goo blog サービス終了のお知らせ 

gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

☆ 牛のおいど

2015-02-26 08:28:15 | 日記
「ぶらり車イス紀行」  その550   
      ☆ 牛のおいど 


「あんたは『牛のおいど』やなぁ」
「『牛のおいど』ってなんですか?初めて聞きましたわ」
「あんた『牛のおいど』も知らんのかいな」
「そんなん知らんわ。すんまへんけど教えてなぁ」 
「あんなぁ、牛の鳴き声とおいどをくっ付けてみてみ」
「牛の鳴き声は『もう』とおいどで、『もうおいど』ですか?」
「違うわな、牛の鳴き声はいいけど、おいどを普通に言うと」
「あぁ~分かった。牛は『もう』で、おいどは『おしり』、『もう』
の『おしり』で『ものしり』ですね」
「そや、あんたは、何でも知ってる『牛のおいど』と言うことや」
「ええこと聞きましたわ。おおきに」
と、昔、ある人から言われた。その時は、意味が分かったので、そ
れで満足して、それ以上のことは聞かなかった。

 ところが、先日『牛のおいど』が、突如、テレビから流れてきた。
その言葉は、かつては繊維や金融の中心として、大阪の繁栄を築い 
てきた船場商人が練り上げてきたと言われている。それは、商家の
豊かな生活文化の香りの中で、きれいでなめらかで、何となくまっ
たりしていて、それでいて、優雅で格調ある美しい言葉が『船場こ
とば』として残っている。

 この『船場ことば』を生み出した背景には、商人と商人との間で
明け透けに交わされる大阪商人の商売言葉が、時として、お客さん
の耳に入った時、分からないように隠語にしたり、商人間だけで通
じる専門用語としたり、洒落っ気を持った言葉にしたりして、直接
に話して、ギスギスをした人間関係を作るのを避けるために、工夫
したものと言われる。

 これらの言葉も、現在では落語の中に出てきたり、日常の中で、
細々と生き残っている程度で、ほとんど使われなくなってしまった。
でも、なぜか『船場ことば』に触れてみると、不思議に懐かしい思
い出が蘇ってくる。
 そこで、次回は『船場ことば』を紹介したい。
                    たかし  でした。

「入るを図って、出ずるを制す」

2015-02-23 16:07:12 | 日記
「ぶらり車イス紀行」  その549 
☆ 「入るを図って、出ずるを制す」


『再建王』・『船舶王』と称された坪内寿夫は、企業は利益を上げて
成長・発展を続けることが使命である。そして、その会社で働く社員
の活動・行動のすべてが利益に結びつけることを目標とした。
 
 企業が倒産・衰退に向かうときに、共通しているものとして
① 過去の成功体験にとらわれ、収益力が低下している。
② 業務を多角化しすぎて、投資が重荷となっている。
③ 放漫 営が蔓延している。(特に、世襲社長が多い)
④ 利害関係者間の利害がこじれている。(債権者・株主・従業員・
経営陣など)
などを上げられるが、これらの一つを解決するだけでも大変なのに、
二つ以上を同時に解決すべく取り組んだ。しかし、これに時間をかけ
ればかけるほど企業の価値が減ってしまうので、時間との戦いになっ
ていたと思われる。要するに、企業の再建は、入ってきた収入より少
なく使うことである。こんなことは、家計も同じことで誰でも分かる
ことである。

 そこで、彼は『入る(収入)を図って、出ずる(支出)を制す』を
企業再建の基本と考えた。しかし、収入は、相手があることなので、
こちらの思惑通りにはいかない。しかも、じっとしていても収入は得
られないので、何らかの動きをする。ところが、収入は、顧客の満足
によって、初めてもたらされるので、顧客の満足があって初めて発生
する。だから、顧客の満足が得られない無駄な動きをいくらしても、
収入は得られない。だから、顧客満足が得られる動きをするしかない。

 しかし、支出は、こちらの裁量で決められるから、顧客の満足(収
入)が見込まれるカネ(投資)は認められるが、収入が見込まれない
カネ(経費)は一切認められないことになる。だから、支出を、選択
と集中の原則で考えると、結果的に利益は出ると考えた。

 従って、コストダウンの要となる管理者には、コスト意識を叩きこ
んだ。そして、これらを怠ってしまえば、また、赤字に陥って、縮小、
撤退、果ては、倒産の道を歩みはじめると、語りかけた。

 そして、坪内本人は、生活態度が仕事に現れるとして、贅沢を嫌い、
質素な家とおかずが『めざし』であったと言う。
                   たかし   でした。

☆ 「仕事は、楽しくなると好きになれる」

2015-02-20 08:18:30 | 日記
「ぶらり車イス紀行」  その548 
☆ 「仕事は、楽しくなると好きになれる」


 前回と前々回のブログで、江戸時代、藩の財政の再建に奔走した、
信州・松代藩の真田家の家老・恩田杢と、奥州・米沢藩の上杉家の
藩主・上杉鷹山の二人を紹介しました。

 しかし、忘れてはいけない昭和の再建王がいる。その人は、倒産
寸前の船舶・造船・ドック会社を数多く抱え、それらの会社を再建
した手腕から『再建王』・『船舶王』と称された。また、愛媛県伊予
郡松前町生まれで、四国を中心としたグループから再建を請け負っ
たので『四国の大将』とも称された実業家の坪内寿夫氏(1914
~1999)である。

 坪内氏の経営方針は、それまでの労働慣習を見直した『必賞必罰
人事』と『徹底したコストダウン』を軸に、再建を推進していった。
 人事については、組織の簡素化によって意思決定のスピード化と
役割のダウンサイシング(平社員が課長級の仕事をし、課長が部長
の仕事をし、部長が役員の仕事をし、役員が 社長の仕事をする。
要するに、それぞれが一つ上の仕事をする)を目標達成時の姿とし
た。そして、自らの新しい人事制度を『エレベーター人事』と名づ
け、極端な例では、平社員から役員への抜擢や役員から平社員へ降
格人事も行った。また、新しい人事制度として
① 入退社を厳しく管理し、8時間労働に1時間の休憩を取り入れた。
② 季節労働や下請け・孫請けなどの雇用計画を作成させた。
③ 部課制を廃止してポストを削減し、年功序列から実力主義に変更
  した。
④ 設計にもコストを意識させ、裁可権を与えてスピード化を図った。

 加えて、仕事への心構えとして
「仕事が嫌だなあと思っている人は、仕事を知らんのだよ。
仕事というものは知ってくると面白くなる。
なんでも始めからできる人はいない。
努力してできるようになるから楽しくなる。
楽しくなると好きになれるんだよ」
と語っている。そして、コストダウンもすさまじいものがあった。
 続きは、次回ブログで……。
                   たかし  でした。
 

☆ 上杉鷹山のようなリーダーがほしい

2015-02-17 08:46:39 | 日記
「ぶらり車イス紀行」  その547 
☆ 上杉鷹山のようなリーダーがほしい


鷹山が、17歳で藩主になった名門の上杉家も、徳川幕府の諸藩
取り潰し政策に合い、藩の財政も苦しくなっていました。そこで、
大倹約令を行って米沢藩を復興すると、神社に決意の奉納をします。
そこには、
・ 民の父母の心構えを第一とすること
・ 学問・武術を怠らないこと
・ 質素・倹約を忘れぬこと
・ 賞罰は正しく行うこと
とあり、プラスして12か条の大倹約令が書いてあった。そして、
この大倹約令も、藩の重役から藩の体面に関わると強い反対にあっ
たが、自ら率先して範を示した。その一例として、江戸藩邸での藩
主の生活費はおよそ7分の2に削減し、役人の贅沢や無駄を正し、
日常の食事は一汁一菜、普段着は木綿、奥女中も50人から9人に
減らし、藩政改革への第一歩を踏み出した。

 ところが、倹約一辺倒ではなく、天明3年から7年続いた凶作の
時に米の値段が5倍に跳ね上がり、領民には米が口に入らない状態
になったが、新潟や酒田から米を買い上げ領民に分け与えた。この
施策によって、1人の餓死者も出さずに済んだが、藩の財政には大
きな打撃を与えた。だから、厳しいだけでなく、領民を思いやる優
しい一面も持っていた。その後も農政を改革し、教育を進め、産業
を発展させていく。その中でも、最も大きな産業開発は、青芋(あ
おそ)を原料とした縮織(ちぢみおり)で、これを基にして養蚕(
ようさん)から絹織物へと結び付けていく。

 17歳の若さで藩主になった鷹山も、35歳という若さで又従兄
弟の上杉治広に藩主の座を譲ります。しかし、引退後も、冶広の強
い要請で相談役として藩政に残ります。この後も、藩の財政再建の
意見を家臣のみならず広く領民からも求め、その意見を集約して藩
費を半分にし、残る半分を借金返済に当てた。そして、藩の財政が
好転しても、鷹山は、相変わらず一汁一菜、木綿を着用した生活を
続け、71歳でこの世を去るまで、生涯を米沢藩の人々のために尽
し、功績は、初代上杉謙信と並んで、後世に語り継がれている。
                     たかし  でした。

☆ 上杉家は、時代の流れを読み誤った

2015-02-14 08:36:42 | 日記
「ぶらり車イス紀行」  その546 
    ☆ 上杉家は、時代の流れを読み誤った


 上杉鷹山の上杉と聞いて首を傾げた人もいると思う。だから、上杉
鷹山が行った米沢藩の藩政改革は後回しにして、先にその疑問を解く。

 まず、上杉家の初代は、川中島の合戦で、甲斐の武田信玄と戦った
越後の上杉謙信である。いわゆる、戦国武将の名門中の名門である。
しかし、川中島の合戦の後、当時、圧倒的優位と言われた武田家が
誇る精鋭の騎馬部隊が、織田・徳川連合軍に三方ヶ原の戦いで敗北し、
甲斐への帰路、武田信玄が53歳で死去いたします。さらに、織田・
徳川連合軍は、武田家を追いかけ、根絶やしにします。

 一方の上杉家も、本能寺の変の後、信長の跡を継いだ秀吉に、越後
の上杉家に恐れをなして、越後からより遠い会津若松へ国替えをさせ
られます。そして、秀吉の死後に跡を継いだ徳川家康は、禁じられて
いた上杉領内の城改修の申し開きをさせるため、来阪するように要請
をするが、上杉はそれに応じず、家康は、仕方なく上杉討伐のために
会津に向かう。(これは、家康の口実と思われる)この機に乗じて、
石田三成は挙兵するが、関ヶ原の戦い、大阪冬・夏の陣を経て、結局、
徳川に敗れ、徳川家康は天下を統一する。この時、上杉景勝は、家康
に謝罪して上杉家の存続を許されたが、江戸から遠く離れた米沢藩に
移封される。これは、武田との戦いに酔いしれて、時代の流れを読み
誤ったと言わざるを得ない。

 また、米沢藩第4代藩主・上杉綱憲(つなのり)は、高家筆頭・吉
良上野介の長男として生まれ、名門・上杉家の婿養子となる。ところ
が、元禄14年3月14日、江戸城内の松の廊下で、父・吉良上野介
が赤穂藩主・浅野長矩に傷つけられる事件が起こった。さらに、翌年
12月14日、赤穂浪士によって吉良邸討ち入り事件が起こり、吉良
上野介は討たれてしまうが、この時『家臣に止められ助けに行かなか
った』と口から口へと伝えられ、討ち入り時に行動を起こさなかった
米沢藩の態度を、上杉謙信以来の武門の名声も地に落ちたと、陰口を
叩かれた。これも、徳川幕府の前では、親子の情も儘ならない時代の
流れを読み誤った。その上、上杉綱憲の藩主在任中、教学振興を行い、
聖堂・学問所を設立したが、これが藩の財政を悪化させた。
 こんな中、上杉鷹山が米沢藩第9代藩主になった。
                   たかし  でした。