MASQUERADE(マスカレード)

 こんな孤独なゲームをしている私たちは本当に幸せなの?

『機動戦士ガンダム』 100点

2007-03-27 14:07:37 | goo映画レビュー

機動戦士ガンダム

1981年/日本

ネタバレ

ガンダム 迷宮の孤独

総合★★★★★ 100

ストーリー ☆☆☆☆☆0点

キャスト ☆☆☆☆☆0点

演出 ☆☆☆☆☆0点

ビジュアル ☆☆☆☆☆0点

音楽 ☆☆☆☆☆0点

 2005年12月『男たちの大和 YAMATO』が公開され、興業収益も順調に上げた。日本人の、特に男性にとって戦艦大和は世紀が変わってもいまだにノスタルジーの対象たりえている。団塊より上の世代には、1945年4月7日に、300機以上のアメリカ軍戦闘機で沖縄近海で撃沈された世界最大級の悲劇の不沈戦艦として、そして私たちの世代には1974年10月6日からテレビ放映が始まった『宇宙戦艦ヤマト』としてである。いずれの世代にとっても、「あの時アメリカ軍に沈められていなければ大和(ヤマト)は一隻で日本を救ってくれたのではないか」という‘神話’が大和(ヤマト)の人気を支え続けているように思われる。
 『宇宙戦艦ヤマト』映画版は1977年から1983年まで5作品制作されている。その主なストーリーは西暦2199年、ガミラス星の遊星爆弾の攻撃を地球は受け続けており、放射能除去装置コスモクリーナーDを得るためにイスカンダル星にヤマトが向かうというものである。その特徴は主人公古代進を中心としたヤマトの乗組員とガミラス星の独裁者デスラー総統という善悪のはっきりした対立である。古代進は戦闘終結後に戦うことの不毛さを反省はしても、戦っているときに彼が抱く愛や正義には一分の揺らぎもなく、仲間が殺されれば仇を取るという正当性のもとに敵と戦う。そのマッチョさ(男っぽさ)はヤマトの先頭から発射される、射精的な波動砲にも現れている。
 しかしこの愛や正義に疑問を呈したのが80年代に現れた『機動戦士ガンダム』だった。主なストーリーは、宇宙世紀0079、人口が増え過ぎた人類はスペース・コロニー(宇宙都市)を地球の周りに数百基作り生活していたが、その内の地球から最も遠いサイド3と呼ばれるスペース・コロニーがジオン公国と名乗り、地球連邦政府に独立戦争を仕掛けてきた。科学の進歩により宇宙空間の接近戦用に開発された人型の兵器をモビルスーツ(機動的の衣服)と呼ぶ。既にジオン公国は‘ザク’と呼ばれるモビルスーツを所有していたが、地球連邦軍もようやく主人公アムロ・レイの父親がその開発に成功し、そのうちの一機がアムロ・レイが偶然操縦室に乗り込んだガンダムなのであり、ストーリーはこのアムロ・レイのガンダムと、ジオン公国の‘赤い彗星’と恐れられるシャア・アズナブル少佐のエルメスやジオングの対戦を軸に『機動戦士ガンダム』、『機動戦士ガンダム 哀・戦士編』、『機動戦士ガンダム めぐりあい宇宙編』と進められ、宇宙世紀0080、地球連邦政府とジオン共和国(公王の死で共和国となる)の間に終戦協定が結ばれることになる。
 『宇宙戦艦ヤマト』と『機動戦士ガンダム』の違いは次の通りである。『ヤマト』の敵はガミラス星人という異星人であるが、『ガンダム』は内戦である。『ヤマト』の主人公古代進は軍事訓練生から軍人になり、ヤマトの乗組員も全員軍人である。他方『ガンダム』のアムロ・レイは父親が軍事技術者ではあってもまだ単に科学の好きな16歳の子供である上に、『ガンダム』では既に総人口の半数が戦死しており、軍は事実上機能不能に陥っており、アムロ・レイのような年端もいかぬ子供たちが戦っている状態である。そのうえヤマトが地球を救う使命を帯びて戦っていたのに対して、ホワイト・ベース(ガンダムが所属する航空戦艦)はただ自分たちの生き残りのためだけで精一杯なのだ。登場人物の男女比も違う。『ヤマト』は森雪が主だが、『ガンダム』ではセイラ・マス、クェス・パラヤやアムロ・レイの母親カマリア・レイも登場する。森雪は古代進に忠実だが、『ガンダム』の女性たちはアムロ・レイに容赦しない。自分の言いたいことを言い、殴ることもある。同僚からは戦士になった以上戦えと言われ、母親からは戦士になり人を殺したことを非難される。それ故、困難に直面しながらも最後に必ず勝利する古代進の爽快感に比べ、アムロ・レイは終始不機嫌にならざるを得ない。彼は仲間の死に一々大きなショックを受ける。そして敵同士であるにも関わらず、戦闘中ララァ・スンとアムロ・レイとの間にはニュータイプ(超能力を持つ者)同士での心の繋がり(共振)があったが、ララァ・スンはアムロ・レイとシャア・アズナブルの戦闘に巻き込まれ絶命してしまう。アムロ・レイは、古代進のように仇を討とうと思うよりも愛や正義、敵味方の線引き、戦うこと自体に疑問を感じてしまうのだ、
 『ガンダム 哀・戦士編』で、アムロ・レイが自身の非力でもってマチルダ中尉を戦死させてしまったというお詫びにたいして彼女の婚約者ウッディ大尉は次のように言う。「うぬぼれるんじゃない! ガンダム一機の働きでマチルダが助けられたり、戦争が勝てる、などというほど甘いものではないのだぞ!」この発言は明らかに、戦艦ヤマト一機で地球を助けるという‘神話’の否定ではないだろうか。それに加えて『ヤマト』は好きでも『ガンダム』のアムロ・レイはぐずぐずしていて全然面白くないとしてヤマトとともにアニメを卒業してしまう者も少なくない。しかし事実マッチョな『ヤマト』ではあっても結局、命を投げ出して地球を救ってくれるのは異星人のスターシャ、サーシャ、テレサと全員女性(弱者)なのだから、そのことに気がつかない古代進は繊細さに欠けてはいる。それに対して『ガンダム』はその繊細さを超能力(テレパシー)という神秘性で表し、対立を解決しようとしているが、実際にはニュータイプの‘逆襲のシャア’でさえ愛憎の問題は手に余ってしまっている。
 1995年10月4日『新世紀エヴァンゲリオン』のテレビ放映が始まり、その後2作の映画が公開された。問題解決の可能性を期待しながら我々がそこに見たものは、ガンダムを超えるヒト型決戦人造人間エヴァンゲリオンの勇姿と、それとは対照的に、それに搭乗させられる、2人の友人を失い、敵を倒すくらいなら自分が死んだほうがましだと思いつめる14歳の主人公、碇シンジの自信喪失の哀れな姿だった。彼の‘ぐずぐず感’もまたアムロ・レイをはるかに超えていた。嘆息。『ヤマト』や『ガンダム』が仮想現実なのに対して、『エヴァンゲリオン』で描かれる光景は碇シンジの心象風景であるため、私たちは共感と、それと同程度の嫌悪感を持って‘現実’そのものに直面させられる。よって必然的に『エヴァンゲリオン』はアニメーションをも‘超えて’、大量の字幕や実写が紛れ込んでくるのだ。
 1982年、『E.T.』で異星人との‘共振’をファンタジーに描いたスティーヴン・スピルバーグ監督は、2005年、『宇宙戦争』を制作した。敵が倒れることで家庭内の問題まで解決できるというまさに‘ファンタジー’だった。そして日本はアメリカに追随するようにローマ字の『YAMATO』を作った。しかしここまで見てきた私たちには今さら‘ヤマトに乗る’意義は見出しようがない。
 2005年『機動戦士Zガンダム』が公開された。ガンダムは生き残った。今後もガンダムは‘答え’を探し続けるのだろう、ラビリンスの中で...永遠に...


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