霊界の門 ・見えないものの力

霊界や因縁から、現在の自分をみつめ、「見えないものの力」を味方にしましょう。

雑感いろいろ

2012年11月09日 | 心霊現象
日本の言葉は面白い。
表現の豊富さは、他に類をみないと聞く。

心を「ハート」一言で表す英語など、日本人には耐えられない。
心、魂、心情などは、どこでどのような時使ったらいいのだろう・・・。
その使い分けが、いまいちきっぱりと分からない我々でもあるが、こんなにも言葉があるのだ。
もっと他にもあるかもしれない。ただ私が知らないだけ・・・。


♪横浜 たそがれ ホテルの小部屋~、「五木 ひろし」の唄である。

♪夜と朝の間に 一人のわたし~、「ピーター」の唄である。

前者は「たそがれ」、後者は「しじま」を唄う。
あなたは、「たそがれ」を見たことがあるか?
そして、あなたはまた「しじま」を見たことがあるか?
日本人はこうして「微妙な時のうつろい」の一瞬を切り取って「唄」にすることが出来る。
それはまた、情景という形と、無形なる心の状態を表現する。

『春はあけぼの
 ようよう白くなりゆく山際 紫立ちたる雲の細くたなびきたる・・・』  (枕草子)

『ふるいけや 蛙(かわず)とびこむ 水のおと』   (芭蕉)

日本人の我々には「その情景」が目に浮かぶ。しかし外人には「だから、何?」となるらしい。
「それがどうしたのよ!・・・」と言われてしまえば、身もふたもない。
感性とか、心情とかいわれる世界のことは、磨かれてこその賜物であり、訓練されてこそ研ぎ澄まされるものである。が、その日本人が持っていた本来性を、今は外国人が求めて日本へ渡ってくる。
お家芸であるかどうか、その日本人の感性を失ってまでも手にしょうとする金とIT機器にたむろする国民。


「目は口ほどに、ものを言い」と言われた人の目。
最近は「人の目」を見ない。関わりたくない、という心の現れか?
それとももはや「人」は、心と目が切り離され、心が外に現れることさえ出来なくなったのだろうか?
「目を見て話しなさい!」と、先生が教えた。今は目を見ることはナンセンスか、あるいはタブーか?
そうだ、時代劇が少なくなったせいかもしれない。
時代劇の醍醐味は「殺陣(たて)」と、台詞以上に物語る「目」だ。
それが時代とともに消えてゆく。そしてその目が語ることもなくなり、その目も死んでいく。



きのう歌謡番組をみて感心したことがある。発見というか・・・。
歌詞の中で「なみだ」を「泪」という漢字をつかっていた。
どうして「涙」ではないのか? その違いは何か?
だから日本語はやめられない。「なみだ」と変換したら「涕」という字が出た。
これって、どんな時に使うんでしょうね~。


最近「日本人」に感動したことがあります。
車の「シートベルト」が廃材となる。
もとは、1メートル2万円もする物らしい。
光沢、色、素材、手触りなどなど、捨てるにはもったいない。
そこに目を付けた男がいた。
彼はそれで、つまり廃材となった「シートベルト」から「蝶ネクタイ」を造ることを考えた。
廃材だからといって、安くは売らない。「トップ・ブランド」として扱った。
彼はいう。「廃材ではなく、素材である」と。
さらに「ビーチサンダル」も視野に入れているという。

国鉄、今のJR。
駅のトイレに入ると、目の前に張り紙がある。
「このペーパーは、使用済みの切符の再利用です」と。
また、聞く。列車のシートの布は、スリッパに再利用されるそうな。
『もったいない』という感覚を日本人が忘れ、さらに言葉さえ使わなくなっていこうかという時、外国の人からその言葉を再利用?されて覚醒させられた私達である。



私のようにだんだん年をとっていくとね、いい物って何だろうとつらつら考えるようになるものです。
新しい言葉もいいでしょう。流行語もいいでしょう。
でもね、やっぱり「日本らしい良さ」は、見捨てないで付き合っていきたいものです。
言葉も習慣も、心もね。これって「文化」というんでしょうか・・・。
『文化の日』11月3日は過ぎましたが、いったい何をする日だったのかを、今思い出しているところです。


忘れないうちに。
来週はまた少しの間留守にいたします。(ブログはその後また)