KOPATA 挑戦の章

2016年2月の株価はどうなる?1月後半で収まったと思えない。それでも消費税10%か?公務員か?生活保護か?在日の為か?

小江与姫

2010-08-28 17:49:09 | 日記
ふと思ったんだが来年の大河ドラマ小江与って圧倒的に創作な気がする。

年表:
天正元年(1573年浅井長政の三女として誕生。
同年 (9月26日)、父親・浅井長政、父の久政と共に自害
天正10年(1582年)6月2日 本能寺で叔父・織田信長死す。
天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いで北ノ庄城が落城、柴田勝家と母・市の
自害後は羽柴秀吉(豊臣秀吉)に保護される。
天正12年(1584年)、秀吉の命により11歳で母の姉(お犬の方)の子・
佐治一成へ嫁ぐ。
小牧長久手の戦(1584~1586年)織田信雄(信長次男)を擁立した徳川家康
夫の佐治一成が味方したため、秀吉の怒りに触れ、一成は所領を没収
されるとともに江と離縁させられた。
天正?年 秀吉の命で豊臣秀勝がお江を娶る。
文禄元年 豊臣秀勝との間に(1592年)娘の完子誕生。
天正?年の文禄の役には8,000の兵を率いて、細川忠興とともに九番隊の大将
として出陣するが、夫・豊臣秀勝巨済島にて病没する。
文禄4年(1595年)9月17日 23歳で徳川家康の嫡男・徳川秀忠に嫁す。
子である完子は、長姉・茶々の猶子として引き取られた。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東海道を進む家康本隊に対して、
中山道を進む夫・秀忠は途中で3万の大軍でもって上田を落とそうと
真田昌幸、幸村親子と戦闘を行うが、逆に翻弄され、関ヶ原に間にあ
わず大失態。秀忠は家康に必死の弁明。(崇源院)は行動せず。
同年 関ヶ原の功績により家康2男・結城秀康が越前北庄67万石に加増移封。
同年 関ヶ原の功績により家康4男・松平忠吉が尾張清洲52万石を与えられた。

慶長8年(1603年) 娘の千姫が豊臣秀頼に嫁ぐ。
同年          徳川家康が征夷大将軍に就いて幕府を開く。
慶長9年(1604年)6月 長女・完子が九条忠栄(後の幸家)に嫁ぐ。
慶長9年(1604)7月、結婚10年目にして、ようやく嫡子・竹千代(徳川家光)
を生む。
同年   嫡子・竹千代(徳川家光)の乳母に最大のライバル春日局が正式に
任命される。
   慶長10年(1605年)家康はわずか2年で秀忠に将軍職を譲った。
慶長11年(1606年)に弟・国松(後の徳川忠長)が誕生する。
慶長12年(1607年) 閏4月8日家康の次男・結城秀康死去。(一説には秀忠
暗殺説あり)
慶長12年(1607年)、関ヶ原の戦いの折に負傷した傷[1]がもとで家康4男
松平忠吉江戸で死去。(一説には秀忠暗殺説あり)忠吉の後を
継ぎ、家康の9男で7歳の徳川 義直尾張国清洲藩主になる。
慶長14年(1609/1月5日)徳川家康の11男の徳川頼房が実兄頼将(頼宣)の
駿河転封によって新たに常陸水戸城25万石を領した。
慶長14年(1609/10月4日)江戸城において中宮:源(徳川) 和子誕生。
慶長14年(1609年)淀君(長女)、初(次女)、豊臣の為に奔走。小江与は
無視。または家康に遮られたのかとにかくシカト。
慶長15年(1610年)、家康6男・松平忠輝越後高田藩主(福島城主・後述)
に任じられ、このとき川中島12万石と併合して合計75万石の太守に任じ
られた。
慶長16年(1611年)5月7日、第2代将軍徳川秀忠の浮気により四男・幸松
(保科正之)
誕生。恐妻家で知られる夫の秀忠は(崇源院)に知られな
いよう武田信玄の次女・見性院穴山信君正室)に預ける。一説には嫉妬
に狂った(崇源院)の毒殺等を恐れてのことと言われるが、まず間違い
ないだろう。
慶長19年(1614年)、大坂冬の陣勃発。(崇源院)の姉・初は、長女淀君の使者として徳川側の
阿茶局とともに和議を取りまとめ両家の和睦に尽力した。
慶長20年(1614年)大坂冬の陣で夫秀忠が家康に対して豊臣方への強攻策
を主張。お江与ガン無視。恐らく秀忠なら止められただろうが、淀の方や豊臣を秀忠同様に毛嫌いし
ていた節があると思われる。せっかくセレブになったのにあたしから幸せを奪うなら殺してやるって
感じですか?
同年/5月28日  中宮:源(徳川) 和子京の二条城に入る(5月28日)。
同年/6月2日  後水尾天皇(25才)従三位に叙位。6月2日和子は後水尾天皇(25才)に入内。
慶長20年(1615年)大阪夏の陣で真田幸村、長宗我部元親など外様大名奮戦するが、力及ばず豊臣家滅亡。
豊臣秀頼、淀の君、大阪城にて自害。娘の千姫、姉初は救出。
同年 秀頼の実の娘であり、千姫の養女でもあった奈阿姫を戦後特別に助命。して縁切り寺として有名
鎌倉東慶寺に入る。この際、縁切り法を確立させたという。後にその20世住職となる。
同年 この頃から、江(崇源院)は姉の初とよく会っていた。

1615~1616年  秀忠、江(崇源院)は家光の弟・忠長を溺愛。危機感を
憶えた春日局家康への家光家督相続への直訴(異説あり)。


元和2年(1616年)4月、父・徳川家康が死去。家康は今際の際に秀忠・
義直・頼宣・頼房らを枕元に呼びながら、忠輝だけは呼ばなかった。
元和2年(1616年)5月には、竹千代の守役として酒井忠利内藤清次
青山忠俊の3人が家光付けの年寄となり、9月には60数名の少年が
小姓として任命され、家光の年寄衆・家臣団となる。
元和2年(1616年)に家康が死去した後は夫・徳川秀忠が将軍親政を開始。
セレブ嫁・(崇源院)誕生。狸ジジイが死んで怖い者は何もない。
同年 家康の死で竹千代(徳川家光)、春日局と江(崇源院)、国松(後の
徳川忠長)が正式に対立。竹千代(徳川家光)母の狂気に怯える。
同年 娘の千姫が姫路新田藩主・本多忠刻と再嫁。
元和2年(1616年)7月6日、松平忠輝が大坂夏の陣の際に不行跡があったこと
を譴責され、兄・秀忠から改易を命じられ、伊勢朝熊に流罪。(再び秀忠
陰謀説強し)

元和3年(1617竹千代(徳川家光)、春日局、西の丸へ移る。
元和4年(1618年)9月に国松(後の徳川忠長甲府藩23万8000石を拝領し、
                      甲府藩主となる。家光派、忠長派の対立激化。
元和5年(1619年)徳川 頼宣紀伊国紀州藩55万5千石に転封。
元和6年(1620年)竹千代から家光に改め徳川家光正式に誕生。従三位権大納言
に任官する。同じ頃、国松も正式に国松徳川忠長と名を改め中納言
任官。家光将軍家の家督相続権取得。
元和9年(1623年)6月 徳川秀忠上洛。家光上洛、家光将軍となる(7月)
同年・7月   秀忠は江戸城西の丸に隠居し、家光本丸に入城。
同年・12月 摂家鷹司家から鷹司孝子が家光に輿入れ。
寛永元年(1624年徳川忠長、7月に駿河国遠江国の一部(掛川藩領)を
加増され駿遠甲の計55万石を領有する。
寛永3年(1626年)9月15日 江戸城西の丸で(崇源院)死去。この時、
秀忠・家光・忠長は上洛中であった。埋葬方法は火葬。(一説には
秀忠、忠長上洛を見計らった暗殺説ありだが、憶測の域)代々徳川家では土葬で
埋葬される習いであるが歴代の徳川家でお江与(崇源院)のみ火葬されたことで、
暗殺の疑いを濃くされる。また、家光、春日局)が、この事を黙認したこと
を踏まえても息子とその乳母に相当恨まれていたようだ。
寛永3年(1626年)11月28日、(崇源院)従一位を追贈される。



何か来年の大河は離婚に関しては秀吉の性(実際は夫の性)、大阪冬・夏の陣では悲劇のヒロイン、
(豊臣、淀憎し)、春日の局とのバトルでは涙、涙の婦人節で惜しまれて死んでいった感じ(ホントは国松
可愛さの暴走)にまとまりそうな気するな~。私の中では春日局(正義)、江=崇源院(極悪)に見える。
姉(淀、初)や夫(秀忠)に強く、舅(家康)や、ライバル(お福=春日局)に弱い内弁慶的なイメージ。
何にしろ来年もセレブ大河か~。あの脚本家のことだから徳川幕府を開いたのは、江=崇源院とか主張しそ
うだ。
所で史実を見て気づいたが、(崇源院)の中では、関ヶ原以後、凋落した実姉の淀君(茶々)より、
栄えた徳川一門の自分の方が偉いという格上意識が芽生えている気がする。なので姉を軽視した
一面が多々見られる。淀君は烈女だったが実の妹・初や出身の近江武士などには寛大だったとよく聞く。
(崇源院)は実の娘や、息子の国松(後の徳川忠長)を溺愛していたが、家光を殺そうとしたり、
長女の淀君を家康怖さに実質見殺した所を見るとかなり傲慢で冷徹な面がある。(ある意味淀君もだけど)

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