見島人(Mishiman)


山口県最北端・・萩市見島の住人~ふるさと日記。

見島発 【徳川埋蔵金】in 山口県 (?_?)

2015年01月24日 | 日記

NHKの大河ドラマ【花燃ゆ】で....連日、萩だけでなく県内を全国に紹介してくれています。

これほど、宣伝効果は高いが、コストはかからない.....最高のパフォーマンスです。

境港の【ゲゲゲの】ブームなみに、本州の端っこ....西の京の観光再来に火をつけ、もっと全国区で山口県を知って欲しいです。

ところで、山口県には【お宝伝説】はないの!?......と調べてみると......とてつもなく大きな話が埋蔵していました。

                                                                                                            「徳川埋蔵金」の隠し場所といえば、群馬県・赤城山麓が有名だ。ところが新たに、びっくり仰天の候補地が浮上した。それは山口県美祢(みね)市。こともあろうに倒幕運動の中心地だった長州に、徳川将軍家の莫大な遺産がひそかに運び込まれた形跡があるのだ。

                                                                     *     *     *                       

                                 

                                    かごめの歌

                          

                   http://ameblo.jp/ginga2704/entry-11834386842.html 引用



 時は慶応4(1868)年、「江戸城無血開城」に成功した官軍が本丸奥深くの「御金蔵(ごきんぞう)」を開けると、そこにあったのは数枚の一分金(4分の1両)だけ。新政府の創設資金に当て込んでいた数百万両の大判小判や財宝は影も形も見当たらなかった。

 

                                          



 幕末の徳川将軍家は深刻な財政難に陥っていたが、「大政奉還」の前年(1866年)には関西の豪商たちを拝み倒して700万両の「御用金」をかき集め、フランス政府からも推定200万両を借り受けていた。いくら落ち目の幕府でも、御金蔵が空っぽだったはずはないのだ。

 そのため官軍は、幕府の勘定奉行などの要職を務めた小栗上野之介忠順(おぐりこうずのすけ・ただまさ)を捕らえ、莫大な金銀財宝の隠し場所を吐かせようとした。だが小栗は何も語ることなく、ついに斬首された。

 

                           夢枕に出て来て「おしえて!!」



 この幕末史のひとコマから「徳川埋蔵金伝説」が生まれ、明治時代に入ると小栗の領地だった群馬県の赤城山麓で多くの人々が宝探しに熱中した。時代が下って1990年代には、3代にわたり赤城山麓を発掘してきた元旗本家の水野家をTBSが援助し、11回の特別番組を放送した。その番組制作中には残念ながら埋蔵金らしきものは出なかったが、地下深くから奇怪なトンネル網や江戸時代末期の工具などが見つかり、小社も発掘調査の一部始終を追った単行本『あるとしか言えない―赤城山徳川埋蔵金発掘と激闘の記録』(糸井重里編)を93年に出版した。

 それから20年近くが過ぎ、徳川埋蔵金が過去の話題になりかけていた一昨年の春、意外な新情報を綴(つづ)った手紙が本誌編集部に届いた。送り主は、以前に『あるとしか言えない』を読んだという山口県美祢(みね)市に住む68歳の主婦・岩崎芳江さん(旧姓・岡島)。その手紙の要点は次の内容だった。

《私の実家の先祖が徳川幕府の資金隠しに関わっていたらしく、今でも家の敷地内に財宝が埋まっているかもしれない》

           岡島家文書に記された「大判小判」「金」などの文字。はたして真相は?

                                                          
 特に注目したのは、岩崎芳江さんの実家・岡島家が、江戸時代中頃から美祢地方にあったという点だ。もし芳江さんの推理が正しければ、徳川埋蔵金は倒幕運動の発信地・長州に眠っていたことになる。「灯台下暗し」の諺(ことわざ)どおり、この意表を突いた新説にこそ徳川埋蔵金の真相が隠されているのではないか?

 何はともあれ取材班は美祢市へ出かけ、芳江さんから詳しい話を聞いた。

「江戸時代の岡島家は広い田畑を持つ武家だったようですが、何か複雑な理由があり、長州藩に仕えながら徳川幕府にも縁があったと、私が小学生の頃に祖父から教えられました。とにかく岡島家の昔話になると、祖父は『他言は無用だが』と前置きするので、子供心に不思議に思ったものです」

 その岡島家の秘密の言い伝えのひとつに、長州へ攻め込んだ幕府軍が敗れた「第二次征長戦争」(1866年)当時のエピソードがある。この年の夏、美祢地方では見かけない数十台の大八車と人足が岡島家の裏手の山道に現れ、そのうち何台かが門から入ってきた。そして深夜に庭の池の近くに大穴を掘り、積み荷を埋めたらしい……。

 芳江さんは、その荷が徳川方の埋蔵金ではないかと推理するのだ。もちろん言い伝えだけでは信じるに足りないが、岡島家には代々の先祖が書いた日誌や手紙が数多く残り、その中に徳川幕府や埋蔵金との関係をにおわせる記録が見られる。

 例えば、昔から岡島家は関東の武家と養子縁組を繰り返してきたこと。明治維新前後の文書に「大判、小判、千両万両、金銀」などの文字が頻繁に登場すること。そればかりか「庭池のほとりに立つ百日紅(さるすべり)の木が黄金色に輝く」という、埋蔵金のありかを暗示するような絵入り文書もある。

 やはり岡島家の過去には、幕末史を覆すような秘密が隠されている可能性が高い。

                                       (取材・文/有賀訓、撮影/山形健司)( 資料引用 )

                               この見島にも.....平家の....。

                             

                                    ( 資料映像 )


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