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武谷敏子の自分史ノート

埼玉県比企郡嵐山町女性史アーカイブ

一人ひとりの生きがいを求めて 社会教育課長・小沢勝 1990年

2010-07-13 00:30:14 | 『しらうめ』11号(1990)

 菅谷婦人会で発刊される『白梅』を毎年拝読させていただいております。地道な婦人会活動と、その成果を自分達の手によってまとめられてますことを、社会教育を担当する一員として嬉しく、又深く敬意を表したいと存じます。
 私の若い時、十年一昔とよくいいました。また最近は一年一昔という人をよく耳にします。
 それは、国際的な情報化時代によって、世界の様子が、茶の間で手の取る様に知る事ができる様になったからでしょうか。
 「物の豊かさから心の豊かさへ」「新しい風、生涯学習」の時代と社会教育の考え方も変わってきています。町民の皆様からの多様な学習要求のある事もつよく感じております。
 これからは、角度を変え、町民の皆様の側に立って、生涯学習を推進していきたいと考えます。
 昨日の二十二日、郷土にゆかりのある「鎌倉武士の鑑」畠山重忠公の慰霊祭が菅谷館跡で執り行われました。午後には、国立婦人教育会館において、十三回目の歴史講演会を開催いたしました。
 『木曾義仲と巴御前』と題して、詩人、歴史作家の松本利昭先生を招いて終始熱の入った講演会でした。
 義仲(幼名を駒王丸)は鎌形の地で生まれ、二歳のときに、木曾の中原兼遠のところで育てられました。第四代目の将軍として、朝日将軍を賜りました。
 しかし京都では、無暴不礼を働き、木曾の山猿と非難され、法皇や鎌倉の頼朝らによって、近江の粟津ヶ原で最期をとげました。
 あれから八百年の間、義仲公は重忠公とは対象的な人間像として印象づけられてきました。
 松本利昭先生は「巴御前三巻」を執筆する中で、各地歴史的踏査と文献の中から木曾義仲になりきって考えてみると、
 武勇に優れた武将ということだけでなく、教養、礼儀をわきまえた武人であったと確信を持てたとの事です。
 必ずや、木曾義仲の復権を果たしたい、この事を強調しておりました。
 講演の後、一枚の色紙に「なりきって考えよう」と書いて私に渡して下さいました。私には、その意味は正確にはわからないが、やがて来る二十一世紀に向けて、このことばを心して、仕事に生かせるよう課員と共に努力したいと存じます。
 今後共、婦人会を通じ、又社会教育全般にわたって御指導と御協力をお願いいたします。

   菅谷婦人会『しらうめ』第11号 1990年4月


信頼 嵐山町教育委員会教育長・飯島留一 1990年

2010-07-12 23:50:00 | 『しらうめ』11号(1990)

 窓外に見える緑がひときわ美しい季節になって参りました。とりわけ雨に洗われた緑の葉は陽光にまぶしく映えます。
 それと同時に、待ちに待っていたスポーツシーズンの幕開けです。プロ野球のファンであるわたしは、テレビを観ながら一喜一憂します。
 それにしても不思議なのは巨人軍の強さです。昨年は日本一に輝きました。しかも、三連敗のあとの四連勝です。勿論、運やつきもあったのでしょうが、それだけでは、あれだけの劣勢をはねかえすことは到底できないことのように思います。その強靭なねばりは、監督と選手の信頼の絆であったように思われてなりません。
 野球解説者の佐々木信也さんは藤田監督と王監督の違いをこのように言っています。
 「藤田は選手を信頼し、王は選手を信頼しなかった、それだけの差です。これはちょっとキツイ言い方です。もう少し正確にいうと藤田は選手を一〇〇%信頼し、王は六〇%ぐらい信頼したということです。」
 では、監督が選手を信頼するというのはどういうことでしょうか。それは試合中に選手を替えないということだと思います。四月十六日だったと思いますが、広島との三回戦で巨人軍の大森、ブラウンが、広島の長富の前に全く手が出ず、二、三振を喫していました。それを次のチャンスに藤田監督は選手交替をせずにそのまま打席に立たせました。二人は見事にその期待に応え、適時打を放ち、更に最終回ブラウンは逆転のホームランを打ち、巨人軍を勝利に導きました。まさに選手への信頼が生む勝利だったように思われます。
 しかし、そこまで選手が信頼できるのは、ふだんの選手を見る目が確かでなければならないと思います。
 選手一人一人の特性や力量、それを見抜く力がなければなりません。なみなみならぬ努力が必要なわけです。そういった努力の積み重ねが確かな目をつくるものと考えます。
 教育の場も同じだと考えます。子供を見る確かな目があって、はじめて信頼され、保護者の期待に応えられるものだと思います。
 わたしたちも、ふだんの努力を怠らず、常に研さんを積み、子供を見る確かな目を養い信頼に応え得るようにしたいものです。

   菅谷婦人会『しらうめ』第11号 1990年4月


“木曾義仲ゆかりの会”のこと 嵐山町長・関根昭二 1990年

2010-07-11 23:31:16 | 『しらうめ』11号(1990)

 『全国木曾義仲ゆかりの会』が昨年、長野県日義村で発会いたしました。この会には嵐山町の他、広島県向島(むかいしま)町、長野県日義(ひよし)村、同じく鬼無里(きなさ)村の四町村が加盟しております。
 ご承知のように木曾義仲は嵐山町に生まれました。幼名を駒王丸と云い、父は源義賢、母は小枝御前と云われております。久寿元年(一一五四年)に生まれたのですが、何月生まれなのか、嵐山町のどこで生まれたのかもはっきりしておりません。ですが、鎌形の八幡神社に「木曾義仲産湯の清水」と呼ばれている湧水がありますし、木曾殿屋敷と伝えられる場所もありますので、鎌形の地に生まれたのではないでしょうか。
 源義賢は今の大蔵神社のある場所に大蔵館を構えて住んでおりました。一方かねてから武蔵の国に勢力を拡大しようとしていた兄義朝は、久寿二年(一一五五年)長子悪源太義平に命じて、突如この大蔵館を急襲したのであります。この戦いによって義賢は討ち死にいたしましたが、運よくこの場に居合わせなかった駒王丸と小枝御前は共に難を免れることができたのであります。しかし義平はこの母と子を探し出して殺すよう畠山重能に命じて引きあげましたので、重能が探しましたところ二人を発見いたしました。重能はこの親子をみて殺すにしのびず、どこかへ逃がしてやりたいと考え、長井の荘に居る斉藤別当実盛に頼みまして、実盛によって木曾の中原兼遠の地に落ちのびることができたのであります。
 駒王丸はこの地で成長し、元服して木曾次郎義仲と名のり、やがて平家追討のため立ち上がるのであります。従って義仲は日義村に居た期間が最も長く約二十五年居たことになります。
 鬼無里村はキナサと読みます。義仲が越後に兵を進めたとき、騎馬を休めたと云われる木曾殿アブキがあり、アブキはアイヌ語で洞窟を意味するそうですが、岩が河に乗り出している場所があります。また土倉文殊堂というのがあり、義仲の子、力寿丸が義仲の供養をしたお堂として知られております。ここには朝日神社があり、義仲を祀っております。
 向島町は平家を追討するため今日へ攻め上って征夷大将軍になりますが、頼朝の命を受けて義仲征伐に攻めてきた義経、範頼の軍勢のために、大津の粟津ヶ原で討たれてしまいます、その家来でありました太夫坊覚が、義仲の三男義重を奉じて三十六人の家臣とともに落ち延びたのがこの地であります。ここには覚明を祀った覚明神社などがあります。今の町長さんは、この家臣のうちの子孫だということであります。
 これら三町村にはそれぞれ由緒のある太鼓があります。日義村には巴太鼓、鬼無里村には鬼女紅葉太鼓、向島町には覚明太鼓があります。わが嵐山町ではこれに刺激されまして新たに駒王太鼓を創作することにいたしまして、目下猛練習中であります。
 『全国木曾義仲ゆかりの会』は総会を今年鬼無里村で行いました。来年は嵐山町が行うことに決まっております。その折には多くの方々の協力を戴いて、遠来の客をおもてなしいたしたいと思っております。駒王太鼓もその時までには何としてでも発表できるようにいたしたいと思っております。
 この事業を通じて嵐山町の活性化が図られれば幸いであると思います。

   菅谷婦人会『しらうめ』第11号 1990年4月


思いつくままに 中村きみ 1990年

2010-07-10 23:28:00 | 『しらうめ』11号(1990)

  忙中閑あり
 柔かい陽ざしと共に三寒四温の候となりました。数々ある婦人会活動も滞りなく進んで参りました。役員の方々を始め会員の皆様方の御理解ある御協力に対しまして心より御礼を申し上げます。毎日を多忙に過ごしておりますと一年が束の間にすぎ去り早や今年も白梅作成、役員改選、総会資料作りと、大変忙しい時となりました。そんなある日、淡谷のり子ファンの方から、のり子ショウを観に行かないかと誘われました。場所は銀座のヤマハホールで会場は割合に年輩の方が多く超満員でした。華やかなドレスに衣装替えしながらの淡谷のり子さんは、テレビで観るのとは又違いその艶やかさに魅了されてしまいました。共演の高英夫さんも七十才代とは思えぬ程の若さで「姉様」と呼びながらの会話も楽しく、腰の痛い淡谷のり子さんを抱きかかえる様にしての舞台でした。最後に唄った、高英夫さんの歌が心に残っております。“砂浜の砂に砂にはらばいて 初恋のいたみ 遠く遠く 想い出づる”石川啄木作のこの歌詩を三回くり返し唄ったのですが、優しい歌声は水を打った様な会場に、甘く切なく、静かに静かに流れるのでした。すっかり魅了され、心を洗われ、涙の出る様な感動を覚えるのも久し振りのことでした。七十才代、八十才代にして尚、人々に感動を与え夢と希望を与える御両人に、何時までもつきない心からの拍手が続きました。

  高令化と医療費
 今、日本は世界一の長寿国となりましたが成人病や寝たきり老人、痴呆症老人等が多くなっております。そのために年々増加する国民医療費が平成二年度には二〇兆円に達するだろうとの事です。国家予算が六〇兆円余りですから三分の一は医療費として使われる訳です。このまま年々医療費が嵩みますと、保険制度が破滅してしまう心配もあります。高令化社会をいかに健康で楽しく生きるかは私達一人一人の重要な課題です。健康で暮らす事は自らのためでもあり社会にも大きな貢献をしている事にもなります。有名人や身の廻りの高令者を見るにつけ人生如何に生きるべきかをしみじみと考えてしまいます。

  政治と社会
 八十一才になる私の母はテレビの「水戸黄門」や「大岡越前」等を好み欠かさず観ております。今年のNHKの大河ドラマは「翔ぶが如く」であり昨年は「春日の局」でした。この種のドラマは大半の方に人気があり視聴率も高いようです。こうした時代物は德川時代の物語を土台とした内容が多く、善、悪、何れにせよ見応えがあり楽しませてくれます。さすが三〇〇年もの歴史をもつ德川幕府であると、その偉大さに感銘する次第です。
 この時代に作られ守られて来た制度や習慣や言い伝え等が後々の世の現代までも大きな社会問題として残されております。その一つが同和問題です。
 この二月に婦人会館で行われました「比企郡市連合婦人会リーダー研修会」で取りあげましたテーマが「婦人と同和問題」でした。私達はこの種の研修会、講演会、実践報告会、映画会等に何回も参加して学習して参りました。こうした国を挙げての教育の成果が今、大きく現れつつあると知り大変心和む思いが致します。

  国際化と日本人
 今、日本から年間に一千万人以上の人達が海外に出かける時代となりました。又、来日する外国人も急に増え、学校で職場で街角で見かける機会が多くなりました。そんな時、日本人は遠くからジロジロ見たりしますが、外国の人は他国の人を何時でも笑顔で受け入れてくれます。日本人は外国人に対してどうしても閉鎖的な所が出てしまうのですが、これは日本の国民性であり徳川幕府の行った二五〇年に及ぶ鎖国時代に培われた潜在意識がそうさせるのだそうですが、これも又德川時代の後遺症と言ったところでしょうか。
 制度や約束事は長く守るばかりでなくその時代のニーズに合わせて改革してゆく必要があり、改革のない所に進歩も発展も望めません。ましてや社会変化の激しい現代では町の発展や国の発展の大きなさまたげとなる場合もあると思います。
 21世紀まで後僅かとなってまいりました。国際化の波が押し寄せ、世界がせまくなりつつあります。古い固定観念をすて、多様性を認識する心を拓き、地球人のひとりとして世界の人を受け入れる心の広さを育みたいと思います。そして21世紀に飛翔する町緑園都市嵐山の地にふさわしい婦人でありたいと願っています。(三月吉日記)

   菅谷婦人会『しらうめ』第11号 1990年4月