菅谷婦人会で発刊される『白梅』を毎年拝読させていただいております。地道な婦人会活動と、その成果を自分達の手によってまとめられてますことを、社会教育を担当する一員として嬉しく、又深く敬意を表したいと存じます。
私の若い時、十年一昔とよくいいました。また最近は一年一昔という人をよく耳にします。
それは、国際的な情報化時代によって、世界の様子が、茶の間で手の取る様に知る事ができる様になったからでしょうか。
「物の豊かさから心の豊かさへ」「新しい風、生涯学習」の時代と社会教育の考え方も変わってきています。町民の皆様からの多様な学習要求のある事もつよく感じております。
これからは、角度を変え、町民の皆様の側に立って、生涯学習を推進していきたいと考えます。
昨日の二十二日、郷土にゆかりのある「鎌倉武士の鑑」畠山重忠公の慰霊祭が菅谷館跡で執り行われました。午後には、国立婦人教育会館において、十三回目の歴史講演会を開催いたしました。
『木曾義仲と巴御前』と題して、詩人、歴史作家の松本利昭先生を招いて終始熱の入った講演会でした。
義仲(幼名を駒王丸)は鎌形の地で生まれ、二歳のときに、木曾の中原兼遠のところで育てられました。第四代目の将軍として、朝日将軍を賜りました。
しかし京都では、無暴不礼を働き、木曾の山猿と非難され、法皇や鎌倉の頼朝らによって、近江の粟津ヶ原で最期をとげました。
あれから八百年の間、義仲公は重忠公とは対象的な人間像として印象づけられてきました。
松本利昭先生は「巴御前三巻」を執筆する中で、各地歴史的踏査と文献の中から木曾義仲になりきって考えてみると、
武勇に優れた武将ということだけでなく、教養、礼儀をわきまえた武人であったと確信を持てたとの事です。
必ずや、木曾義仲の復権を果たしたい、この事を強調しておりました。
講演の後、一枚の色紙に「なりきって考えよう」と書いて私に渡して下さいました。私には、その意味は正確にはわからないが、やがて来る二十一世紀に向けて、このことばを心して、仕事に生かせるよう課員と共に努力したいと存じます。
今後共、婦人会を通じ、又社会教育全般にわたって御指導と御協力をお願いいたします。
菅谷婦人会『しらうめ』第11号 1990年4月