マイペースで行こう

東村山市内のキリスト教会の牧師のブログです。更新も内容もマイペースですが、18年目に入りました。

秋の行事に向けて

2018-08-21 15:12:14 | 教会の風景
東村山聖書教会は8月も定期的な集まりを続けています。
先日の日曜日も、午前は主日礼拝。
そして、午後は有志による話し合いと役員会が開かれました。
秋に実施する行事の内容を検討し、役割分担などを決めたところです。

通常の定期的な集まりの充実も大切ですが、特別行事も節目になりますので、互いに協力しながら進めています。
試練や困難もありますが、主の恵みと憐れみとを受けて教会の歩みが守られています。





今月の礼拝説教のあらすじを掲載しておきます。
旧約聖書からの講解説教の分です。
2018年8月 士師記19-21章
 フィクションならば正義の味方も定まろうが、現実の世界では何をもって正義とするかの判断が難しいこともある。あるレビ人の一行が旅の途中、ギブアの町で凶悪な事件に巻き込まれた(19:1-26)。そのレビ人が被害をイスラエル全部族に訴えると(19:29)、全土から人々が「一斉に」集結した(20:1)。彼らは、『このような悪いことがどうして起こったのか』と戸惑いや怒りを表した。改めて被害者から直接話を聞くと、一層正義感に駆られ、一体感も増した(20:8,9,11)。その一方、ギブアの町を領するベニヤミン族が加害者の引渡しを拒んだため(20:13)、ベニヤミン族とイスラエルの他部族との大規模な戦闘にまで発展した(20:14-)。大義名分も、その時の勢いも、神に伺っていた点からも、イスラエル側に分があるようだ。ところが、二度に渡りベニヤミンに打ち負かされた。そこでイスラエルは悲しみ、断食をし、主の御前にいけにえをささげた(20:26)。神の御前には、イスラエルの民も同じく道を外れていたのではなかろうか。イエスが語られた「まず自分の目から梁を取り除きなさい」(マタイ6:41-42)の教えを思い起こす。まず神との正しい関係にあって、本当に他者を生かし助けることになる。
 イスラエルの人々は、自分たちの娘をベニヤミン族の妻としない、と戦う前に誓っていた(21:1)。この誓いは正義感の現れのようだが、皮肉な結果を招く。イスラエルの最終的な勝利(20:46-48)がベニヤミン族の存続を危うくした。ちなみに『イスラエルの神、主よ。なぜ』というイスラエル人らのその時の祈りのことば自体は、敬虔な信仰者の祈りにも見られる(出エジプト記32:11; 詩篇10:1; 88:14等)。ただし、この時の彼らの祈りのことばと、戦闘や破壊活動を強行したのには一貫性がない。そのうえ、当初の誓いのせいで、生き延びた600人のベニヤミン族に子孫が残されるのも見込めない。そこでイスラエルは二つの策を講じた。一つは、戦闘に協力しなかったヤベシュ・ギルアデの町から400人の未婚女性を強制的に連れて来た(21:8-12)。もう一つは、主の祭りに参加する未婚女性を誘拐するようベニヤミンに提案した(21:19-22)。士師記の締めくくりに「…それぞれが自分の目に良いと見えることを行なっていた」(21:25)とあるのは的確な描写だ。「自分は良いこと、正しいことをしている」と己の正義で突き進む時に、実は自分の言動の本質が見えていないことがある。自戒し、自らの信仰を吟味する者でありたい。


今回も長くなりました。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。
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