アイ・アム・レジェンド
2007年/アメリカ
「アイ」とは誰?
総合 10点
ストーリー 0点
キャスト 0点
演出 0点
ビジュアル 0点
音楽 0点
『アイ・アム・レジェンド(=私は伝説)』という挑発的なタイトルに乗せられて初日に観に行った。この映画で唯一の見所を強いて挙げるとするならば、主人公以外誰もいない荒廃したニューヨークの場景くらいだが、それを観るためだけに1800円払うニューマニア(=ニューヨーク・マニア)が日本に大勢いるとは思えない。
脚本が根本的にダメだと思う。主人公のロバート・ネビルが人体実験用にダーク・シーカーズを生け捕りにした同じような方法でダーク・シーカーズはネビルに罠を仕掛けられるということはダーク・シーカーズはかなりの知性を持っているはずなのだが、彼らは何故その知性を用いて紫外線対策をしないのかが不思議である。
飼い犬を殺されたネビルがダーク・シーカーズと真夜中に対決して、殺されかけたネビルを女性が助けるのだが、女性と子供だけであの場面から大男をどのようにして助けられるのか、どのように彼の家まで運んで彼の足のケガの縫合まで出来るのか想像がつかない。あの場面では間違いなく3人とも殺されていなければならない。
2人が‘生存者’が集まる集落へ行くとネビルに言った時、彼は激怒してそんな集落はないと言うのだが、これはネビルが正しい。3年経ってようやく彼の前に女性と子供が現れたのだから、その前に何故生きているのであるのならば男たちが何らかの手段を講じてネビルに連絡を取らないのかが観客にも理解できない。
しかしネビルが「この世に神はいない」と言った時、私はこの作品は「神は死んだ」と喝破したニーチェの思想を映像化したのだと思い、思わず身を乗り出して観たのだが、結局ラストで教会が出てきてがっかりした。神がいてもいなくてもかまわないのだが、筋がブレてしまうと物語の力を殺いでしまうことは間違いない。
結局「アイ・アム・レジェンド」の「アイ」とは誰を指しているのだろうか? ネビルだとするのならば彼は死んでしまったのだから「アイ」ではなく「ヒー・イズ」となるはずである。となると「アイ」というのは観客には全く見えないが人類に試練をもたらして救済も出来る「神」以外に考えられない。もし本当に「アイ」が「神」であるのならば、ここに書かれた辻褄の合わなさは神の力でなされたものだという言い訳も出来るのだが、私は認めない。
とにかくハリウッドの大作としては珍しく脚本が酷い。
和解案、重く受け止める=「1日も早い解決に努力」-薬害C型肝炎訴訟で福田首相 (時事通信) - goo ニュース
しかし福田首相は年金の問題にしても同じことが言えるのだが、言動がのらり
くらりしていてやる気があるのかと疑わざるを得ない。「関係省庁とよく協議して、
最終的な判断をする」と述べたそうだが、十分に関係省庁が話し合った結果の末
あのような和解骨子案を大阪高裁は示したはずである。つまり提示された案以上
の譲歩はしないというのが国の立場なのだから後は首相が政治決断をする以外に
ないのである。年金の問題もこの薬害問題にしても国はグダグダと問題解決を
先延ばしにして彼らの死を待ち望んでいるように見えることが恐ろしい。