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☆ 遂に『STAP細胞』で死者が出た

2014-08-18 07:00:45 | インポート

 

「ぶらり車イス紀行」   その493

 

 遂に『STAP細胞』で死者が出た

 

STAP細胞とは『人為的な操作によって、色々な細胞にな

 

れる能力を持つようになった細胞』とある。

 

この『STAP細胞』で、人間の思うような働きをする細胞

 

が出来、今まで治らないと言われてきた病気でも治ると言う画

 

期的な発見である。それも、より短時間に、また、効率的に作

 

り出すことが出来、なおかつ、嬉しいのは、細胞がガン化する

 

可能性も低いと言われる。だから、難病で苦しんでおられる人

 

にとっては、待ち待った細胞である。それほど素晴らしい細胞

 

が発見されたのに、死者が出てしまった。

 

亡くなったのは、この『STAP細胞』を発見した理化学研

 

究所の小保方晴子氏の上司・笹井芳樹副センター長である。

 

は、異例の若さ(36歳)で京都大学の再生医科学研究所の教

 

授に就任し、ES細胞から選択的に神経細胞を分化させる方法

 

を確立して、次期ノーベル賞候補と言われてきた。

 

そして、小保方晴子氏が発見した『STAP細胞』の論文の

 

共著でもある。ところが、その論文に疑義が生じ、小保方晴子

 

氏と共に、あらゆる所と人からパッシングを受けた。

 

その疑義に対し、6月11日、外部有識者でつくる理化学研

 

究所の改革委員会は、小保方晴子氏が所属する発生・再生科学

 

総合研究センターの解体や笹井芳樹氏に事実上の退任を求めた。

 

しかし、笹井芳樹氏後進の育成や管理に問題があったこと

 

は否めないので、退任の処分は受け入れるとして、組織の有り

 

方や解体については、理化学研究所組織内の問題であるので、

 

この問題で責任を持つのは、当然、理研トップである。

 

それにも拘らず、問題を一緒くたにして、二つのことを、あ

 

たかも笹井芳樹氏一人に責任があるように報告し、それが重荷

 

となって、笹井芳樹氏は自殺の道を選んだと思われる。これは、

 

これまで挫折もなく、順調に歩んで来た人の弱点なのかもしれ

 

ない。でも、この自殺は、若くして京都大学の教授に、また、

 

次期ノーべル賞候補と言われた男への、外部の人間の悋気(リ

 

ンキ=やきもち)が影響しているかもしれない。

                 たかし  でした。

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☆ 『エボラ出血熱』が蔓延

2014-08-15 09:35:31 | インポート

 

「ぶらり車イス紀行」   その492

 

 『エボラ出血熱』が蔓延

 

8月11日、世界保健機構(WHO)の発表によると、西ア

 

フリカのギニア、リベリア、シエラレオネ、ナイジェリアの4

 

か国で感染拡大が続いているエボラ出血熱による死者が、8月

 

9日までの集計で、1013人に上ったと発表した。

 

 初めて、エボラ出血熱ウイルスが発見されたのは、1976

 

年6月、スーダン(現:南スーダン)のヌザラの町の男性が、

 

急に高熱を発症し、その後、激しく出血して死亡した。その男

 

性に使った医療器具等を通じて感染が拡大、最終的に、ザラ

 

の町での被害は、死亡者数151人に及んだ。そして、その地

 

がエボラ川流域だったので、その名をとって、エボラ出血熱と

 

名が付けられた。

 

 西アフリカで大旅行しているエボラ出血熱について、国境な

 

き医師団として入国し、治療に参加していた吉田照美看護師は、

 

「現地では、海外から入国した医療従事者が『エボラ出血熱の

 

ウイルスを注射する』とか『臓器を摘出して、売り飛ばす』な

 

どのデマや噂話がはびこり、治療の妨げになっていた。だから、

 

エボラ出血熱について、正しい理解が必要

 

と訴える。

 

そして、有効な治療薬やワクチンがない中、

 

「水分補給、口から飲食できない場合は点滴、また、経口補水

 

液を積極的に使う、その他、解熱剤の投与、免疫機能を高める

 

ビタミン剤の投与、あとは、鎮痛剤の投与で苦痛を取り除くな

 

ど、治療というよりも、症状の緩和が主な治療だった」

 

と言う。それに、

 

「自分の身を守ることもすごく大事なので、厳しくルールを守

 

って、防護服を始め、防護する物を装着することも脱ぐことも

 

大事でした」

 

「それでも、何時、我が身に感染するかと怖かった」

 

と言う。

 

 こんな恐ろしいエボラ出血熱が蔓延している。遠く離れた地

 

のことと他人事のように思っている場合でないようである。

 

                 たかし  でした。

       Photo

 


☆ 『イーゴス108』復活

2014-08-12 08:56:50 | インポート

 

「ぶらり車イス紀行」   その491

 

 『イーゴス108』復活

 

 琵琶湖大橋のたもとにそびえる大観覧車を、一度は見たこと

 

があると言う人も多い。そして、琵琶湖に遊びに来た人は、大

 

観覧車を目印にしていて、見つけると琵琶湖に来たと言う気持

 

ちにさせた。

 

大観覧車は、108mの世界一の高さを誇り、1992年に

 

営業を始め、多い時は1日1万人以上の人を乗せ、琵琶湖を上

 

空から楽しませた。また、大観覧車の愛称も、世界一の108

 

mの高さから『すごーい』を逆から読んだ『イーゴス108』

 

と名付け、名称も話題を呼んだ。しかし、併設される遊園地や

 

レストランの業績不振で、2001年夏を最後に廃業された。

 

しかし、大観覧車も、すぐに解体される運命であったが、地

 

元やファンの惜しむ声に押され、解体が先延ばしにされてきた。

 

その間も元社長によって、月1回の点検運転がされ、錆が外見

 

に出てきたが、本体は現役を維持してきた。

 

 そこへ、新しい嫁入り先の話が持ち上がった。だから、跡形

 

もなくなる解体ではなく、琵琶湖湖畔で活躍した大観覧車が、

 

廃業から12年の歳月を経て、一旦は解体し、組み立て直して、

 

第二の人生を送ると言うことになった。嬉しい話である。

 

でも、新しい嫁ぎ先が、遠く離れたベトナムの地と聞いて、

 

『5~6年先になるな』と思っていた。ところが、先日のテレ

 

ビの情報番組で、大観覧車がすでに設置され、営業運転にこぎ

 

つけたと言う。そのテープカットに元社長も駆け付け、大観覧

 

車も晴れ晴れしい姿を披露した。この姿を見て、特に関係者で

 

はないが、乗ったこともあるし、何度も見たので、この復活劇

 

を見て、何か感慨深いものを感じた。

 

 ある日、ベトナムの街をテレビで見る機会があって、新しく

 

設置される中部都市ダナンも、どうせ田舎だろうと思っていた

 

が、なんと立派なリゾート地であるし、近年著しく発展をして

 

おり、嫁入り先として申し分ない所である。

 

 大観覧車『イーゴス108』も、琵琶湖湖畔からベトナムの

 

ダナンの地で、華々しく復活した。

 

                  たかし  でした。 

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☆ 『相州江の島』&『モン・サン=ミッシェル』

2014-08-09 09:06:21 | インポート

 

「ぶらり車イス紀行」   その490

 

 『相州江の島』&『モン・サン=ミッシェル』

 

テレビを観ていると、江の島のお天気カメラで富士山を見る

 

ことが多い。そして、このアングルが、葛飾北斎が描いた『富

 

嶽三十六景』の『相州江の島』と同じである。これは、間違い

 

なく、どちらかがパクッタのである。しかし、調べる間でもな

 

く、パクッタのは、もちろんテレビ局の方である。

 

 江の島は、現在多くのサーファーや海水浴客で賑わっている。

 

そして、多くのヨットが係留しているヨットハーバーもある。

 

その横を、湘南海岸と江の島を結ぶ江の島大橋の上を、多くの

 

人が歩いている。この人たちは、おそらく江の島の先の岩屋に

 

祀ってある『江の島弁財天』へ参詣に行くのであろうと、容易

 

に想像が出来る。なぜなら、江の島は、古くから宗教的な修行

 

の場となっていて、また、歌舞音曲の守護神とされる弁財天が

 

祀ってあるところから、多くの参拝者が訪れた。

 

しかし、葛飾北斎が描いた『富嶽三十六景』には、江の島大

 

橋を描いてなく、湘南海岸から江の島へ渡るには、潮が引いた

 

時に現れる砂州を、歩いて渡っている姿を描いている。こんな

 

現実的な姿に、出会えたことに感激である。しかし、これと同

 

じ光景を、テレビで見たことを思い出した。

 

それは、ヨーロッパでも潮の干満の差が最も激しい所と言わ

 

れているフランスの西海岸にあり、サン・マロ湾に浮かぶ岩で

 

できた小島『モン・サン=ミッシェル』である。元々は、小島

 

に修道院が築かれ、満潮時には海に浮かび、干潮時には自然に

 

現れた陸地で地続きになった。この光景は、葛飾北斎が描いた

 

江の島と同じである。

 

 『モン・サン=ミッシェル』では、昔は、沖合遠くに引いた

 

潮が、物凄いスピードで押し返してきて、命を落とした人が多

 

くいたと言う。だから、対岸との間に道路が作られ、潮の満ち

 

引きに関係なく、島に渡れるようになった。これも江の島と同

 

じである。でも、今でも潮の満ち引きは続いている。

 

『モン・サン=ミッション』は、1979年に世界遺産に登

 

録され、世界中から多くの観光客が押し寄せている。

 

                  たかし  でした。

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☆ 『葛飾北斎』&『リヴィエール』の違い

2014-08-06 09:57:49 | インポート

 

「ぶらり車イス紀行」   その489

 

 『葛飾北斎』&『リヴィエール』の違い

 

フランスの画家リヴィエールは、葛飾北斎の描いた『富嶽三

 

十六景』に大きく影響を受け、その作品には遠く及ばないこと

 

を最初から自覚していたと思われるうえで、それでもリヴィエ

 

ールは、それを乗り越えようと様々な苦心を重ねたと思われる。

 

しかし、それには、個人の力ではどうしても乗り越えられない

 

問題が二つあった。

 

一つは、富士山は、3776mの高さを誇り、近くで見ても、

 

遠く離れて見ても、そして、何処で見ても、何時見ても、同じ

 

ような美しい姿を見せている。一方のエッフェル塔も、東京タ

 

ワーが出来るまでは、324mの世界一の高さを誇こり、均整

 

のとれた美しい姿を見せ、世界の注目を集めて、パリの新名所

 

になっている。

 

ところが、この『エッフェル塔三十六景』だけを見ると、素

 

晴らしい作品であることに間違いはないが、『富嶽三十六景』

 

と同時に展示されると、いくら美しいと言っても『富嶽三十六

 

景』には、遠く及びはしない。それは、富士山は、大自然が造

 

った山であり、エッフェル塔は、人間が作った塔である。それ

 

を一々、富士山を大自然、エッフェル塔を人工と言わなくても、

 

見る人の心には、不思議に雲泥の差を生んでしまう。それでも、

 

リヴィエールは、一歩でも葛飾北斎に近づこうと、工夫・苦心

 

の跡が感じられる。

 

 二つ目は、葛飾北斎(1760年生まれ)とリヴィエール(

 

1864年生まれ) の間には、ほぼ100歳の年の開きがあり、

 

この100年の歳月の開きが、住居や衣服などの庶民生活の移

 

り変わりや産業の変遷などが、画の端々に現れていて、時の流

 

れも、二人の間には大きな問題になっていたと思える。

 

今回のように、勝手に色々な切り口から見られる展示会は、

 

肩ひじ張らずに楽しめます。是非、夏休みの期間を利用して、

 

お子さんやお孫さんの手を引いて、お出かけください。

 

 また『富嶽三十六景』の中に、大変興味深い画を見つけまし

 

たので、次回のブログでご紹介します。お楽しみに……。

 

                  たかし  でした。

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