マイペースで行こう

東村山市内のキリスト教会の牧師のブログです。更新も内容もマイペースですが、18年目に入りました。

『わたし』と『あなた』の関係

2007-02-13 15:48:37 | 教会の風景
礼拝説教のダイジェスト

聖書箇所:創世記17:1-8

『わたし』と『あなた』の関係

イシュマエルを授かってから13年の月日が流れる。
その間、聖書では主がアブラムに現れたという記録は残っていない。
アブラム86歳の記録から99歳の記録へ飛んでしまう。
恐らく、アブラムとサライの二人は、主の約束がイシュマエルを通して実現するのだと考えていたことだろう。
女奴隷ハガルを通して子をもうけるという方法が適切であったと信じていたかもしれない。


しかし、13年の沈黙を破り、アブラムに主が現れる。
そして、語りかける。


「わたしは全能の神である。」(17:1)
アブラムは、この言葉の意味をどれだけ分かっていただろう?
それまでの主の祝福や導きの中で、経験的にある程度は理解できていたと思う。
主が「全能の神」と言われた場合、まさしく望むように何でもできるということだ。
しかし、この時点のアブラムは、まだ本当の意味で「主が全能の神」であることを知る(信じる)に至っていないのではないだろうか。


「神を信じる」と告白していても、必ずしもそれで神様を正しく理解しているとは限らない。
例えば、しばらく前の教会史の講義で習ったことで「理神論」というのがある。
理神論は、神がこの世界を創造されたと信じる。
しかし、神は自然の法則を定められ、あとは自動的にこの世界が進んでいくようにセットされたと考える。
そうなると当然、神の摂理やこの世界への介入、奇跡やキリストの神性は信じられない。
理神論に立つ人々もクリスチャンと自称するかもしれない。
しかし、実際は聖書の教える神の姿とは、その理解が離れている。


主は自らを「わたしは全能の神である」と表現された。
私たちも使徒信条で「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と告白しているけれども、その意味するところをどれだけ知って(信じて)いるだろうか?


「あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」(17:1)
先に「わたしは全能の神である。」と言った方は、アブラムに一つの命令を授ける。
先の自己紹介とこの命令は、セットとして考えられる。
主が全能であるならば、主の前を歩み、全き者であるべきだと当然うなづける。

ちなみに、「主の前を歩む」:日常的に主を認めて生きること。
そして、「全き者」:とがめられるところのない者、誠実で一筋な者。

主は、「わたしが何でもできる」と示し、だからこそ「わたしに本当に頼ればいいのだよ」と声をかけられた。
私たちは本気でこの方に頼り続けていく者でありたい。


その後に続く契約も、「わたしの契約」となっている。
主が自分の力で契約を果たされることを保証している。
アブラム(高められた父) → アブラハム(多くの国民の父)
主がそのようにしてくださる、これほど心強いことはない!


主はアブラムに『わたし』と『あなた』という関係で語りかけられた。
この世界を創造されて後、遠く離れている方ではない。
側に来て、語りかけた方。
そして、自分が契約を果たすと明言された。


新約聖書によれば、主を信じる私たちはアブラハムの子孫だと言われている。
また、神は変わることのない方。
であるならば、私たちもこの方に信頼することができる。
私たちを召して、救ってくださった方は、「全能の神」である。
そして、『わたし』と『あなた』という関係を築いてくださる方。
私たち自身は弱くても、この方が側にいてくださるから、心強い。


主よ。あなたに拠り頼みます。
あなたの御業に期待しています。
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