マイペースで行こう

東村山市内のキリスト教会の牧師のブログです。更新も内容もマイペースですが、18年目に入りました。

この一ヶ月

2018-01-30 08:57:36 | 教会の風景
先日も教会に集まり、礼拝をささげました。
2018年も最初の一ヶ月を終えようとしています。
主が導いていてくださること、それが何よりの感謝です。
今月の礼拝で語った説教を振り返って、あらすじをまとめました。

礼拝説教(旧約聖書講解の分)のあらすじ 士師記10-11章
イスラエルは再び悪へと傾き、周辺諸国の神々を礼拝した。その堕落ぶりが伝えられている(10:6)。主なる神を捨てて背く、罪人の本質をここに見る。主は怒り、イスラエルをペリシテ人やアンモン人の手に売り渡した。アンモン人がイスラエルを「打ち砕き」、「虐げ」、さらにヨルダン川を渡って領内に侵攻したため「大変な苦境に立たされた」(8,9)。苦しみの中で、民はようやく主に立ち帰ろうとしたものの、主が「わたしはこれ以上あなたがたを救わない」と言う。それでも、異国の神々を取り除き、主に仕えると、「主はイスラエルの苦痛を見るに忍びなくなった」(16)。主は、真実に悔い改める者を決して見捨てない。『主の憐れみは尽きない』からだ。 私たちは、主の憐れみに信頼し、望みを置き、励まし合っていく。
 新約聖書で、神を信頼した人物を言及する箇所に名を連ねている士師エフタ(ヘブル11:32)。一体彼はどんな信仰者だったのか。その時代は、民の「かしら」、「首領」となる者を必要としていた(10:18; 11:6)。ギルアデの長老たちは、生まれ育ちのゆえに疎んじられ、国外へ逃亡していたエフタ(11:1-3)を連れ戻そうとする(5)。これまでの士師の召命の記事とは異なり、長老たちとエフタとの交渉が描写されている。主は沈黙しておられるようだ。長老たちは『主が私たちの間の証人』(10)と言い、エフタも「主の前に告げた」(11)とされるが、主のことばは記録されていない。主に伺うことよりも、互いの間での取り決めが先行し、主のみこころは後付けのようだ。一方的な彼らの信仰に潜む危うさを考えさせられる。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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