マイペースで行こう

東村山市内のキリスト教会の牧師のブログです。更新も内容もマイペースですが、18年目に入りました。

それでも希望がある

2006-08-21 21:48:35 | 教会の風景
礼拝説教

創世記3:14-24
罪には報いが伴う。
主は罪を犯した男と女、それをそそのかした蛇に宣告を言い渡す。

蛇には呪われた動物。
女には出産の苦しみと夫の支配。
男には労働の苦しみ。
そして死。

罪は決して安易に考えるものではない。
神様が願う、本来あるべき姿から外れることは、大変な結果を招く。
このことで神様を責めることはできない。
なぜなら、道を外れることを選んだのはアダムとエバだから。
人は神様の元を離れることを自ら選んだ。
そして、その結果生まれる事態の責任を負わなければならない。

しかし、主は人に対するあわれみを決して忘れない。
主なる神様は、人間に絶望だけを残すお方ではない。
むしろ、いかなる時でも希望を用意しておられる。

実は、罪に対する宣告の中にも光がある。
蛇に対する宣告の中に次の一節がある。
「わたしは、おまえと女との間に、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」(15節)

蛇は悪魔を象徴する。
「女の子孫」とは救い主のことを指す。
つまり、「女の子孫」であるキリストが、悪魔とその力、罪の呪いや死に対しても勝利を収められることを予告している。
人には悪魔にも罪にも勝つ力は無くても、キリストが勝利する。
ここの聖書箇所は原福音とも呼ばれるそうだ。
人類のこの最初の時点で、すでに後のイエス様による救いが預言されていると考えられる。

ここで予告されたキリストの勝利は、後にその十字架の死と復活によって明らかにされた。
キリストの死と復活の事実が、それを信じる私たちを救う力だと信じている。
どんなに良い教えや驚くような神秘的な力があっても、それでは人は罪の報いから救われない。
ただここに示された「女の子孫」よることだけが救いの方法である。
自分のうちに働きかける罪の力、悪の力がどんなに強くても、私たちが希望を持てる理由はここにある。
死でさえも、イエス様を信じる者には、永遠に続く神の国の入り口であり、通過点に過ぎない。
その先にはさらに優れたいのちと立場が用意されている。
最も暗い宣告の内にも、神様がこんな希望の光を灯しておられることを知ることは、どれほど大きな慰めだろう。

さて、さらに主は具体的なケアをしてくださる。
裸であることに気付き、それを気にして自分たちでいちじくの葉を使ったアダムとエバ。
主は、そんな二人に動物の皮で衣服を作って着せてくださった。

そして、エデンの園から二人を追い出す。
実はここにも神様の配慮が窺える。
なぜなら、エデンの園の中心にはいのちの木もあった。
その実を食べると永遠に生きることになる。
もし、人が罪の呪いを負ったまま永遠に生きることになるならば、どうなるだろう?
罪の影響を引きずったまま後ろめたい生活を永遠に続けなくてはならないとしたら、どうだろう?
ここまで問いかけると自然と答えが出るだろう。
一見、神様が意地悪で二人をエデンの園から追い出したかのように受け留めてしまいそうだが、実はこの行為も二人を思ってのことだった。

主は私たちにいつでも希望を与えられる。

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