「グラス家(Glass family)」構成メンバー
父親:レス(Les Glass)
母親:ベシー(Bessie Glass)
長男:シーモア(Seymour Glass)
次男:バディ(Webb Gallagher "Buddy" Glass)
長女:ベアトリス(ブーブー)(Beatrice "Boo Boo" Glass Tannenbaum)
双子
三男:ウォルター(ウォルト)(Walter F. "Walt" Glass)
四男:ウェイカー(Waker Glass)
五男:ザッカリー・マーティン(ズーイ)(Zachary Martin "Zooey" Glass)
二女:フランシス(フラニー)(Frances "Franny" Glass)
「バナナフィッシュにうってつけの日(A Perfect Day for Bananafish)」(1948年初出)
『ナイン・ストーリーズ(Nine Stories)』(1953年)の冒頭を飾る作品で、いわゆる「グラス家」を扱った最初の作品である。「シーモア -序章- 」においてバディ・グラースは本作をシーモアの死から二ヵ月後に書いたと証言している(p.148)。ラストにおいてシーモア・グラスが突然自殺してしまい、この自殺を巡って「グラス家」の物語が書き継がれていくことになるのである。
「コネティカットのひょこひょこおじさん(Uncle Wiggily in Connecticut)」(1948年初出)
メアリ・ジェーン(Mary Jane)が大学時代のルームメイトであるエロイーズ・ウェングラ―(Eloise Wengler)を家を訪れる話。エロイーズの元カレがウォルト・グラスだったのだが、ウォルトは従軍の休憩中に日本製のストーブを梱包中に爆発して亡くなったことが語られている。タイトルはウォルトがエロイーズに語った以下の逸話である。
「あたしいつも、売店のすぐ外のバス停であの人のこと待ってたのよ。それであるときあの人が遅れてきて、バスはもういまにも出るところだった。二人で走って追いかけて、あたし転んで足首をひねっちゃったのよ。そしたら『気の毒なひねひね叔父さん(Poor Uncle Wiggily…)』ってあの人は言ったわ。あたしの足首(ankle)ってことよ。気の毒なひねひね叔父さん、そう言うのよ......。ああ、ほんとうにいいひとだった。」(『ナイン・ストーリーズ』「コネチカットのアンクル・ウィギリ―」柴田元幸訳 ヴィレッジブックス p.52)
「Poor Uncle Wiggily」を「気の毒なひねひね叔父さん」と訳している理由は「poor」は「気の毒な」、「uncle」は「叔父さん」で、「Wiggily」が「ひねひね」になるのだが、「うねうねした、くねくねさせる」という形容詞は「wiggly」で「wiggily」は誤字と見なされる。「アンクル・ウィギリ―」とはアメリカの作家であるハワード・R・ガリス(Howard Roger Garis)が創作した児童文学の高齢のウサギのキャラクターで、だから柴田は「ウィギリ―」と訳しているのであるが、ウィギリ―はリウマチを患っていて松葉づえ頼みという設定で、二人とも知っているからこそ成り立つギャグである。
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「小舟のほとりで(Down at the Dinghy)」(1949年初出)
メインストーリーは25歳のブーブー・タンネンバウム(Boo Boo Tannenbaum)の4歳の息子のライオネル(Lionel)の「家出」を巡るものである。もう二度と家出をしないと母親と約束していたにも関わらずライオネルが家出をした理由は、メイドのサンドラ(Sandra)が近隣住民のスネル夫人(Mrs. Snell)に父親のことを「薄汚いユダ公(big sloppy kike)」と言っていたことを聞いたことであるが、ライオネルは「kiki」のことを「糸がついてて空に上がるもの」つまり「凧(kite)」と勘違いしている。
「テディ(Teddy)」(1953年初出)
『ナイン・ストーリーズ』の最後の作品で、テディはグラス家と関係のない人物であるが、「バナナフィッシュにうってつけの日」と対照するようにテディはラストに死んでしまい、グラス家の物語を理解する上では必読と言える。
「フラニー(Franny)」(1955年初出)
20歳で大学生のフラニー・グラスと彼女のボーイフレンドのレーン・クーテルが久しぶりに再会してレストランで食事をしながら交わす会話が描写されている。
「ズーイ(Zooey)」(1957年初出)
前半が母親のベシー・グラスとシャワーを浴びてるズーイの、後半はフラニーとズーイの会話が描写されている。気になる文章を引用してみる。
「そこにはまたベッシ―・グラスの脚という、目を見張らせる事実があった。それはいかなる基準に照らしても、文句なしに見事なものだった(p.131)」と書かれた後、「ミセス・グラスは彼がその靴を履くのを見ていた。しかし紐を結ぶところまでは見届けず、そこを離れた。ゆっくりと、普段は見かけないある種の重々しさ持って彼女は動いた。というか、ほとんど足を引きずっている(a drag)ようだった。それはズーイの気持ちを乱した(p.171)」とベッシ―の足の変化を描写している。
「荘子は言った、『賢人めいた人が足をひきずってやってきたら(the sa-called sagely men come limping into sight)、気をつけなくてはならない』ってね(p.207)」
「家じゅうに幽霊の匂いがする。死んだ人間の幽霊ならまだしも、まだ半分生きている人間の幽霊にまで取り憑かれるのは、金輪際ごめんだ。なんでバディーはしっかり腹をくくれないんだ。彼は何に依らず、シーモアがやったすべてのことを後追いしている。あるいは後追いしようとしている。なんで自殺してそいつを完璧にしないんだ(p.151-p.152)」
「大工よ、屋根の梁を高く上げよ(Raise High the Roof Beam, Carpenters)」(1955年初出)
バディ・グラスが1955年現在の時点で、シーモアの1942年の結婚式当日の状況を描いている。途中でバディはシーモアの1941年末から1942年初めにかけて書かれた日記をランダムに引用している。
因みに作品タイトルはシーモアの日記にブーブーによって書かれた以下の文章から引用されている。
「大工よ、屋根の梁を高く上げよ。アレスさながらに、丈高き男の子にまさりて高き花婿きたる。先のパラダイス放送株式会社専属作家アーヴィング・サッフォより、愛を込めて。汝の麗しきミュリエルと何卒、何卒、何卒おしあわせに。これは命令である。予はこのブロックに住むなんぴとよりも上位にある者なり」(新潮文庫 p.89)
「シーモア -序章- (Seymour: An Introduction Stories)」(1959年初出)
40歳になったバディ・グラスが冒頭にカフカとキェルケゴールのエピグラフを置きながら、1948年、31歳の時妻とフロリダに旅行滞在中に自殺した、シーモアの天才性を、シーモアが1948年(?)の初めから彼が死ぬ前の3年間に書かれた184編の短詩などを挙げて証明しようと試みる。
しかしバディの文章はかなり混乱しており、途中で急性肝炎で二カ月半のブランクがあいていたりしている(p.191)。
「甲高く不愉快な声(わが読者の声ではない)。あなたは兄さんがどんな様子だったか話すと言ったじゃありませんか。なにもこんなつまらなぬ分析やべたべたしたことはききたくありませんよ。
だが、わたしはそうじゃない。こうしたべたべたしたことのひとつひとつが必要なのだ。たしかに分析をここまでやらないでもすむが、こうしたべたべたしたことのひとつひとつが必要なのである。もしもわたしがこの文章について筋を通したいと祈っているとすれば、それを実現してくれるのはこのべたべたしたものなのだ。」(p.221)
結局、本作においてバディが語っていることは自分が書いた小説に対するシーモアの短評の引用や、シーモアの背丈、微笑み、耳、目、鼻、手、服装やスポーツマンやゲーマーとしての彼の姿が描写されるだけで、肝心の自死の真相には至らないのである。
「ハプワース16、一九二四(Hapworth 16, 1924)」(1965年初出)
書いているのは46歳のバディ・グラスだが、バディはベシー・グラスが送ってきた、シーモア・グラスがサイモン・ハプワース・キャンプで7歳の時に両親宛てに書いた手紙をタイプするだけで、本作は手紙が終わると同時に終わってしまい、バディは二度と出て来ない。
内容は、前半が家族の称賛とキャンプ地にいるハッピー夫妻などの大人たちに対する意見で、後半は読みたい書籍や作家の名前の羅列と短評といった感じで、結局、シーモアに自殺に関する話は出て来ない。とても7歳が書いた手紙とは思えず、せめて思春期あたりの心情ではないのかと疑問が湧いてしまう。
かなり単純に要約してしまうならば「グラス家」の物語はアダムとイブの「リンゴ」か「バナナ」かの究極の選択を追求しているのである。ここでいう「バナナ」とは「熱帯・亜熱帯地方産バショウ科バショウ属の植物の総称」から「松尾芭蕉」を暗示しており、「リンゴ」の「知」に対する「無」を表しているのである。
個人的には「グラス家」の物語は書かれた年代順で読むならばその出来栄えは「ズーイ」を頂点としており、総括となるはずだった「ハプワース16、一九二四」は失敗と見なさざるを得ない。例えば、「ズーイ」における書籍の引用はズーイが年長の二人の兄が共有していた部屋に入って、そこにあった合板に書かれている書籍の引用で具体的に紹介されたりしているが、「ハプワース」においてはベシー・グラスが書留で送ってきたシーモア・グラスの手紙をバディ・グラスが引用しているのだが(つまりシーモアとバディが「一緒に書いている」ということが重要らしい)、手紙の後半で短評を添えた書籍の紹介がダラダラと続くだけで芸がなく、むしろ「知」に戻ってしまった印象もある。
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