マイペースで行こう

東村山市内のキリスト教会の牧師のブログです。更新も内容もマイペースですが、18年目に入りました。

ウォーキングと写真

2020-05-16 23:12:00 | ちょっと息抜き

最近も外出を極力控えつつ、体力維持のためにウォーキングは続けています。

その最中に撮った写真です。
 
 
まずは、公園の桜の木にさくらんぼ。
日差しを浴びて、葉の間で真っ赤な色が映えています。


 
 
キジに出くわしました。
数週間前にも、至近距離でバッタリ遭遇して、一瞬見つめ合ってしまいました。
 


 
次はこの写真。
夕日を受けるバックネットに黒い影が見えます。
その影の主は猫です。


ちょうど私が近くを歩いている時…
 
この猫はのんびりとくつろいでいたのに、散歩でやってきた犬に追いかけられて、瞬く間にネットの上へと上って行きました。
 
 
どれも何気ない風景や出来事ですが…
最近、私の印象に残ったものです。
 

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ちょっとした気分転換をしながら…

2020-03-25 17:59:00 | ちょっと息抜き
新型コロナウィルスの影響で、日常生活にも何かと落ち着かない状況が続いています。
でも、目に入る風景から春の訪れを感じることで、ちょっとした気分転換になります。

日課になっているウォーキングのコースの桜も、次第に咲いてきました。
このところは、歩きながらも…時々立ち止まっては写真を撮り…また歩いて…という感じです。












日によって歩く時間も違ったり、天候も違いますので、同じコースでも趣は変わってきます。
そんな変化もささやかな楽しみにして、気分転換を心がけています。

しかも、そのように歩いている間、あの人、この人、あのこと、このこと、…いろいろと思い浮かべて祈り、聖書のことばを思い巡らしていると、目標としている距離に到達するのもあっという間です。

今、置かれている環境や状況には試みられることもしばしばですが、神の恵みと憐れみは決して絶えないのだとくり返し思い起こしています。

最後に、聖書のことばの一節を添えておきます。

いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべてのことにおいて感謝しなさい。
これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

(テサロニケ人への手紙第一5章16-18節)

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とりあえず一年続けてみて…

2020-03-14 00:04:00 | ちょっと息抜き
昨年、セルフケアの一環で始めたウォーキング+時々ジョギング。
それまでは慢性的な運動不足でしたが…
一年くらいは続いたことになります。
おかげさまで、減量と体力づくりにつながっています。

四季折々の風景の変化を味わいながらのウォーキングは、気分転換にもなります。
時々、ふと立ち止まって写真撮影も。






昨年の台風19号でいつものウォーキングコースが被害を受けたときには、一時的に頻度と距離が落ちていましたが、持ち直しました。
アプリの記録によると、今年に入って昨年より距離が伸びているようです。




最近のウォーキングのことでもう一つ。
先日、ある聖書アプリを見つけて、ウォーキング中に聴いています。

日本G&M文化財団が提供している、「聴くドラマ聖書」です。
聖書は「新改訳2017」の本文を使用しています。
ただし、その名のとおり、ちょっとしたBGMや効果音もあって、ドラマの台詞風に読んでいます。

私としては、普通の朗読でも十分なのですが…
それはともかく、最初は聖書のストーリーをドラマ仕立てに編集したものかと想像したのですが…「新改訳2017」の本文をそのまま使っているのが気に入ってます。
聖書本文が画面に表示されるのも良いです。
興味のある方は、日本G&M文化財団サイトをご覧ください。

最近のウォーキングの様子と絡めて、とりとめもなく記事にしました。



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どんぐりの背比べ

2019-10-08 21:42:00 | ちょっと息抜き
先日、ウォーキングをしている公園で、どんぐりを拾ってきました。
季節を感じるのも、ちょっとした気分転換になります。



テーブルに並べてみて、眺めました。
「どんぐりの背比べ」ですね。

自分と人とを比較して、ほんのわずかな違いで優越感に浸ったり、劣等感に悩んだり…
相手を自分の尺度で測って、イライラしたり、いらぬお節介を焼いたり…

お互いに窮屈で、意味のないことだと分かっているはずなのに。
謙虚で寛容な心を与えてください…と祈るばかりです。


9月分の礼拝説教のあらすじを掲載しておきます。

旧約聖書からの2回分です。

2019年9月 Ⅰサムエル記8章
説教題:『王を立ててください』
 「歯車が狂う」とは「どこかにくい違いが生じて、順調に進んでいたことがうまくいかなくなる」と辞書で説明される(大辞林)。聖書は、悔い改めたイスラエルの民のその後について伝える。サムエルは年老いていた(8:1)。世襲は異例であるものの(参照:士師8:22,23)、サムエルは自分の息子ヨエルとアビヤを民のさばきつかさに任命した。ところが、その息子たちは、利得を求め、不正を行い、職務にふさわしくない人物だった(8:2,3)。聖書には彼らの任命の経緯や理由についての記録がないが、後に続く出来事の伏線になっている。民の長老たちは事態を重く見て、こぞってサムエルを訪ねた(8:4,5)。彼らはサムエルに『王を立ててください』と切望した。息子たちをさばきつかさに任命したサムエルに、彼らの代わりとなる王の擁立を願ったのだ。この要求は、民族のアイデンティティにも深く関係する問題を含んでいた。本来、イスラエルは主なる神を王とし、主の民とされている(出エジプト19:6)。サムエルの息子たちに困り、イスラエルの将来を案じていたにしても、「ほかのすべての国民のように」という長老たちの意識から出た要求は、主を退けているのと等しい(8:8)。教会の運営、牧師や役員、奉仕者の任命という人事にも、教会に対する主のみこころが実現されるよう注意を払うのは、信仰面からも肝要である。
(2019.9.8)

説教題:『あなたがたを治める王の権利』
 新約聖書で使徒パウロは、信者は心を新たにすることで、神のみこころをわきまえていくように教えている(ローマ12:2) しばしば、神のみこころと私たちの思いには隔たりがある。サムエル記が伝える、イスラエルの長老たちが王を求めたのも、主の民にとって最適な願いとは言い難い。主はその願いを容認されるが、将来予想される結果を警告する。預言者サムエルを通して、『あなたがたを治める王の権利』を告げた(8:10-17)。王は民から「取る」存在となる。民の息子や娘、畑や収穫、奴隷や家畜、収入に至るまで、王国維持のために取り上げる。真の王である神を退けて、人間を王に立てる負担は大きい。この警告のことばを聞いた長老たちは、それでもまだ自分たちの主張から離れなかった(8:19)。「ほかのすべての国民のようになり」という意識を手放せない(8:20)。神から受けている自分たちのアイデンティティに価値を見出せず、かえって周りに合わせることで、この世を渡っていけると考えているようだ。しかも、彼らのイメージする王の姿には偏りがある(8:20)。理想が過ぎると過剰な期待や現実逃避となる。「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」と神のみこころを求め、心を新たにされたい。
(2019.9.15)

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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セルフケア

2019-07-31 18:22:10 | ちょっと息抜き
ブログ更新がすっかり疎かに…
このブログに時々立ち寄ってくださる方々を心配させてしまっているかもしれませんが、本人は元気にしています。





今年の春先あたりから、セルフケアを自分の課題にしています。
それで始めたウォーキングも定着。

最近は、途中にジョギングも入れて、(なるべく)毎日5㎞を目標にしています。
スマホアプリも活用しながら体調管理を優先して、生活を見直しているところです。

おかげさまで、体力と気力が徐々に戻っているのを実感しています。
務めをふさわしく果たすためにも、自分のコンディションを整えておきたいと思います。


さて、これも久しぶりになりますが、説教のあらすじを掲載しておきます。
2019年6月に旧約聖書からお話しした説教の分(2回)です。

『主のことば』:Ⅰサムエル記3:1-14
 聖書はサムエルの成長ぶりを伝えて、「主に仕えていた」(2:11,18; 3:1)とくり返す。これは主への礼拝のため、彼が何らかの奉仕を担っていたことを意味する。その当時、サムエルは祭司「エリのもとで」(3:1)、つまりその指導のもとで育った。サムエルが育った環境や時代(士師‪21:25‬)は、健全な信仰が育まれる条件が整っていたとは言い難い。しかも、時代の闇の深さを反映するように(3:1)「そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった」とも言われる。まるで、主が沈黙しているようだ。ただし、そのような時代にも、『主のことば』を取り次ぐ将来の預言者が育まれていた記録に希望の光を見出す。現代の私たちには自分たちの言語で読める聖書があり、情報を伝達する便利な手段があるにしても、聖書を説き明かして教える奉仕者の必要は切実である。健全な教えを説く奉仕者、牧師や教師を、主がこれからの時代にも備えてくださるよう祈りたい。(2019.6.16)

『主のことば ⑵』:Ⅰサムエル記3:15-21
 聖書は神のことばである。その聖書を正しく教える人の存在は大切だ。少年サムエルは初めて『主のことば』を受けたものの(3:4-14)、それは皮肉にも祭司エリとその一族へのさばきの宣告だった。その後、サムエルは主のことばを取り次ぐようになり、月日は流れ、心身ともに成長していった。(‪3:19‬)「主は彼とともにおられ、彼のことばを一つも地に落とすことはなかった」という。彼が語ったことがすべて実現したために、サムエルは主の預言者だと人々に広く認められていった(‪3:20‬)。あの最初の経験とは別にもう一度、主はサムエルにご自分を現されたとも言われる(‪3:21‬)。このようにして、神はサムエルの預言者としての召しを確かなものとし、働きを確立していった。サムエル記冒頭の一連の出来事は、サムエルというひとりの預言者が立てられるまでの主の御業を物語る。主のことばがイスラエルの民に伝えられるため、主はサムエルを選び、召し、立てた。現代も、主はみことばを取り次ぐ奉仕者を選び、召し、立てて、用いる。(2019.6.23)

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


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