MASQUERADE(マスカレード)

 こんな孤独なゲームをしている私たちは本当に幸せなの?

「Imitation Of Life」 R.E.M. 和訳

2017-03-26 21:50:38 | 洋楽歌詞和訳

R.E.M. - Imitation Of Life (Official Music Video)

 『村上ソングズ』(村上春樹・和田誠共著 中央公論新社 2007.12.10)の中で村上春樹がR.E.M.の「Imitation of Life」を和訳しているのを最近になって知った。まずは村上の和訳を引用してみたい。

「人生のイミテーション」

謎かけゲーム、小洒落たトリック
ウォーター・ヒヤシンス、詩人の物言い
みんな人生のイミテーション
凍った池の鯉と同じ
鉢の金魚と同じ
君の泣く声なんて聞きたくないね

サトウキビは甘くて美味く
それはシナモン、それはハリウッド
大丈夫、ほんとの君は誰にも見えないさ

君は最高のものを求めている
世界がこれまで見たことないようなものを
君はそれを手に入れ、身につけた
金曜日のファッション・ショーの
片隅でびくついている女の子みたいに
背伸びしているところを巧みに隠して

サトウキビは甘くて美味く
それはシナモン、それはハリウッド
大丈夫、ほんとの君は誰にも見えないさ

泣いている君の姿は誰にも見えない

サトウキビは甘くて美味く
それは凍てつく雨、それはほんとの君
大丈夫、泣いている君の姿は誰にも見えない

サトウキビも
レモネードも
ハリケーンも、僕は怖くないね
大丈夫、泣いている君の姿は誰にも見えない
かみなりだって
津波だって
雪崩だって、僕は怖くないね
大丈夫、泣いている君の姿は誰にも見えない

サトウキビは甘くて美味く
それがほんとの君、それが違う姿の君
大丈夫、泣いている君の姿は誰にも見えない

(リフレイン)

 この曲に関する村上の感想も全文引用してみる。

 R.E.M. は長いあいだ僕のいちばん愛好するロック・バンドだったし、今でもそうだ。僕がこのバンドを好きになった理由は、ひとことで言えば「腹持ちの良さ」だと思う。このバンドの作り出す音楽には常にしっかりとした「核(コア)」のようなものがあり、たとえ微妙にスタイルが変化していっても、そのコアが変質したり移動したりすることはない。その音楽はいつも背筋がしっかりとして、聴き終えると「何かしっかりしたものを食べたな」というような不思議な実感がある。強い力で握られたおむすびを食べたときのように。新しいCDが出るたびに買って、聴き続けているけれど、がっかりしたという記憶がほとんどない。
 彼らの音楽は、多くのインディ出身オルタナ系バンドの音楽がそうであるように、歌詞の内容がファジーというか、意味を正確には把握しがたいところがある。いくぶん難解で、いくぶん思わせぶりである。「歌詞なんて、適当に言葉をかさねて流れていればそれでいいじゃないか」という感覚的なところもある。はっきり言えば不親切な歌詞だ。こんな風に言い切ってしまっていいかどうかわからないけれど、アメリカ人のオーディエンスにだって、彼らが何を歌っているのかよく理解できていないのではあるまいか。リーダーのマイケル・スタイプも、おそらくは意図的に、自分たちの歌っている歌のリリックを明文化しないという突き放した態度を近年までずっと貫いてきた。だからこの人たちがいったいどういう内容の歌を歌っているのか、僕にも長いあいだよくわからなかった。
 これは、考えてみれば、歌詞の内容をより具体的に、より先鋭的にしていくラップ・ミュージックとは実に対照的なスタンスのように見える。言い換えれば、アメリカ中産階級の白人の若者には、このような抽象的な、比喩的な、示唆的な言語様式でしか自らの世界を語ることができないということなのだろうか。
 でもありがたいことに(というべきだろう)最近の彼らのCDには、やっと歌詞が掲載されるようになった。というわけで、僕の好きな「人生のイミテーション」の訳詞をここにお届けすることができたわけだ。僕がハワイに滞在していたときに、この曲がヒットしていて、車のラジオでよく聴いた。
 Thats sugarcane that tasted good
 Thats cinnamon thats hollywood
というリフの部分が好きで、いつもラジオに合わせて合唱していた。意味のよくわからないままに。そうか、こういう全体の意味だったんだ、と今ではわかったけど。(p20-25)

 「僕は怖くないね/大丈夫、泣いている君の姿は誰にも見えない」という部分のオリジナル歌詞は「I'm not afraid. C'mon c'mon no one can see me cry」だから「泣いている僕の姿は誰にも見えない」が正しいのであるが、このような些末な間違いはここではどうでもいい(その後、村上春樹翻訳ライブラリーとして2010年11月に再版されたのであるが、驚くべきことにここのフレーズの翻訳は直されていなかった。本人や編集者が気づかなくてもかなりの読者を抱えているはずなのに誰も村上に指摘しないのであろうか? おそらく村上春樹の作品を好むような読者はロックに興味が無いのであろう)。

 『村上ソングズ』の中でこの曲だけが2000年代のもので妙に浮いているように思う。村上は初期の頃からR.E.M.が好きだったようで、だから「Losing My Religion」でもよかったはずなのだが、何故「Imitation of Life」を選んだのか勘案するならば、村上が以下の文章を目にしたからではないのかと思う。

 「本書のタイトルに含まれている『ポップ・スキル』という耳慣れない言葉は、アメリカのロックバンド『R.E.M.』がニ〇〇一年にリリースしたアルバム『Reveal』から引用したものである。この言葉が登場するヒットチューン『Imitation Of Life』は、タイトル通り、日常のまがいもの性を指摘したとおぼしき楽曲である。ただし、彼らの歌の常として、きわめてアンビギュアスで難解な歌詞であるため、私の引用が正確である自信はない。何か特殊な意味のある慣用句であるならご教示願いたいが、ここでは単純に、解離がさまざまな表現領域で多用され、まさにポップ表現のための技術(スキル)として無意識的に導入されつつある状況一般を指して用いた。」(『解離のポップ・スキル』 斎藤環著 勁草書房 p.342 2004.1.15)

 斎藤が村上の熱心な読者であると同時に、村上も斎藤の熱心な読者のように思える理由は、斎藤とおぼしきキャラクターが村上の小説の中に登場するからで、斎藤が村上の「Imitation Of Life」の訳詞に満足しているのかどうか寡聞にして知らないが、村上も斎藤も意味を把握しきれていないように思う。確かに「意味(meaning)」を捉えることはなかなか難しいのであるが、歌詞を書く以上は何がしかの「意図(intention)」はあるのである。だからここでは敢えて大胆に意訳してみたい。

「Imitation of Life」 R.E.M. 日本語訳

「シャレード」というジェスチャーゲームは予期しないスキルを必要とする
ホテイアオイが詩人によって名付けられたように
人生とは模倣そのものなのだ

凍った池にいる鯉のように
金魚鉢の中の金魚のように
僕は君の泣き声を聞きたくはない

美味しかったサトウキビもあるし
シナモンにしろハリウッドにしろ
誰も試してみようとする君の姿なんか見ることはできないのだから
恥ずかしがらずにやってみろよ

君は最高のものを求めている
この上なく最高のものを(=the greatest thing since bread came sliced)
君は全てを手に入れるとそれを整理した
金曜日のファッションショーのように
片隅で凍えているティーンエイジャーのように
君は試みていないように見えるように試みている

美味しかったサトウキビもあるし
シナモンにしろハリウッドにしろ
誰も試してみようとする君の姿なんか見ることはできないのだから
恥ずかしがらずにやってみろよ

泣いている君を誰も見ることはできないんだ

美味しかったサトウキビもあるし
凍り混じりの雨
あれは君ができたはずのもの
泣いている君を誰も見ることはできないのだから
失敗を恐れずにやってみろよ

このサトウキビ
このレモネード
このハリケーン
僕は恐れてはいない
泣いている僕を誰も見ることはできないのだから
失敗を恐れずにやってみるよ
この稲妻を伴った嵐
この大津波
この雪崩
僕は恐れてはいない
泣いている僕を誰も見ることはできないのだから
失敗を恐れずにやってみるよ

美味しかったサトウキビもあるし
あれが本来の君で
あれは君ができたはずのもの
泣いている君を誰も見ることはできないのだから
失敗を恐れずにやってみろよ

美味しかったサトウキビもあるし
あれが本来の君で
あれは君ができたはずのもの
泣いている君を誰も見ることはできないのだから
失敗を恐れずにやってみろよ

 MVの中でヴォーカルのマイケル・スタイプが実践しているジェスチャーゲームというのは不思議なゲームで、回答者が出題者と同じような動きができることで成り立つもので、他のゲームとは異なり自分が出来ると想像もしていなかった「予期しないスキル(pop skill)」という特殊な技術を必要とするから、既に人類の歴史の中で示されていないものがないほど私たちの人生は、そのものがまるで「イミテーション・ゲーム」だという趣旨と捉える。
 例えば、サトウキビを最初に口にした人がいて、その人が美味しいと思ったから人間はサトウキビを食すようになり、それはシナモンも同様である。またはハリウッドで大成功した人がいるから、野心を持つ若者たちがハリウッドを目指すのであり、その時、記憶に残るものはサトウキビやシナモンやハリウッドであって試した本人ではないし、失敗して不味いものを口にしたなら「詩人」に名前を与えられることなく誰も気にとめたりしないのである。あるいは自然災害に遭遇しても、泣いているということは生きている証拠であり、生存者は生存している限り誰もが復興を遂げているのだから失敗を恐れるなという人生賛歌なのである。


この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『誰のせいでもない』 | トップ | 『アサシンクリード』 »
最新の画像もっと見る

洋楽歌詞和訳」カテゴリの最新記事