霊界の門 ・見えないものの力

霊界や因縁から、現在の自分をみつめ、「見えないものの力」を味方にしましょう。

「熟した実」になってますか?

2012年11月07日 | 心霊現象
あの世の霊が、こんなことを言っています。


 『地上を去って、私たちの世界へやってくる人間の大半は、自分の霊的宿命や構成、霊的実在も
  本質について極端に無知です。それに加えて、死ぬべき時期が熟さないうちにこちらへやってく  る人があまりに多過ぎます。そういう人は、私がよくたとえてるように、熟さないうちにもぎと
  られた果物がおいしくないのと同じで、未熟です。果物は熟せば自然に落ちます。
  同じように肉体に宿っている霊が熟せば、肉体は自然に朽ちて霊体から離れるものです。
   今、こちらの世界には、すっぱい果物やしぶい果物がどんどん送られてきています。
  そういう霊を霊的環境へ適応させるために、私たちはいろいろと手を尽くし、監視し、世話を
  やかねばなりません。あらかじめ霊的知識をたずさえていれば、私がたずさわっているような仕
  事はずっとらくになるのですが・・・。

   (中略)

  そもそも死というものは、少しも怖いものではありません。死は大いなる解放者です。
  死は自由をもたらしてくれます。みなさんは、赤ちゃんが生まれると喜びます。が、私たちの
  世界では、これから地上へ誕生していく人を泣いて見送る人が大勢いるのです。
  同じように地上ではだれかが死ぬと泣いて悲しみますが、こちらではその霊を喜んで迎えて
  いるのです。なぜならば、死の訪れは、地上生活で果たすべき目的を果たし終えて、次の霊界が
  提供してくれる莫大な豊かさと美しさを味わう用意が、その霊にそなわったことを意味する
  からです。

   (中略)

   毛虫が美しい蝶になったことを悲しんではいけません。鳥かごが開け放たれて、小鳥が大空へ
  飛び立ったことを泣き悲しんではいけません。肉体を離れた魂が自由を獲得したことを喜び、
  そして、あなたも大霊から授かった能力を発揮すれば、その魂が味わっている美しさと喜びを
  いくらでも知ることができることを知ってください。
   死というものが存在することにも意味があるのです。一つの踏み石ないしはドアのようなもの  であり、そこを通過することによって、より自由な霊の世界へと入ることになるのです。』

             

 いつもの「シルバー・バーチ」の言葉です。

私たちは、日々平等に扱われている現在に感謝しなければなりません。
もっと不平等な生活を強いられている人もいることを思えば、という意味です。
その自由さを、「自分という実」を育てるために使ってください、という意味でもあります。
熟しきった果実になるには、霊の糧と日々の行いをもって時間とともに成就いたします。
それはまた「無知」を克服することでもあり、人間の三大ミッションの一つ目を、先ず成し遂げることでもあります。
神が与えた「人の生きる道」の、第一目的を果たし、自分という「果実」を実らせた次に来る
第二のミッションが結婚でした。
成人するとは、そういうことであり、人生の門出とはまた、そういう意味でもあります。
一人から、家庭人へと成長するあかつきに、心身ともに実る自分という「果実」は、以前よりも
ずっと甘く、香り豊かに回りをも引き付ける「実」となっていくでしょうね。
そして、第三のミッションが行く手に待っている、とまあ簡単にいえばこうなっているということ
でしょうか・・・。(三つ目は、以前のブログを見てください)
卒業、そう人間の卒業は、肉体生活で迎えるのです。
「もう、いいよー」という瞬間が、熟した実が落ちるがごとくに霊界の門が開くというわけです。

それであれば、死が怖いとか、嫌だなんてどうして言えるかってことになる。
「いくよ~。嬉しい~」って、みんなが嬉々として「あの世」へ渡る。これこそが、霊界であり、
本来の死後の世界の在り方でした。
「無知」あるいは「記憶喪失」という重篤な心霊的病に陥った結果の人間のざまが、今のわたしそのものだと知るのです。
多少の差はあれど、みんな「五十歩百歩」。
罪深さからいえば、いえ神の目から見れば、私達はみーんな同じ「目くそが鼻くそを笑っている」
ようなもの。(例えが悪くて失礼!)


思ったが吉日というがごとくに、吉日は今。
どうぞ本日をもって、仕切り直しをし「熟した実」を目指して、がんばりましょう~。

時は丁度実りの秋。(暦は立冬を伝えたが)
色をつけ、香りを放っている「わたし」になろう! ・・・ね、 みなさま。