マイペースで行こう

東村山市内のキリスト教会の牧師のブログです。更新も内容もマイペースですが、18年目に入りました。

死の向こうに

2007-12-10 17:00:39 | 教会の風景
日曜礼拝の説教ダイジェスト

聖書箇所 創世記35:16-29

「死の向こうに」

この直前の聖書箇所では、ヤコブを祝福する神様の姿があった。
それに続く記事はというと・・・。

ヤコブの愛する妻ラケルの死。

ラケルとの間の第二子の誕生は本来おめでたい日であるはずだった。
しかし、極度の難産のため、母の命は守られなかった。
母の想いは「ベン・オニ:私の苦しみの子」という一言に込められた。
わが子の成長を見られない別れの悲しみも母にはあったのでは。

そんな母ラケルの別れの悲しみを受けて、旧新約聖書でこの場面の引用が行われている。

エレミヤ31:15   祖国を追われる神の民への嘆き。
マタイ2:16-18  ヘロデ王の暴挙(ベツレヘム近辺の2歳以下の男児虐殺)

神に選ばれ、祝福を約束された人々の間にも悲しみや痛みが存在する。
当然のごとく死も免れることはできない。
では、人間にとって神の祝福とは一体なんだろうか?

古代の信仰者はどのように考えていたのか?
新約聖書へブル書の著者は、このように説明している。

「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。・・・しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷に憧れていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」

信仰者にとって、この世での生活は旅であるという視点。
ゴールは、この世でいかに多くのものを得、快適に過ごすのかにあるのではなく、天の故郷に、神の備えられた都にある。
しかも、選ばれていながら罪深い私たちを神様は見捨てず、「彼らの神と呼ばれることを恥となさ」らないとしている。

私たちは失うことで目覚めることがある。
いのちや健康、財産や家族などそれ自体は神様の恵みの中で私たちに授けられている。
しかし、私たちが、神様ご自身よりそれらにばかり関心を奪われていると・・・
本当に大切な永遠への視点を失いかねない。

私たちも古の信仰者たちの告白から学び、「旅人であり、寄留者であること」を忘れないでいたい。
輝かしいゴール、天の故郷が私たちに備えられている。




天の父なる神様、あなたの祝福を感謝します!
あなたが天の故郷に迎え入れてくださること、それは確かな希望です。

今しばらくはこの世での旅の途上にありますが、ゴールを目指して一日一日を大切に過ごしていきたいと思います。

私たちがゴールを見失うことがないようにお守りください。
愛する救い主イエス様の御名によって。
アーメン!
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« クリスマス礼拝に向けて | TOP | 発表! »
最新の画像もっと見る

Recent Entries | 教会の風景