ団地に住む同級生信也の弟悠人には、てんかんと発達障害があり、いじめられている。それを守る兄弟。信也の兄の事故死。憲吾の母は心をわずらっており、憲吾はある意味、ヤングケアラーとして母をケアするなかで、信也との友情が芽生える。貧困、障害、ケアなどなどが交差し、物語が展開していく。場所は、京都の向日市、あそこかなとその場が浮かぶ。



鈴木耕『私説 集英社放浪記』河出書房新社、2018年10月

2018年12月16日 17時13分13秒 | 

鈴木耕『私説 集英社放浪記』:本屋にあったので、買って読んでみた。出版不況であるが、本の編集の側から、世界を見てみたいと思ったからだ。いまの、出版社のあり方に対して、批判的だからか・・・。とはいえ、集英社などと言う大手とはおつきあいがないし、弱小出版社しか知らない。売れないとしかたがないので、冒険的なものは考えないことになっているし、学術書なので出版しようと思えばお金がかかるのだ。しかし、本に対して、あるいは活字に対して、尊敬がない風潮がそうさせているのかもしれない。大学生は本は読まないようだし・・・ぼやいても仕方がないが。

著者は、戦後、1945年生まれ、早稲田大学卒業後、1970年、集英社に入社。アイドル誌「月刊明星」からはじまって、「月刊PLAYBOY」、「週刊プレーボーイ」、集英社文庫や「イミダス」の編集を経て、集英社新書の創刊に携わる。36年間の編集者生活。その中でも、原発、阪神大震災からオウム真理教事件、権力にあらがう社会批判の目を常に保持してきた。そして、退職後の東日本大震災、沖縄と・・・。「週刊プレイボーイ」には、社会批判の特集や記事が継続して掲載されていたことは、三井に入っていたが、そこにこの鈴木氏の存在もあったのであろう。ちょっと、集英社が好きになった。

同時に、1週間、1ヶ月、旬報もの、1年間といった時間的なスパンの各種の編集に携わっていて、その時間感覚の違いも興味深い。また、雑誌から文庫、新書など様々な形態の出版物の編集を手がけていることもおもしろい。そして、その人のつながりも・・・。退職後の、太田元沖縄知事、愛川欽也のことなどなど。時間と空間、そして人とのつながりを活字として、書物としてどのように結晶させているか考えてみた。

「沖縄スパイ戦史」の監督とも飲み友達とのこと。いま、風邪を引いているので、「沖縄フリーク」と自称している著者に触発されて、温かい沖縄で、ゆっきりしてみたい。著者と同じように、その暖かさを凍り付かせているいまの辺野古に象徴される沖縄の抱える問題、これは尊厳を傷つける政府のパワハラでもあるが、それらを沖縄の歴史とともに感じることになることを自覚しながら・・・。


小杉健治『父からの手紙』光文社文庫

2018年12月11日 10時34分44秒 | 

昨日、電車の往復の中で読んでいたら、とまらず家に帰っても読んでしまった。あいかわらず、咳が止まらない。

小杉健治『父からの手紙』もともとは、NHK出版から出されたもの。内容は以下のように紹介されている。

家族を捨て、阿久津伸吉は失踪した。しかし、残された子供、麻美子と伸吾の元には、誕生日ごとに父からの手紙が届いた。十年が経ち、結婚を控えた麻美子を不幸が襲う。婚約者が死体で発見され、弟が容疑者として逮捕されたのだ。姉弟の直面した危機に、隠された父の驚くべき真実が明かされてゆく。完璧なミステリー仕立ての中に、人と人との強い絆を描く感動作。


『終わった人』

2018年12月02日 09時47分49秒 | 

この本のよみはじめに、この本の冒頭を紹介したが、読み終わった。定年は、さだめられた年なのだが、しかしそこでは気持ちは「成仏」していない。これまでの過去の「栄光」、再度の就職探し、居場所探し、かっこよくみせようとする姿、もう一回というチャレンジ、家庭での位置、いろんな葛藤があり、受け入れていかざるを得ない現実・・・。

63歳から66歳までの男の姿と心情が描かれている。解説には、「品格ある衰退」という言葉があったが、そうなれるかはその人の教養と環境によるのかもしれない。


内舘牧子『終わった人』講談社文庫

2018年11月25日 22時31分29秒 | 

「定年って生前葬だな。・・・(中略)・・・六三歳、定年だ。」で始まるこの本を読み始めた。

いつもは、読んでから書くのだが、この出だしは、今の自分と重ね合わせてしまったので、読み始めのところで書いておく。今日は、奈良での障害者問題の研究会の五〇周年の記念の集いがあった。その研究会の結成から二〇年後、一九八八年、奈良の大学にきたのだが、その年度で「昭和から平成」へと変わった。そして、三〇年を経た今年、六三歳。六三歳の時に、平成から新元号にかわるということになる。

今日の集いには、なにか複雑な思いを感ぜざるを得ないものがあった。静かに、フェードアウトしていきたい。


小松左京『やぶれかぶれ青春期・大阪万博奮戦記』(新潮文庫、2018年)

2018年11月24日 22時51分37秒 | 

小松左京(1931-2011)は、大阪生れのSF作家。旧制神戸一中、旧制三高(とはいえ、1年のみ)、新制京都大学文学部卒(イタリア文学専攻)。


第一部が、やぶれかぶれ青春期。生まれれから、戦中の経験から、敗戦後の旧制三高の1年間、新制大学への入試の経験を書いている。この年代の人たちの希有な経験、戦前の教育制度から戦後教育の制度改革の中で漂う青春を生きたもの(「青春の終わり」p.200-203)。高橋和巳と同じ経験をするのだが、髙橋が中国文学専攻で、小松がイタリア文学専攻の違いが、その後のあゆみの違いにもつながる象徴のような気もする。一方で、邪宗門や悲の器、我が解体となり、一方で日本アパッチ族や日本沈没などなどのSF文学。髙橋との関係については、小松の自伝に出てくるのだが、この二人の関係は特別なもの。


第二部が、大阪万博奮闘記。梅棹忠夫や加藤秀俊(この本の解説をかいている)などと「万国博」の研究をはじめ、勝手連的に理念やら考え方などを共同研究を行い、京都大学の人文科学研究所の面々も巻き込んで、単なる見本市に脱せず万博の理念や基本原則を提起していく。そのことが結果的に万博のテーマやサブテーマ、そしてテーマ館、お祭り広場や太陽の塔、その内部の展示などに関与していくことになった経過が書かれて興味深い。


ちょうど、昨日の夜中、2025年の万博が大阪で開催されるということが、決選投票の結果決まったのだが、1970年の大阪万博の時の理念やテーマの形成、知や文化の交流への力点の置き方と比して今回の理念のなさ・薄さが気になるところである。大阪の知性や文化を切り捨てて、維新だといきがって浮かれている場合ではない、この大阪万博奮闘記に目を通してみるといい。
解説には、梅棹忠夫は「たいへんな悪党」で、「万博の跡地に国立民族学博物館をつくるという構想も、梅棹さんはかなり早い段階で思い描いていた節がある」とあった。2025年の大阪万博の跡地には、「大型カジノ」がみえすいている。この違い。文化と民度の違いは憂慮すべきものがあるといわなければならない。


久保寺健彦『青少年のための小説入門』集英社、2018年

2018年10月26日 22時15分00秒 | 

これはおもしろかった。さっそく、講義で紹介した。

帯には、つぎのように書かれている。

「小説は無力だって言ってたけど、そんなことないよね?」

いじめられっ子の中学生・一真は、万引きを強要された店でヤンキーの登と出会う。一真のピンチを救った登は「小説の朗読をしてくれ」と不思議な提案を持ちかけた。名作小説をともに読むうち、いつしか二人はほんの面白さに熱狂しはじめる―。

ディスレクシアの登、いじめられ、万引きを強要される真一、不登校のかすみ、介護が必要となってくるばあちゃんなどなどの登場人物、その人物像とこれまでの暮らしの過程を想像する。読む本の中に『アルジャーノンに花束を』もある。最後まで読んで、はじめにもどると思わず・・・。

朗読という行為について、映画『愛を読む人』『朗読者』)、そして書くということは映画『アイリスへの手紙』に思いは広がった。

講義でどのように使うかを考えてみたい。


鏑木蓮『エンドロール』ハヤカワ文庫

2018年10月22日 09時07分26秒 | 

鏑木蓮『エンドロール』を読んだ。もともとは、『知らない町』というタイトルで、東日本大震災の直前に出された本のようだ。後半部分の「廃村」を探す場面やその手助けをする文化財修復を学ぶ学生さんの情景が、東日本大震災後の東北の課題と関わってくるのは、偶然か。

発端は、「孤独死」から。その老人の人生の片付けに居合わせ、そのにあった、古い映画雑誌とノートと八ミリフィルムを手にする映画の製作をめざす主人公。遺品や本の整理、そしてフィルムのデジタル化に関わっているので、自分の仕事と重なってしまう。そのような興味で読み進められたが、戦争の時期の回転魚雷のような特攻作戦で死んだ戦友のこととなる。いまでいうと、九十歳を越える人たちの体験を核としていることとなる。そういう意味では、なかなか今の人たちが実感をもつって読み進めるのは難しいのかも知れない。

このような小説みたいな仕事をしている自分を実感した。そんなうまくはいかないのだが。


小杉健治『最期』集英社文庫、2018年

2018年09月11日 10時24分17秒 | 

しばらく遠ざかっていた推理小説。リーガルサスペンスのなかでも、社会的な視点とヒューマニズムを喚起してくれる小杉健治、本屋で見つけたのがこの『最期』の文庫本。

ホームレスとなり殺人の被告となり、一人の過去をすてようとした男に、弁護士と裁判員となった男がその男の過去にさかのぼる。そこには「四日市ぜんそく」(昭和30年代後半)の公害裁判とその裁判を動かした物語が隠されていた。

「四日市ぜんそく」と関連して、京都の宮津の与謝の海養護学校づくりの人たちも四日市の見学に行っている。火力発電所の計画もあったこともあり、障害児教育運動とも関わりがあったのだたおおもう。そんなことをふと思った。

弁護士の鶴見京介のシリーズがあるようだ。また、さかのぼって読んでみよう。


保坂正康『昭和の怪物 七つの謎』講談社現代新書、2018年

2018年09月11日 10時08分46秒 | 

福岡へ集中講義に行った。福岡教育大学は、山に沿ってのぼって建っている。まわりにはなにもない。構内に、伊能忠敬が歩いた道というプレートがあった。

喫茶店で仕事をしようと思ったが、なにもないので、保坂正康『昭和の怪物 七つの謎』(講談社現代新書、2018年)を読んだ。構成は以下の通り。

第一章 東條英機は何におびえていたのか

第二章 石原莞爾は東條暗殺計画を知っていたのか

第三章 石原莞爾の「世界最終戦論」とは何だったのか

第四章 犬養毅は襲撃の影を見抜いていたのか

第五章 渡辺和子は死ぬまで誰を赦さなかったのか

第六章 瀬島龍三は史実をどう改竄したのか

際七章 吉田茂はなぜ護憲にこだたったのか

戦中と戦後の多くの軍人・政治家の証言を聞き取ってきた保坂がうまくまとめている。石原莞爾については、1回だけ上海でその護衛をしたことがあるという村上さんの話をきいたところだったので興味深かった。


武田篤司『物語「京都学派」-知識人たちの友情と葛藤』(中公文庫)

2018年08月19日 10時54分21秒 | 

糸賀一雄没50周年。その源流をたどると木村素衛、そしていわゆる「京都学派」にいく。そんな関係で、「京都学派」について、よんでいる。武田篤司『物語「京都学派」』(中公文庫、もともとは、2001年に中公叢書として出されたもの)。これは、京都学派最後になくなった下村寅太郎の史料整理からできたもので、私信の引用などがあって興味深い。晩年の田辺元の生活、野上弥生子との関係など、人のつながりがよくわかる。

東大の井上哲次郎との関係で、自ら考えることを追求した西田・田辺たちの京都帝国大学の哲学科。その広がりの中で、いろいろな人たちの開かれた学びができあがっていく姿をとらえている。東大のケーベルの弟子、波多野精一の哲学史・宗教哲学では、糸賀が最後の卒業生となった人その晩年が「波多野精一「バラの情熱、白百合の清楚」」。糸賀が代用教員時代に慕った木村素衛は、「木村素衛の「玉砕」」として西田の亡くなった後の死を書いている。「数理哲学はいきな学問」(木村)「教育学はやぼな学問」(高坂)「いや、俗な学問さ」(木村)と・・・。俗のなかにずっぽりとつかりながら、教育学の構築を行おうとしたのだが。

同時に、哲学科をでてから教師になったものも「小学教師、唐木順三」のこともたどりたい。戦後は築地書房をつくった。それ以外は、『われらが風狂の師』のモデルとなった、「奇人「土井虎」の面目」も面白い。


大門正克『語る歴史、聞く歴史 オーラルヒストリーの現場から』(岩波新書、2017年)

2018年08月12日 22時14分25秒 | 

大門正克『語る歴史、聞く歴史 オーラルヒストリーの現場から』(岩波新書)を読んだ。

歴史を受け止め・受け継ぐ主体とは切り離して、傍観者的に、情報を横のものを縦にしたり、文字情報を入れ替えてみたする歴史研究や外国研究について違和感を持っていたところだったので、この本はとても響いた。いま、戦後史を生きた人の聞き取りをやっているので、重ねて、反省もするところも多くあった。

本書の目次は次のようになっている。

はじめにー「語る歴史、聞く歴史」から開ける世界

第1章 声の歴史をたどるー幕末維新の回顧録から柳田民俗学まで

第2章 戦後の時代と「聞く歴史」の深化ー戦争体験を中心にして

第3章 女性が女性の体験を聞くー森崎和江・山﨑朋子・古在ゆき子の仕事から

第4章 聞き取りという営みー私の農村調査から

第5章 聞き取りを歴史叙述にいかす

第6章 歴史の広がり/歴史学の可能性

あとがき

 

「沈黙」ということ、語られなかったことを、歴史に位置づけるという仕事を考える。