「 銀婚式 」
結婚して25年になるということです。
25年前、結婚式(披露宴)で新郎として挨拶したことを想い出します。
もちろん、ウソは無かったのですが、この歳になっても未だ、
言ったほどのことが達成(実現)できていません。
嫁さんに対する気持ち、3人の子どもたちの将来、
親を含めた家族との関わり方、そして、お世話になってきた
様々な方々への感謝の気持ち ・・・
何一つ、表現ができていない気がします。
何一つ、お返しができていない気がします。
何とか、金婚式までには ・・・ (笑)
■ こんたく堵 ■
真剣に考えてる? と聞かれます
真剣に考えてないやろ!と突かれます
本当に真剣に考えたら
誰にも相談せず、動き始めます
たぶん、止まらなくなります
そういう性格です
これが一番怖いのかもしれません
だから ・・・ 進めない?
第五大成丸
「 今年初めての投稿です 」
昨年12月と、
今年に入って1月も新規アップすることなく、この2月も2/3が過ぎてしまいました。
日記というよりは、見聞したものを自身の今の感覚がどう捉えたか、また、心の中にある
過去のフィルムを巻き戻して重ね合わせてみたり、そんなブログであるためだろうか、
どうも、滞ると停滞を越えて大渋滞を起してしまいます。
「 不安定で不安な状態 」
公私ともに変化といえる変化は無いものの、好調や安泰といえる風でもなく、何となく
気忙しい部分と空虚な部分が交錯しています。非常に狭くて薄っぺらい吊橋の上を
大きさと重さの違う荷物を右手と左手それぞれに持って渡っているという感じです。
この上なく不安定で不安な状態です。
「 家族にも気持ちは伝染する? 」
こうした状態は家族にも伝わります。というより、伝染します。
“終の棲家” になるであろうと思っていた家を売り、借家住まいに ・・・ 家族にとっては
ショックというより、皆が空虚感に襲われていたのかもしれません。ようやく最近、家族が
そう捉えていた事に気づかされました。仕事(飲食業従事)も同様に捉えていたようです。
ただ、私の中では、家も仕事も “終(つい)ではない” と思っていましたし、これからも
“これが終着” というような考えを持つことはないでしょう。そういう感覚を持たないのが
私自身だと客観的に捉えています。
「 幼少期の棲家 」
幼少期、飯場暮らしをしていた私は、その現場が終われば、また次の現場(飯場)へ ・・・
ある意味、“覚悟” をして生活をしていました。それが、ある日(小4の冬)引越した先は、
住宅地にある一軒家です。なんと、親父が定住を決め家を建てたわけです。職人として
現場を渡り歩いていたのですが、時は高度成長時代で、公共事業を中心に請け負っていた
仕事が、その地域でこの先数十年あるのではないかということが背景だったようです。
たぶん親父は、その家を “終の棲家” とする決定(覚悟)をしたのだと思います。
「 真新しい家に罪悪感 」
その新しい家に引っ越して数年(小学校を卒業するまで)は、何となく居心地が悪く、
不安定な精神状態になっていたかもしれません。何故なら、家の中に風呂はおろか
トイレや水道も無い、ベニヤ板とトタン屋根に囲まれた飯場の一室(8帖+2帖物置)から
風呂やトイレはもちろんのこと、クーラーや応接セット、ベッドまで配置された真新しい家、
2階へ上がれば自分専用の部屋も ・・・ 周囲には大きな家が次々と建っていました。
近隣には昔からの地主さんやお金持ちの屋敷も並んでいます。嬉しいというより、何か
昨日までの生活が否定されたような、何と言うか妙な罪悪感とでもいうべき感覚が
私の心を襲っていたのだと思います。
「 私という人間の基本 」
いろんな意味で、私の基本はあの飯場暮らしにあるような気がします。大雨が降れば
床上まで浸水します。事前に畳を上げておかなければなりません。台風が接近すれば
薄いガラス窓は外から板塀を打ちつけて防風しておかなければなりません。そんな自然に
対しての備えや対応力が自然に身についたようです。また、それらが生きている実感でも
あった気がします。そんなもんだと思って生きてきました。しかし、皆がそう思えるわけ
ではありません。特に、今の若い世代には理解しがたいことかもしれません。
「 知らず知らず影響を与えていた ・・・ 」
一番安定していると思っていた高1の末娘が、引っ越してから不安定になっています。
学校で問題が起こっているようです。中退することを考えるほど悩んでいます。内容は
言えませんが、親としてもなかなか踏み込めない部分でもあります。いくぶん、家庭や
私の仕事の不安定さが影響しているかもしれません。嫁さん(母親)が遅くまで働いて
いることも影響しているかもしれません。上二人(兄と姉は家を出てそれぞれ一人暮らし)
の行動も影響しているかもしれません。
「 家とは何か、家族の繋がりとは ・・・ 」
今一度、家や家族を考える必要があります。
「家」 に対しても 「家族」 に対しても、“いつも有る” が間違いの元のような気がします。
逆に、“それを守る(守りたい)” が重くなっていたように思います。結果、守れなかった
時に何が残るのか ・・・ 何も残りません。これが問題だったと気づかされます。もっと
根本的な繋がりを家や家族の芯にしなければなりません。形や言葉だけではけっして
繋がっているとは言えません。本当の意味で 「家(家族)」 を形成しなければなりません。
そして、本当の家族の繋がりを創らなければなりません。
写真は、
家族全員が久々に集まったクリスマスに飲んだワインです。とても大人なワインです。
先代からワイン造りを受け継ぎながら自身の表現をちゃんと加えていく。そして次代へ
継承して、また新たな歴史がルビー色やガーネット色を奏でる。そんな家(家族)の
強く太い繋がりを感じるワインです(味は優しくエレガントです!)。
Vosne-Romanee 1er Cru Clos des Reas 06
ヴォーヌ・ロマネ プルミエ・クリュ クロ・デ・レア
■ ワイナリー : ドメーヌ・ミッシェル・グロ
■ ワイン 名 : ヴォーヌ・ロマネ プルミエ・クリュ クロ・デ・レア
■ ヴィンテージ: 2006
■ 原産国 : フランス
■ 地 方 : ブルゴーニュ
■ 地 区 : コート・ド・ニュイ
■ 村 : ヴォーヌ・ロマネ
■ 呼 称 : A.O.C.ヴォーヌ・ロマネ
■ 格 付 : プルミエ・クリュ
■ 品 種 : ピノ・ノワール 100%
■ 上 代 : 13,400円
ヴォーヌ・ロマネ1級畑中最高に評価されるモノ・ポール「クロ・デ・レア」。
ベリー系の果実とスパイスの香りを想わせる見事なブケとしなやかで
官能的な風味が素晴らしいワインです。
■ こんたく堵 ■
“よくあること” と人は云う
大人の対応が必要な時もある
時には
子どもの目線が必要なこともある
臨機応変
そんな言葉で済むはずもない
本気で “本気” を伝えるしかない
第五大成丸
「もう3ヶ月経過 ・・・」
前回の更新から、もう3ヶ月以上が経過してしまいました。
(このブログをやめることも考えましたが、それは寂しい気がして ・・・)
仕事に追われていた訳でも、ネタに困ったわけでもないのですが、
仕事を含めた生活環境の変化で、どういう立ち位置でこのブログを
続けるべきか少し悩んでおりました。
「環境の変化」
売りに出していて、なかなか売れなかった家(マンション)が、約1年経過
して何とか買い手が付き、8月に売却して S市 から I 市に引越しました。
子供や親のことを考えて購入したマンションでしたが、思ったより早く
子供たち(長男・長女)が家を出ていく(追い出す?)ことになり、また、
親父たちはまだまだ元気で、私の世話になるふうでもありません。
そして、私の収入が半減してしまった現状を考えれば、このままローンを
払い続けて大きな家に住むことが最良ではないということで、売却・転居と
いう考えに至ったわけです。
現在、家族がバラバラになった状態ですが、一つ屋根の下で暮らしていても
違う場所でそれぞれ住んでいても、そう大きな違いはありません。どちらか
と言えば、今の方がお互いを心配したり思いやったりできるような気がします。
ここ2年、嫁さんには一層の苦労をかけていました。特にローンのため、
朝から夜遅くまで働いてくれていました。売却でローンが無くなり少し楽に
なると思ったのですが、それがそうでもありません。
新築の5LDKのハイブリッドマンションから築30年以上経過した2LDKの
老体マンションへ ・・・ 居住空間の狭さよりライフライン等の整備、あるいは
家事に関するあらゆる不便さが浮き彫りになってきました。
私が定時(夜中心の飲食ではなく、昼中心の物販)の仕事に出るように
なってからは、以前のように家事を手伝うことが十分できなくなったことで、
また嫁さんに負担が掛かっています。やはり、何とかしなければ ・・・
とりあえず、再開します。
「また、訃報が ・・・」
先週はまた、
いろいろと大変な出来事が押し寄せてきました。続く時は続くもので ・・・
関連会社の先輩T氏がお亡くなりになったという訃報が入りました。数ヶ月前に
癌を告知され治療されていたことは知っていたのですが、結局、一度もお見舞い
にも行けないまま、永遠のお別れとなってしまいました。
私のことを “○○やん” と愛称で呼んでくれる数少ない先輩でした。今思えば、
毎回、仕事面で私の部署と会社のパイプ役となり支援(援護)してくれた方でした。
綺麗好き、笑顔の素敵な方で、病気一つしない健康優良児だと思っていました。
そんな方が ・・・ 人間の命の儚さを思い知らされたような気がします。
告別式では、奥様は気丈に振舞われ、長男もしっかり喪主を務めておられました。
まだ58歳だったT氏にとっては、大好きだった奥様との別れ、お嬢さんの将来の
花嫁姿、そして孫の誕生を見れなかったことは心残りだったかもしれないと思うと、
やはり心が痛みます。何とも言えない遣り切れなさが込み上げます。
心からご冥福をお祈りいたします。
■ こんたく堵 ■
あの時、
ああしておけば ・・・
あの時、
こう考えておけば ・・・
あの時、
そう言っておけば ・・・
「後悔先に立たず」
そんな諺で
片付くような話でもない
人との一生の別れに
“もう一回” は無いのだから
第五大成丸
「2010 寅年」
新年、あけましておめでとうございます。 今年も宜しくお願い致します。
「大晦日から元旦にかけて」
大晦日の夕方から、
自宅を出て実家へ向かいます。意外にも高速道路は一度も渋滞せず通れました。
今年は嫁さんの仕事の都合もあり、一泊二日(年越しのみ)です。長男は元旦から
仕事、上娘は用事が有るとか無いとか ・・・ ということで、3人での帰省となりました。
無事、実家に到着、
挨拶もそこそこに、いつものように “おせちの味見” を兼ねてあれこれ肴をつまみ
ながら忙しなく酒を流し込みます。それから、酔い潰れないうちにきっちり年越しそば
は戴きます。ただ、年(日付)が変わる頃には目も虚ろ状態でした。( これは恒例 )
明けて元旦の朝、
皆揃ったところで新年のあいさつをします。親父が “新年あけましておめでとう!”
と発声し、それぞれのお猪口に注がれた日本酒(燗酒)で乾杯します。いつもと同じ
光景です。この元旦の “変わらぬ光景” に、なぜか年々心地良さが増していると
感じます。
親父は毎年、
夜が明ける頃に初詣に一人で出掛けます。おふくろは家で朝宴の用意です。
そう言えば、おふくろが初詣に行ったのを見たことがありません。まあ、これも
いつもの我が家の光景なわけですが ・・・ 。
私たちは毎年、
だいたい昼前後に初詣に向かいます。今年は少し参拝者が多かった気がします。
参拝に向かう列に並びます。本殿前に着くのに小1時間ほど掛かりました。その
せいか、かなりカラダが冷えたようです。( おぉー、寒~ぅ!カラダが震えます )
お御籤を引きます。
これも我が家の恒例です。大吉が出れば喜びます。中吉や小吉ならちょっと喜び
ます。至って普通のリアクションです(笑)。家族で20数年、同じ神社に参拝して
お御籤を引いてますが、初詣では一度も凶を引いたことがありません。我が家に
大きなラッキーが無いかわり、大きなアンラッキーも無いのは、この籤のおかげ
なのでしょうか ・・・ ??? ならば、究極の 「家内安全」 なのかもしれませんね。そう
考えれば、“ご利益有り!” ですかねぇ ・・・ 。
「まめまめしく ・・・」
いつもより多めに黒豆を食べたかもしれません。
今年は “まめまめしく生活して(働いて)みよう!” ということで ・・・
■ こんたく堵 ■
昔は
“いつもと同じ” や
“人と同じ” が何より
嫌いだった気がする
「同じ」 という言葉に
魅力を感じなかった
今は
常に新しいものが上
次へ、そして、また次へ
そうした感覚そのものに
魅力を感じなくなってきた
本当に良いものを
邪念なく見極めて
それをじっくり育てる
そんな環境を広げて
人が気づかない力を
吸い上げてみたい
そんな役割を果たせる
1年を過ごしたいと思う
そんな役割を担える
人生でありたいとも思う
第五大成丸
「人の七難より我が十難」
年の瀬に思うのは、
衆院選で民主党が圧勝して政権交代したことで生活が一変したわけでなく、
裁判員裁判がスタートしたけれど、まだ実際に呼ばれていないので実感はなく、
新型インフルエンザの大流行に巻き込まれたわけでもなく、円高デフレの影響を
受けているという意識は薄く、事業仕分けでわが家が仕分けされたわけでもない。
WBCで日本が連覇したことは素直に嬉しく感じたが、高速道路千円乗り放題の
恩恵はあまり受けておらず、ましてや、アメリカ大統領にオバマ氏が就任には
個人的にメリットはなくデメリットもない、GMやクライスラーの経営破綻も然り、
ドバイショックも然りである。
だた、言えるのは、
変化する世の中や世間情勢に付いて行けるとか、付いて行けないではなく、
今年もまた繰り返してしまったメリハリのない生活リズムと自己評価の甘さ ・・・ 。
他人の欠点や不備は誰よりも早く気づくのに、自分自身の悪いところ弱いところは
気づかない(というより、認めようとしない)性格は今年も変わらずであった。
“反省しかない1年” となりました。
もう “来年こそは ・・・” はやめておきます。
人生も大きくみれば 「結果が全て」、言い訳や先延ばしは惨めですから ・・・
■ こんたく堵 ■
「結果が全て」 と
素直に認めてやろう
ただし、全ての結果を
素直に受け入れた上で
良い結果と悪い結果
許せるものと許せないもの
その境界線や重要性は
一般論やなく、持自論で
仕分けをしてやろうや!
第五大成丸
「なんでやねん!どうなってるねん!」
16日の朝、
携帯の着信音が鳴って目覚めました。見知らぬ番号が ・・・ 今の私に朝早く
から電話が掛かることはなく、有ってもナンバー登録している近しい人だけです。
“ま~た、間違い電話かぁ?” と思い、出ませんでいた。しかし、すぐさま同じ番号
からの着信が ・・・ “リダイアル!かっ?” これも間違いだと思い、この2度目も
電話には出ずパスしました。すると程無く、3度目の着信音 ・・・ ディスプレイには
後輩 「J」 の名前と携帯番号が表示されていました。 私が電話に出て “ハイ。”
と声を出すと、“○○○○の携帯から電話してます” と女性の声が ・・・ すぐに
J の奥さんだと判断できました。そして、この時点で私は、電話を直ぐに切って
しまいたくなるほどの怖さを感じていました。 J に何かあったのだと ・・・
奥さんは小さな声で、
“昨日(15日)未明、 J が交通事故で亡くなりました。” と語り始めました。
奥さんから放たれる予想を超える言葉(内容)に、私は絶句してしまい慰めの言葉を
返すタイミングすら失いました。心の中で “なんでやねん!” “どうなってるねん!”
と叫びながら震えが止まりませんでした。
「17日 通夜 そして、 18日 葬儀告別式」
余りにも、ツライ別れでした。
そして、やりきれない思いが胸と胃に痛みとなって広がっていきます。
“こんなツライことあったやろか?” と、半世紀の自分の人生を振り返ります。
ありませんでした。身内の不幸でもここまでは ・・・
2年前の夏( J が同じ会社で私の部下だった当時 )、
仕事帰りバイクで事故を起こし、足を骨折して 入院・手術 ・・・
簡単には完治せず、入院・手術・退院 を繰り返しました。その間、立ち仕事が
メインとなる飲食の店舗勤務はままならず、自宅待機 ・・・ 結局、私が退職する
のとほぼ同時に J も退職しました。( 会社にこれ以上迷惑は掛けたくないと ・・・ )
お互い、
月に1度は連絡を取り合い近況報告を交換していました。足の事もあったので、
私からは “無理せんと長い目で仕事探しや!” とアドバイスはしていました。
そして、余裕のない私が心配するのも可笑しな話ですが、“生活は大丈夫か?”
と、毎回声は掛けていました。“何とかイケてます!” と気丈に返していましたが、
その後、労災の保険金給付の打ち切り期限が迫り、足の状態と相談しながらも
無理して仕事を探さなければならない状態(生活環境)になっていたと思います。
“7月末までは理想を求めます ・・・ で、見つからなければ、8月から妥協します”
と話していた J が選んだのは、理想に近づくための妥協だったかもしれません。
繁華街、
オオバコ居酒屋の新規立ち上げ、そして、その統括店長 ・・・
会社の成り立ち、そのビジョンや方向性、スタッフの面々などなど、私が判断する
前に、過酷な日々が待っていることを J は十分に理解していました。そして、私の
“大丈夫なんやなぁ?” という問い掛けに、“トライしてみます!” と、意気込んで
話はしていました。私は、また足が痛むのではないかとそればかりが心配でした。
通夜の時、
J の親父さんに事故の話を伺いました。( 奥さんには聞けなかったので ・・・ )
“まだ、私たちも詳しい事はわからへんのやけど、トラックと正面衝突して心臓破裂、
ほぼ即死状態で、本人はそんなに苦しまんかったんちゃうかなぁ ・・・ ” と客観的に
捉えることで、現実を直視したくないという父親の姿がそこにありました( たぶん )。
より一層、私の心は折れそうになりました。( 聞かなければよかった ・・・ )
11月の新規開店前から
ほとんど寝ずに仕事を詰めていたと思います。オープンして数日経ったある日、
私は J の勤務するお店に出向き少し話をしました。“どう、大丈夫(足)?” という
いつもの挨拶から話を始めました。そして、今の店舗、スタッフ、お客様の状況、
メニュー内容等を聞きました。少し私から意見もしました。その中で一番私が
心配だったのは、睡眠時間が2~3時間程度しかないということ、働き始めてから
1日も休みらしい休みを取っていないということでした。
J は元々、
体育会系ですので、体力と気力(先輩への礼儀も)には自信を持っていました。
でもそれ以上に、あの時 J には、それに掛けるしかないという悲壮感が漂っていた
かもしれません。それなのに、“お前がそう思うんやったら、ガンバってみいや!”
と私は表ヅラの良い上司のようなアドバイスをしてしまいました。ほんま(本音)は
“無理すんな!(足の痛みの再発)今度やったら取り返しつかへんぞ!嫁さんと
小さい子供(息子)おるんやから ・・・ そこまで掛けれる会社(人)なんか?” と
言ってやりたかった。でも、何の支援もできない今の私には言えなかった ・・・
今回、事故と仕事の関連性はわかりません。
ただ、自転車で通っていた J がなんでトラックと正面衝突なんや ・・・
2ヶ月前、
“オープン1ヶ月前、(店長として)何をしておけば ・・・ ” という質問を持って
私のところへ J はやって来ました。近所の居酒屋で酒を飲みながら私なりの
意見とアドバイスをしました。うちの嫁さんが仕事帰りに合流、3人でそれなりに
盛り上がりました。家に帰ってから嫁さんと話した時、J の印象がそれまでとは
違ったようでした。一瞬、取っつき難いところがある一方、好き嫌いがハッキリ
していて、本当は裏表がないサッパリした性格 ・・・ 私に似ているということです。
( 私には裏表がありますが! ・・・ ??? )
しかし何より、
たくさん居る後輩の中でも、こんな私のような存在を一番慕ってくれていることが
わかったようで、嫁さんは今まで以上に親近感を覚えたようです。そういうことも
あってか、告別式に一緒に参列してくれました。うちの嫁さんも今は飲食業界人
です。簡単には仕事を休めません。“仕事、大丈夫なん(代わってもらえるの)?”
と私が聞くと、嫁さんは “仕事より、Jくんのあの大きい顔、もう一回、見とかな
後悔しそうやから ・・・ ” と返してくれました。通夜・告別式には、一緒に働いていた
スタッフも大勢、参列してくれていました。祭壇にある J の写真を見ても、棺桶の
中の亡骸を見ても、悲しさより悔しさしか感じなかったのに、そのスタッフたちの
顔を見ると、なぜか涙が ・・・
無念やと思います。
( 奥さんの泣き崩れた姿、たぶん一生忘れません )
これからやったと思います。
( “これからやと思ってたのに ・・・ ” という親父さんの言葉も忘れません )
奥さんや親父さんはじめ親族の皆様、そして、同級生やクラブ(部活)の先輩、
後輩、仕事を一緒にやってきた方々、 J はまだ、34歳やったはず。私の中で、
“サヨナラ” には、もうちょい時間が掛かりそうです。 もう少し時間が ・・・
■ こんたく堵 ■
人間はいつか死ぬもの
いつか別れの日はくるもの
もちろん 、
そんなことわかってますよ
そやけど 、
自分より若いヤツが突然 ・・・
やっぱ、ツライですわ
うん、やっぱ、イヤですわ
これって
「無常の風は時を選ばず」
ってことですか ・・・
第五大成丸
「日陰の気持ち」
日当たりの良い特等席に居たとは云わない
ただ、これまで歩んできた人生、それなりに
人様より恵まれたポジションに居たことは確か
振り返れば、ラッキーだった要素も多々ある
どこかの時点で “煩わしい人生は御免だ!” と
逃げながら繕うことを覚えたのかもしれない
無論、誰も好き好んで日の当たらぬ場所へ
積極的に足を踏み入れることはないだろうが
知らぬ間に追いやられることはあるものだ
その日陰に入って初めて知ることがある
その日陰から見て初めて感じることもある
“どう見られるか” より “いつ何をどう見るか”
日の当たらぬ場所に居る人間の気持ちが
理解できるとかできないといった感傷的で
軟なものではなかったことは意外だった
日の当たらない場所から日の当たる場所を
見れば眩しいだろうという想像は当たっていた
但し、それのみであってそれ以上の感慨はない
猛獣が草叢で息をひそめ獲物を睨んでいる
ターゲットの動きをジッと見据えて間合いを測り
ドンピシャのタイミングで飛び出し牙を剥く
残りの人生、そんな存在を目指そうか ・・・・・
■ こんたく堵 ■
四六時中、
日が当たる場所など
ここには無いだろう
深い闇が天空を覆い、
月明かりすら射さない夜
日当たりの有無は愚問
どこもが、だれもが、
同条件となって騒ぎだす
まるで、
カーニバルのように・・・
第五大成丸
「不器用な職人」
大阪福島でイタリアンのお店をやっている後輩Mから久々に連絡がありました。
“年末で店閉めることにしました” という報告です。独立して何年経ったのか ・・・
小さなお店ですが、一時はイタリアンブームもあってか、異常なほどメディアに
取り上げられた繁盛店です。根強いファンに支えられ、今もそれなりに繁盛して
いるようです。ですから、もちろん “赤字での撤退” という訳ではありません。
元々、我が道を行くタイプのMなのですが、私と知り合った(Mが高校生)頃は
家計のため?夜遅くまでアルバイトをしていました。卒業後は、大好きなバイク
レースのため、定職の仕事には就かずフリーであちこち渡り歩いていたと記憶
しています。その後、“料理の道で飯を食う” ことを決心したという報告があるかと
思えば、すぐさま単身、何のツテもないイタリアへ渡って武者修行 ・・・ 目ぼしい
レストランにアポなしでいきなり飛び込み、“雇ってくれ!” と職を求めてみたりと
それなりに苦労はあったのでしょうが、2年余りで数ヶ所のレストランを回って、
良い勉強にはなったようです。
帰国してからは、数軒のお店でシェフを経験して独立したのですが、Mの料理は
派手なイタリアンではなく、イタリアの伝統的な基本料理や田舎料理がメインです。
そこにMのこだわりとポリシーがあったのだと思います。そして、大きな店からの
誘いや支援の話もあったのでしょうが、若いスタッフを雇い入れて店を大きくして
店舗数を増やす、あるいは料理監修、プロデュースといったビジネスには、興味
を示さず、自分が作った料理を自分のお店でちゃんと提供することにこだわった
ヤツです。今時の業界人ではありません。非常に不器用な職人だと私は思います。
「等身大の模索」
Mとは知り合って30年近くなります。
紆余曲折はありましたが、目標であったろう “自分の城(お店)を持つ” という
ことは達成し、それなりに業界では名も売れたはずです。しかし、2~3年前から
徐々に、“街場でこのまま店を続けることには魅力を感じない” といった内容の
話が会うたびに多くなっていました。丁度、私自身も同じような感覚に見舞われて
いましたので、お互いに将来への再展望(チェンジ)を話すようになっていました。
これまでの仕事に対して、無理したり誤魔化したりしていた訳ではありませんが、
少しずつ、少しずつ、本当に目指していたものと現実が違ってきたということが
自分の中で消化できなくなり始めたということです。私とMは、経験を積み、歳を
重ねれば重ねるほど、等身大の新たな自分探しがしたくなるタイプのようです。
要は、等身大の自分で再勝負してみたくなるということです。今まで積み上げて
きたものに頼って余生を過ごす、といったことを目標にしたくないという中年男の
悪足掻きかもしれませんが ・・・ 。( 特に、私は ・・・ )
Mのお店は年内(たぶん12月30日まで)、今まで通りの営業をして閉店します。
年明けの1ヶ月ほどで店舗の整理と処分をして、その後、岡山を目指すそうです。
まだ詳しくは聞いてませんが、土地(畑)付きの古民家に移り住み、野菜作りをし
生活基盤を整えるようです。当初、生活と情報収集の為に岡山の街場へ働きに
行くことになるかもしれませんが、なるべく早く、その古民家を改装、あるいは増設
して、前の畑で採れた野菜を使った料理が提供できるレストランを開店させたい
という考えでした。どんなLOHASなレストランができるか楽しみです!
( Mでなければ、“私にプロデュースさせてくれ!” と言うのですが ・・・ )
いずれにせよ、今、私にできることは陰でMを応援することです。
“頑張って!” と言葉を掛けることぐらいです。もっと、私に力とお金があれば、
大きな支援をしてやれるのですが、まあ、それはそれでMが嫌がるでしょうが ・・・ 。
■ こんたく堵 ■
人それぞれ 考え方があり
人それぞれ 生き方がある
今の時代
個人的なこうした思想
随分と尊重されるようになった
しかし、
立場ある人間が発すれば
まだまだ誤解を招くことがある
そして、
お堅い組織なら、降格、左遷
或いは解雇の可能性すらある
社会の中、特に組織の中で
“等身大の自分を見つけること”
それは、至難の業である
ちゃんと “コンタクト” しなければ ・・・
第五大成丸
「元は、新嘗祭!?」
日本全国津々浦々、古から神々に五穀豊穣を祝う(願う)習慣があるものです。
飛鳥時代(皇極天皇の時代)から始まり、収穫物に感謝する代表のような風習
でもあった 「新嘗祭(にいなめさい・しんじょうさい)」 は、1872(明治4)年までは、
旧歴の11月2回目の卯の日に行われていました。しかし、1873年に太陽暦が
導入されたことで新暦の11月に移されました。その年は11月23日だったようで、
以降、新嘗祭はこの日に固定されたということです。
その新嘗祭は、
第二次世界大戦後のGHQの占領及びその政策によって、天皇行事(国事行為)
から切り離されたようです。そして、「勤労をたっとび、生産を祝い、国民が互いに
感謝しあう」 ことが趣旨の国民の祝日として、1948(昭和23)年に公布・施行された
のが、「勤労感謝の日(11月23日)」 です。
「勤労感謝の日に生れて ・・・」
戸籍上、そんな 「勤労感謝の日」 に生まれた私 ・・・
20代の頃、“自分は勤労(仕事)の為に生れてきたのかも ・・・” とさえ思った
こともありました。今思えば、大きな勘違いだったかもしれませんが ・・・
50年といえば半世紀です。
子供の頃、自分自身が30歳になった姿など想像できなかった。40歳なんて
頭の片隅にも浮かばなかった。50歳 ・・・ ありえない。それを今、現実として
受け入れなければならない。悲しいとか寂しいとかの感情はないのです。しかし、
どこか、なにか、やりきれなさが大きく心を覆うものなのです。
「人への感謝の心を忘れず」
家族に今後の人生の抱負を聞かれました。
しかし、今の私に何かを語る資格などありません。あるとすれば、細く弱くなって
大黒柱としての機能を果たしていない今の私を支えてくれている家族への感謝、
そして、根気強く見守って支援してくださっている諸先輩方への感謝の気持ちです。
只々、今は感謝だけ ・・・ 。
■ こんたく堵 ■
間違いなく進んできた
人より考えて歩んできたと
己に言い聞かせたこの一年
しかし、冷静に振り返れば
長くあてのない旅をしていたかも
「半世紀のジャーニー」 かな・・・
いつも人への感謝の心忘れず
多くの人から感謝される勤労を
これからは成し遂げてみたい
第五大成丸
「晴れの特異日」
今日 11月3日は、
言わずと知れた 「文化の日」 の祝日です。 そして、
晴れの日が多い(晴れの確率が高い?) 「特異日」 でもあります。
朝、近所のパン屋さんまで ・・・ 一歩 ・・・ 二歩 ・・・ 散歩です。
空ばかり見て歩いてました。なんと清々しい秋晴れなのでしょうか。
気持ちいい!
「23回目の結婚記念日」
今日 11月3日は、
23回目の結婚記念日でもあります。( らしいです ・・・ )
本当に天気が良い日が多い気がします。そう言えば、23年前の結婚式も
朝方まで激しい雨が降っていて、“結婚式やのに、雨やなぁ~” と話していたの
ですが、式場へ入る頃には雨も上がり、結婚式が終わり、披露宴が終わり、
ブーケを投げる頃には、ウソのような晴天に ・・・ “やっぱ11月3日やなぁ!” と。
昨年は天気が良くありませんでしたが、小豆島への小旅行で楽しめました。
しかし、今年は ・・・ 何の予定もなく、何のお祝いもせず一日過ぎてしまうようです。
まあ、長い結婚生活ですので、いろいろあっていいと思います。いろいろあるから
楽しいとも感じます。とにかく、大きな病気や怪我をせずに23年が過ぎ、24年目に
入ろうとしていることに感謝です。
本当にありがとう!
■ こんたく堵 ■
結婚生活に
継続という言葉は
似つかわしくない
しかし、振り返れば
よく続いてたものだ
と、素直に思う
これから何年?
深く考えなければ
続くような気もする
まあ、相方さんが
どう感じているかは
わかりませんが
いつも
「青天白日」 な
夫婦でありたい ・・・
第五大成丸
「ストレスに効くヤツ」
朝、
ドリップが始まると豆の良い香りが流離います。珈琲が落ち着いた頃を見計らって
大きなコーヒーカップに、これでもかというほど注ぎます。再び、周囲に豆の香り
が立ち込めます。苦み走った豆の香りをカラダに注ぎ入れ豪快に飲み干します。
しかし、(私以外の)家族にはその香りを楽しむ余裕も、豪快に飲み干す時間も
ありません。慌ただしく日常的な日本の朝の光景がそこにあるだけです。
昼、
家にひとり居ると、何とも言えないプレッシャーを感じます。最近、ストレスで
また心身ともに体調が崩れかかっています。そんな時には、コーヒーメーカーに
残しておいた朝の珈琲を飲みます。もはや、香りも味も飛んで冷めきった珈琲を
マグカップの半分あたりまで注ぎ、同量の牛乳を加え電子レンジで温めます。
新たに珈琲を点てる面倒もあるのですが、このいつもと違う味わいが痛んだ心に
効くのです(ストレス解消?)。
そんな時、
使うカップは上品なカップでも大きなカップでもなく、この小さめのマグカップです。
このマグカップがいいのです。仕事と真剣に向き合っていた頃を思い出すのです。
“何やってるんですか?” と、関東弁で少し説教をされている気分にもなって ・・・ 。
■ こんたく堵 ■
“己の欲せざる所は
人に施すこと勿れ”
他人に放った言動は
公私問わず、必ず
自分に返ってくるもの
人生の格言だろうか
昔から
そんなことお構いなし
後輩に説教をする
後輩に説教すれば
後日、後輩に説教される
可能性が芽生える
但し、
後輩の成長なくして
それは成されないもの
そう思えば、
何気に嬉しいものである
しかし、もう、
それを喜ぶ余裕など無いが ・・・
“Mind your own business !”
第五大成丸
「絶対音感の持ち主!?」
うちの末娘は、
小さい頃から、上娘のエレクトーンを見よう見まねで弾いておりました。
一度も習いにいったことはありませんし、上娘が教えていたわけでもありません。
なのに、曲を一度聞いただけで、ほぼ弾けてしまいます。しかも両手で ・・・
そんな末娘は、
校区の公立中学校へ入学して、当たり前のように吹奏楽部に入部しました。
性格的に上級生との軋轢は多少あったのでしょうが、持ち前の明るさで乗りきり、
最高学年では部長となって下級生の面倒を見ていたようです。1、2年でやっていた
お気に入りのアルトサックスをあっさり後輩に譲り、ちょっと地味なバリトンサックス
にスパッと転向した末娘を、何気に心強い存在に思えたのは親の欲目(親バカ?)
でしょうか ・・・
その末娘も、
この夏、部活(吹奏楽部)を引退して、受験生として苦しい秋を迎えております。
まあ、何せ勉強が何よりもキライな子ですので ・・・ 毎日、イライラしてるようです。
その反動でしょうか?家では床が抜けるほど部屋でダンス(もうすぐ学祭で発表?)、
そして、風呂で歌(エコーの利くバスルームでお隣まで聞こえそうな大声で熱唱?)
に没頭しております。
( 写真は、最後の演奏会、代表で挨拶と曲紹介を無難にこなしました )
「親として、大人としてのジレンマ」
親としてできる限り、
本人が後悔しないような将来の進路を選択させてやりたいとは思うのですが、
そう簡単でないことも事実です。昔(私たちの時代)と簡単には比較できませんが、
高校受験そのものより、その先に向かう道筋にハッキリ見てとれる道標がない
ような気がします。時代の流れでしょうが、カラクリが非常に複雑でネチネチした
印象すら持ちます。もちろん、答えは用意されているのでしょうが ・・・
今の時代、
昔よりは若干、個性的な人間を受け入れる社会になってきたかもしれませんが、
それでも選択肢は多くはありません。“自分の個性を発揮して何かやりたい!” と
思っても、その何かを決定しなければ前へ進めないのです。いきなり壁にぶつかる
わけです。その何かを決めれるようなら苦労はしませんし、悩むことも、イライラする
こともないのです。15歳で何を決めろというのでしょうか ・・・
結局、
どの高校を目指すか決めることになります。成績が良ければ選択肢は広がります。
しかし、成績の良い子が個性的な学科があるという理由で、偏差値の低い高校へ
行くでしょうか?その高校が自分にマッチしていると本気で思えるでしょうか?
逆に、成績の悪い子がハッキリと、この高校のこの学科で学びたいと思っても、
偏差値が足りなければ、試験に合格しなければ、入学できないのが今の日本の
教育システムであり、誰かが細~く引いたラインの選択肢を通って、我慢した結果
のみで将来がほぼ決まるわけです。
「これもビジネス社会の弊害?」
特に高校・大学は、
入学する為のハードルを高くするより、いかに本気で学ぼうとしているか、そして、
本当に学べたかを評価するような仕組みに変えなければ、個性が個性でなくなり、
同じような思考の人間が増えるだけの社会になってしまい、それこそ、時代錯誤
と言えるのではないでしょうか ・・・ 。
テレビのクイズ番組で、
街頭インタビューしている姿をよく見かけます。派手めな格好の女性(女子大生)に
“イギリスの首都は?” といった失礼な質問をします。ところが答えられない人が
けっこういるのです。“パリ ・・・?” “アメリカ ・・・?” “首都って何 ・・・?” という
女の子まで ・・・ そんな状態でも卒業できるシステム。そして、就職までも ・・・
戦後の社会構造、あるいはビジネス優先の弊害ではないでしょうか ・・・ 。
「後悔しない選択を!」
定年を迎え、
リタイア後にやっと自身の好きな事を始めて、生き甲斐を見つけたという事例を
紹介しているテレビ番組を観ることがあります。ほとんどが、元サラリーマンの方々
です。逆に言えば、手に職を持って長い年月、職人の仕事一筋にやってきた方々
には無い方向転換です。どちらが幸せか判り兼ねますが、今の若い方々には、
できる限り後悔しない選択をしてほしいものです。と思うと、今の社会では ・・・
■ こんたく堵 ■
得意な分野で身を立て
人生を全うしたいと思ふ人
自然に身をまかせその日
その日を楽しみたいと思ふ人
それぞれに生き方があり
それぞれの生き様となる
ただ、
自分は何が得意なのか?
これからどう進むべきなのか?
袋小路に迷い込んだ人にとって
生き方探しは簡単でないだろう
そう、周囲が理解でき助け合える
社会こそが求められているのでは ・・・
第五大成丸
「モニュメント鎮魂の碑」
淡路島の 「北淡震災記念公園」 の憩いの広場にあるモニュメントです。
四国の彫刻家 流政之氏の作品で 「べっちゃないロック」 というそうです。
人工池の中に、石舞台と御影石を 「野面(のずら)積み」 にした
3基のピラミッドは、伝統工法を活かした石塚をイメージしているそうです。
この形(三角錐)には、“天に向かって平和を願う”
また、3基あるのは、“寄り添って助け合う” という意味があるそうです。
「“べっちゃない” と “べっちょない” 」
“べっちゃない” とは、
北淡路の方言で “たいした事はない” とか “大丈夫” という意味で、
“震災ぐらいでは負けない” という強い気持ちを表したものだそうです。
そう云えば、
姫路(播州弁)では、“べっちょない” と言います。
( 共に、“別条ない” から変化したものだと思います )
たとえば、
ケガや病気をした人に “べっちょないか(大丈夫か)?” と聞きます。
走っていて転んで足を擦りむき、少し血が滲んできた自分の足を見て、
大袈裟に泣いている子供に向かって、“そんなん、べっちょあるかい!”
“べっちょない!べっちょない!” というふうに使います。
この言葉、
大阪では使われていないことを嫁さんに言われて初めて気づきました。
私も大阪での生活が長くなりましたので、ほとんど播州弁を使わなくなりました。
もちろん、地元に帰ると、今もそこら中で使われてます。
特に、「灘のけんか祭り」 で有名な白浜町を中心とした浜側では未だに ・・・ 。
( ただ、若い世代はどうなのだろうか ・・・ ? )
ちなみに、高校時代の悪友(的形在住)がよく使う言葉は、
「なんどいや!?」 ・・・ “何だよ!?” ( 大阪弁で言えば、“なんやねん!?” )
「ごーわく(業が沸く)」 ・・・ “腹が立つ”
です。あまり綺麗な言葉ではありませんが、改めて方言はいいもんだと感じます。
何より、その地域の存在(環境)やそこで育った人の過程(個性)が見えてきます。
また、地元の人同士が方言でしゃべっていると、繋がりを感じたりもします。
北淡路の “べっちゃない” という言葉にも、地元・近所の人同士で支え合えば、
大丈夫(べっちゃない)!という気持ちが込められているのを感じます。それから、
野島断層の保存ゾーンを見学する前に、“震災の語りべ” でもある職員の方から
震災時のエピソードを聞いたのですが、倒壊した家の下敷きとなってたくさんの
方が亡くなられた阪神・神戸地域に比べて、震源地にほど近いこの北淡地域では
犠牲者がほとんど無かったそうです。それは、地域密着の防災ネットワークが
あったからだそうです。
要は、住民の多くが昔から消防(地域の消防団)に関わっており、震災直後から
多くの人が救助や捜索に動いたということと、それぞれの家に誰が住んでいて、
誰がどの部屋で寝ているかまで把握していたということです。この話を聞いた時、
犯罪から身を守るための 「個人情報保護」 という枠組みが、災害時には弊害と
なって自身の身に覆い被さったのだと感じて、背筋に冷たいものが走りました。
今一度、特に都会では、
地域や人との繋がりを見直す必要があると感じます。そして、それぞれの顔と
名前が見える付き合いをして、“べっちゃない?” “べっちゃない!” という声の
掛け合いができる地域コミュニティーを目指すべきかもしれませんね ・・・ 。
■ こんたく堵 ■
人助けなんて
誰もが、そう
出来るもんじゃない
何か起こってから
考えても、そう
動けるもんじゃない
それより、
日頃から近所で
おはよう!
こんにちは!
こんばんは!
ですね ・・・ 。
第五大成丸
「ダラ~っと」
わが家の娘ではありません! ( もちろん、私でもありません!? )
今はコイツ(白熊?のぬいぐるみ)がソファーを占領していますが、
普段、末娘か私が同じ体勢でソファーに寝そべっております。
夏バテしたわけはありません。このソファーでダラ~っと寝そべって、
ひとりでテレビをみるのが心地良いのです。今日も私と末娘が家に居ます。
さて、どちらがこの体勢でソファーとテレビを占拠するのでしょうか ・・・ ?
■ こんたく堵 ■
“お一人様” が
あちこち流行ってる
“流行ってる” は
語弊があるだろうか
けれど、
“みんな一緒” が
煩わしくさえ思えてきた
“お一人様” で
いいんだと割り切る
“お一人様” の
意外な心地良さを知る
これも、
時代の流れなのか?
それとも、
ごく、自然な流れなのか ・・・ ?
第五大成丸